2010年9月15日水曜日

ピンドラーマ2010年8月号(その2)

<ブラジル版百人一語>
ルイス・ダ・カマラ・カスクード(民俗学者)


「ファリーニャ付きフェイジョンは先住インディオのものであり、煮込み肉や炒め肉が入るとポルトガル式となり、フェイジョアーダの通俗版ともいえるカルネ・イ・フェイジョァンとなる。黒人奴隷は、それぞれの要素を別々に受領して、インディオ的モデルを採用した。
肉ないし魚をファリーニャなしに食べることは出来ないからだ。(中略)
 我々が今日” フェイジョアーダ” と呼んでいるものは、ヨーロッパ的なソルーションであり、それが更にブラジルで進化し、完成されたものである。ポルトガルの技法とブラジルの原材料の合体だ。マルジャーダ、ノルデスチのファンダンゴ(南欧起源のダンス)、コンゴ、コンガーダ(アフリカ起源の舞踏様式)といった伝統的な宗教演劇や農村舞踏についても、(フェイジョアーダと)同様の、テーマ別集中・混合が起きている。」

 日本の民俗学における「旅する巨人」宮本常一は、その自伝的著書『民俗学の旅』のなかで、「人びとの日々営まれている生活をもっとつぶさに見るべきではなかろうか。民俗誌ではなく、生活誌の方がもっととりあげらるべき」と主張し、「無字社会の生活と文化」が民俗学の研究対象と規定しつつも、文献資料の尊重も強調した。一方、「ブラジルの宮本常一」と筆者が勝手に命名しているカマラ・カスクード(1898-1986) は、リオグランデ・ド・ノルチ連邦大学法学部教授(専門:国際公法)が本来の正業だが、並行して民俗学研究を行うという二足の草鞋を履き続けた奇才であった。
 速筆の文章家であった宮本常一は膨大な数の著作(未来社版著作集はこれまで42 巻)を残したが、カスクードも多作で、ある研究書によれば、その著作数は小冊子を含め144 とか。代表的なものだけを列記しても、『ツピー語魚名』、『ヴァケイロとカンタドール』、『モンテーニュとブラジルのインディオ』、『ブラジルの伝説集』、『ブラジル民話の地理学』、『口承文学』、『ブラジル民俗研究事典』、『ジャンガーダ』、『ハンモック』、『ダンテとブラジルの大衆的伝統』、『モーロ、フランス人とユダヤ人』、『カシャーサ序説』、『文明と文化』、『庶民の宗教』、『ブラジルにおける食文化の歴史』、というように民俗学、社会学、歴史学、地理学、文学といった境界を自由に飛び越えた作品群を残している。もちろん、” 本業” の国際法に関する論文もあるし、法学を修める前に医学を3 年まで学んだ人だけに、理科系の文献資料も自在に読み込んでいる。まさに博覧強記の異才だ。今流行りの言い方では、多文化主義の理論と実践を自ら展開した才人、となろうか。

サンパウロ大学やパリ大学から教授招聘の話が来ても、「故郷ナタールを離れたくない」からと、頑として固辞したカスクードは、自らを“provinciano incurável(救いがたい田舎者)” と称していたが、ノルデスチの一角から世界を見据えていたのであって、田舎に引き篭もった内向的郷土史研究者ではなかった。民話調査ではブラジル全土を歩き、食文化調査ではギニア・ビサウ、アンゴラ、モザンビークなどアフリカ旅行も行っており、実地調査できなかったところは、文献で世界を体験していた。なにしろ、古典語(ギリシャ語・ラテン語)はもとより、英語、フランス語、イタリア語などにも堪能であったから、史料の読み込みは半端ではなかった。
冒頭の引用は『ブラジルにおける食文化の歴史』の下巻からであるが、彼の主著の一冊といえるこの著書は今日の読者にとっても圧倒的に面白く、興奮するほど知的好奇心をくすぐる本だ。各章のタイトルを列記すれば、先住インディオ食文化、アフリカ食文化、ポルトガル食文化、食文化の社会学、基礎食材、料理法、食事のリズム、食事にまつわる迷信、ブラジルの飲料、ブラジルにおけるアフリカ料理の神話と現実、といったところで、ブラジルの食文化のルーツがどこで、オリジナルとどう変容ないしどう混合して現在の食事が出来上がったか、が詳述されている。文献調査から得られた知見と自らの調査・体験がカスクード風にカクテルされ、ノンフィクション作家の文体ともいえるような読みやすい文章でつづられているのだから、面白くないはずがない。
サンパウロやリオのアカデミズムの主流から外れていたが故に、一時期忘れられかけたカスクードだが、21 世紀に入ってから、主要著作選集が再刊行され、研究書も複数発表されている。遅ればせながらの“ カスクード再発見” といえよう。

岸和田仁(きしわだひとし)
東京外国語大学卒。二度目のブラジル滞在(前回と合わせると、延べ19 年間)を終え、09 年6 月帰国。
ブラジルを中心とするラテンアメリカ研究は継続中。著書に『熱帯の多人種主義社会』(つげ書房新社)。
新しい著書を” 工事中”。



<新・一枚のブラジル音楽>
エロマール「ガヴィオン河岸の崖より」 
ELOMAR “DAS BARRANCAS DO RIO GAVIÃO”
「エロマールElomar」。日本人にとっては奇妙な響きの名前を持つこのミュージシャンの存在をはじめて知ったのは、高校の同級生でボサノヴァ・アーティストの臼田道成がブラジルへやって来て我が家に仮寓していた2004 年の終わりか2005 年の初めのことだったろうか。臼田が友人に薦められたと言って持って帰って来た(買ったのかもらったのか記憶が定かでない)ブラジルの連続テレビドラマ「ガブリエラGabriela」のサウンドトラック盤は、マリア・ベターニアMaria Bethânia、ジャヴァンDjavan、ガル・コスタGal Costa、ジョアン・ボスコJoão Bosco といった日本でも有名な錚々たるMPB アーティストが名を連ねているのだが、アルバムの終わりのほうに一風変わったギターの弾き語りの曲があった。ビート(リズム)、コード進行、メロディー、カデンツ(終止形)など、私たち日本人がブラジル音楽としてイメージするサンバ、ボサノヴァ、MPB とまったく異なった聴き慣れない音楽。奇妙と言ってもいいかもしれない。しかしながら聴いていると引き込まれていく。それがエロマールの「Retirada(旱魃を逃れる移住のこと)」という曲だった。とても気に入ったのでレコード店を探して見つけ出したのが、ここで紹介する「Das Barracas do Rio Gavião」というアルバムだ。
エロマールはフルネームをエロマール・フィゲイラ・メロElomar Figueira Mello という。1937 年12 月21 日生まれ。バイーア州内陸部の都市ヴィトリア・ダ・コンキスタVitória da Conquista の近くにある家族所有の農場で生まれ育ち、バイーア連邦大学で建築学を修めたが、内陸部での生活を好み、大半の時間を農場で過ごしている。1950 年代から60 年代にかけてのブラジル映画一大ムーブメント「シネマ・ノーヴォCinema Novo」の旗手グラウベル・ローシャGlauber Rocha(1938 - 1981)、ミュージシャンのシャンガイXangai(1948 -)らと姻戚関係にあり、ともに18 世紀にヴィトリア・ダ・コンキスタの街を創設したポルトガル人ジョアン・ゴンサルヴェス・ダ・コスタJoão Gonçalve da Costa の直系の子孫である。
聴いてもらえばわかると思うが、エロマールの音楽は独特だ。「ポルトガル人がブラジルの北東部に持ち込んだイペリア半島とアラブの伝統の影響を受けた音楽」とウィキペディアでは説明されているが、筆者の限られた音楽体験の中においては、ユニークとしか言いようのないスタイルである。つぶやくような歌い方はボサノヴァの創始者ジョアン・ジルベルトJoão Gilberto を連想させるかもしれないが、ジョアン以上に枯れた声だ。全編ギター一本の弾き語りで、歌のメロディーを奏でながら同時に伴奏もするギターの奏法はオリジナリティに富んでいる。また、北東部の口語表現(とんでもないポルトガル語だ!と先生は言うかもしれない)をふんだんに取り入れた歌詞も特徴的だ。例えば本アルバムの2 曲目「O Pedido(頼み)」という曲の一部を挙げてみる。

Apois sim vê se num isquece
Quinda nessa lua chêa
Nós vai brincá na quermesse  
Lá no Riacho d'Arêa       
Na casa daquêle home     
Feiticêro e curadô        
Qui o dia intêro é home     
Fiiho de Nosso Sinhô      
Mais dispois da mêa noite    
É lubisome cumedô  

見ていなくても忘れない
今でも満月の夜に
「砂の川」の祭りの市へ
私たちは遊びに行く
あの男の家
魔法使いで治療師の男
昼間はずっと人間で
イエス様の息子
だけど真夜中を過ぎると
人食いの狼男

発音に擬して綴りを変えてあるし、文法的に間違った表現もあるが、自身が生まれ育った北東部の表現を、プライドを持って意図的に使っているのは間違いのないところだ。
驚くなかれ、本アルバムのライナーノーツを書いているのはボサノヴァ界の大御所ヴィニシウス・デ・モラエスVinicius de Moraes(故人)である。一部引用しよう。
「・・・そこでは彼(エロマール)同様生きるために水分を必要としない動物と植物だけが生き残るのだが、その場所に新たな境界標識の杭を打ち込み、友人たちすなわちガラガラヘビとタランチュラの間で安らいで、ギターを弾きながら美しいバラードの数々を作曲し、自分だけの星のプランテーションを眺めるのだ。目が空に慣れるにしたがい星は乾ききって容赦なく増えていき、視線は無限のラティフンディウムの中を、新しい天の農場をいくつも、向こうへ、ずっと向こうへと貫いていく。」
エロマールの暮らす北東部カアチンガ(乾燥地帯)の雰囲気が伝わってくるようだ。
本稿を書くにあたりインターネットでこのアルバムが入手可能か調べてみたが、見つからなかった。しかし、ブラジルのポータルサイトUOL の中のUOL RADIO で全曲フルタイムで聴くことができる。
http://www.radio.uol.com.br/album/elomar/...das-barrancas-do-rio-gaviao/18119
本人のオフィシャル・サイトもあり、ディスコグラフィーで本アルバム以外の作品も知ることができるので、ぜひアクセスしてみてはいかがだろうか。
http://www.elomar.com.br

川原崎隆一郎 (かわらざき りゅういちろう)
本誌発行責任者。1993 年よりブラジル在住。



夢のリオマラソン体験記

7 月18 日に行われたリオマラソン。そのハーフマラソンに参加したのはボクシング教室主催元日本ランカーのOさんとその仲間達4 名(女性1 名男性3 名)。それぞれのランナーの体験を語ってもらいました。

 今回のハーフマラソンは、セントロから南14km に
位置するサン・コンハード海岸を出発し、レブロン・
イパネマ・コパカパーナと世界に名だたる景勝海岸を
抜け、ボタフォゴ海岸からフラメンゴ公園に達する全
長21km のコース。
 道中の景色はそれはもう素晴らしく、青い海に青い
空、光り輝く砂浜、吹き抜ける潮風、ビーチで遊ぶビ
キニ姿のイパネマ娘たち、沿道の人達から声援を受け
颯爽と駆け抜ける我らアスリート。まさに世界中のラ
ンナーが憧れる夢のリオマラソン、のはずだったので
すが、スタート地点は小雨交じり。
 しかも最悪なことに、タクシーでスタート地点に向
かうもこの大会に伴う交通規制のせいで起きた渋滞の
ために、時間になってもスタート地点にたどり着けな
いという事態に。
 ところが、何とかなってしまうのがブラジルです。
周りの人たちもスタート時間は遅れ、しかもそぼ降る
雨に打ち濡れながらだというのに、すごくワクワクと
楽しそうにしています。


 実はその時、そもそも完走できるかどうかさえ不安
な我らメンバーはかなりナーバスになっていたのです
が、自然と彼らの陽気さに染まっていったような気が
します。

1)I さん

 スタート。いつもは最初の4㎞くらいがいちばん辛
い。一緒に来ていた仲間たちの姿はだんだん小さくな
り、そして見えなくなっていきました。

 そうこうしているうちにコースは上り坂に入り、リ
アス式海岸を旧市街に向かってそってくねくねと進
んでいきます。眼下には切り立つ崖を大西洋の荒波が
洗っています。そして前方遙かに見えるのは波間に浮
かぶ二つの岩山。そうだあれがカヘフール・・・じゃ
なかったポン・ジ・アスーカルです。
 しばらく走りながら、その美しいたたずまいにうっ
とりと見とれていました。そうだ私は今リオに来てい
るのだ。普通に日本で暮らしていたら行きたくてもな
かなか行けないような夢の景色の中を今走っているの
だと思うと、じわじわと感動が胸にこみ上げてくるの
を感じました。元気が戻ってきました。
 坂を下りればレブロン。それからはあっという間で
した。ハーフマラソンの21㎞は一般人にとって決して
短い距離ではありません。しかしこの日は、右に美し
い海岸線を見ながら、そして左にリオの人たちの声援
を受けながら無限のエネルギーを受けたような気さえ
していました。
 ふと周囲を見渡せば、いろいろな人がいました。後
ろ姿が抜群のスタイルの美しいお嬢さんもいました
が、それよりも目立ったのがシニアのランナーたちで
す。一人一人のランナーに、それぞれの人生がある。
当たり前のことですがふとそんなことを考えて思わず
胸が熱くなりました。しかしみんな例外なく、表情が
非常にいいのです。これがブラジルのとてもいいとこ
ろです。
 ますます大きくそびえるポン・ジ・アスーカルに見
守られながら、私もこんなブラジル人ランナーたちと
一体となって走りました。イパネマを過ぎ、コパカバー
ナを駆け抜けました。テンションはますます高くなり、
そしていつの間にかそれを通り抜け、反対側のフラメ
ンゴ海岸のゴールに滑り込んでいました。
 ゴールしてからも私はしばし呆然として快走の余韻
に浸っていました。
 これまでの私なら15㎞地点を過ぎたあたりでトラブ
ルが続出し、ペースダウンを余儀なくされたものです。
しかし今回はまったくそんな感じはしませんでした。
走ることがこんなに楽しいことだなんてついぞ思って
もみませんでした。
 最後に、2 時間を超えてレースの雰囲気を共有していただいたブラジル人ランナーの皆さん。沿道で手を叩いてくれたおばあさん。親指を立ててにっこりと微笑んでくれた男の子。無数のボランティアの皆さん。皆さんのことは決して忘れません。

2)Oさん
 人生初のハーフマラソン21kmに挑戦。
コパカバーナ海岸のホテルからスタート地点の海岸までタクシーで移動したが、その距離があまりに遠く、その移動の時点で参加したことを後悔。
スタート前に友人とGood Luck と声を掛け合うが、まだ覚悟のつかないままスタート。
小雨が強くなってきた、でもブラジル人は楽しそうに騒ぎながら走っている、「幸せな民族やな」、その横でまだ気持ちのスタートの切れていない自分がいる・・・。
最初の3km くらいまでは果たして完走できるのかという不安や毎日の出来事などが頭をよぎっていたが、少しずつランナーズ・ハイの状態に、そして5km も過ぎればブラジル人の笑い声もなくなり、皆黙々とゴールを目指し始める。
給水ポイントで水を取ろうとして一瞬止まりかけたが、そのときの前足の筋肉がピクピクと疲労を感じて、「ヤバイ、これは止まるともう二度と走れないな、よし、とりあえず行ける限界まで行ってみよう」と作戦を玉砕戦法に切り替える。
おそらくこのあたりからやっと前向きにマラソンを走りきろうという覚悟になってきたのだろう、ポジティブシンキングの重要性を実感。
6 キロ地点で海岸沿いの上り坂に差し掛かった。なぜか高校時代のマラソン大会の思い出に耽りながら、坂道でブラジル人のペースが落ちるなか少しずつ巻き返すのが何となく嬉しい。
8 キロ地点ほど来ると、体が慣れてきたみたいで意外に体が動くやん?!と少し楽しい気持ちになったと思えば突然体がきつくなったりと、1 キロ毎に体調の波が押し寄せるが、15km を過ぎコパカバーナ海岸まで戻ってきたら、よくここまで走ったなーと。あとは根性でゴールを目指す、最後は右にポンジアスーカルを眺めながらゴール!!
あのタクシーで移動した長い距離を自分の足で走れた、ということに不思議な満足感がありました。

3)T さん
スタートしていきなり水たまりに足を入れてしまい靴の中ビッショリ。
それでもめげず、いつものように自分と同じ走力の適当なペースメーカーを探すも、今回はなかなか見つからず。15 分ほどしてようやく見つけたのがポパイにでてくるブルートそっくりのおやじ。

 でもこんなデブおやじで大丈夫かな。しばらくそのブルートにピッタリついて走る。あれっ、調子わるい。ブルートについていけない。20 分後ズルズルと離されブルートとはさようなら。 次に見つけたのがドラえもん体型の眼がクリっとしたブラジレーラ姉さん、ドラミさん。ドラミさんはペースがチグハグで後ろについて走るには向いてなかったけれど、なぜかガンバってる姿が初々しく、結局終盤までダンゴのような併走。 でも最後はブルート同様置いていかれて、さようなら。あぁ、足が動かない…。最後まで調子はあがりませんでしたが、終始ポン・ジ・アスーカルに見守られ、「あとXX km」の看板を心の支えにどうにかゴールまで辿り着きました。 同行した仲間4 人も皆無事完走を果たし、各自それぞれのドラマと次なる野望を胸にリオをあとにしたのでした。お疲れさまでした。


最後に色々と御手配頂いたリオマラソン公式スポンサーのAsics 社の皆様にこの場を借りて御礼申し上げます。



世界遺産の街 アルヴァドール Salvador

16 〜18 世紀の間、ブラジル最初の首都として約200 年間栄華を誇った街サルヴァドール。アフリカからの奴隷貿易の中心地であったためアフリカ文化の影響が今でも色濃く残っており、また町中至る所にカトリックの教会があるため、「黒いローマ」と呼ばれている。



1985 年にユネスコの世界文化遺産に指定された旧市街・ペロウリーニョ広場

旧市街(セントロ)は石畳が敷き詰められた道に、バロック様式の建築物が数多く建てられており、静かなたたずまいの中に、古都のありし日の歴史を物語っている。

黄金の教会


数多くある聖堂のうちでも、最も有名なのがサン・フランシスコ教会だ。聖堂内部は壁も天井も祭壇も、金箔で埋め尽くされており、その内装の豪華さから“ 黄金の教会” と呼ばれている。青と白のタイル画の画廊に囲まれた中庭も見応え十分だ。

奇跡の教会

願いがかなう“ 奇跡の教会” として篤い信仰を集めているボンフィン教会。特に怪我や病気に効くということから、教会の内部には治った人が感謝の気持ちを込めて贈った、マネキンの手足や結婚式の写真、子供の写真がたくさんある。

迫力満点の郷土芸能ショー

旧市街にあるTEATRO MIGUEL SANTANA では、 カポエイラや火のダンス、サンバやカンドンブレーなど郷土芸能のショーをじっくり堪能することができる。

ウミガメ保存プロジェクト

プライア・デ・フォルテ海岸は、ウミガメの産卵場所として知られている。海岸にあるウミガメ保存プロジェクトの本部では大小様々なウミガメのほか、色々な海の生物を間近に観察することができる。



<パサリニャー!!>
ブラジルの鳥を見に行こう!


ROLA(ホーラ)
学名:Columbina talpacoti
和名:ケアシスズメバト

「ノアの箱舟」という言葉を聞いたことのある方は多いと思いますが、その動機や経緯、結末までご存知の方はそれほどいらっしゃらないかも。
世の中を暴虐で満たした人類を根絶するために、神が、公正な人・ノアに命じ、彼の家族のほか、すべての生物種から一番(ひとつがい)だけを船に乗せ、世界全土を覆いつくす大洪水からそれらの命を保たせた、というお話。
なにやら、今日起こっても不思議でない、耳の痛いお話です。
40 日の後、ノアはある鳥を放ち、鳥がオリーブの葉を持ち帰ったことで、洪水の終息を知ることになりますが、この鳥がハトでした。
人類とは古いお付き合いです。
その後の中近東古代社会でも、ハトは神へのお供え物として指定されていました。
古くから相当身近な鳥だったのでしょう。
日本でもそんなに遠くない昔、ハトは平和の象徴として記念式典などで大量に放たれました。そういったハトはお寺の境内などに群生、ちょっとした、もしくは深刻な環境問題になってもいるようです。
だから現代でもやはり相当身近な鳥で、スズメとどうか、というレベルです。
身近の度合いが強すぎて、逆にあまりインパクトがない、というのも事実で、バードウォッチャーなどの熱烈な対象となっているという話は聞いたことがありません。
サンパウロにもやっぱりいっぱいいます。 家禽(かきん。飼育する鳥)が野生化したドバトを除く野生種の代表がこれでしょう。
もちろんサンパウロのみならずブラジル全土に分布、ブラジルでももっとも普通のハトです。
もともと草原などの開けた場所を好み、大都会の公園でもよく見られます。
体長が17cmほど。日本で普通に見られるドバトやキジバトが30cmほどですから、印象としてかなり小型ですね。公園を散歩していると数羽の小鳥が一斉に飛び立つことがよくあります。それはスズメであることもありますが、案外このハトだったりします。大きさも色合いもなるほど遠くから見ればスズメに似ているかも。それでついた和名が「雀鳩(スズメバト)」いうわけでしょうか。「ケアシ」は「毛足」でしょうが、見た目それほど毛深くはないようです。
羽ばたく時にちょっとオカリナを吹くような音がするのでスズメとは容易に区別できるものです。
ご夫婦で公園へ出かけられる機会、ありますか。このハトを追いかけて観察を続けると、木の枝に番でとまり、仲睦まじくお互いの羽繕いなどをしている姿が見られます。
そんな光景を見上げながら、ベンチで語り合うなんて、ややレトロでしょうか。

服部 敬也(はっとり ひろや)カンポグランデ在住
hiroya@terra.com.br
http://blogs.yahoo.co.jp/momotusmomota

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