2010年4月22日木曜日

ピンドラーマ年間定期購読

ピンドラーマの年間定期購読の申し込みがオンライン上でできるようになりました。
ブラジルだけではなく、日本からもお申し込みいただけます。

http://www.editorakojiro.com/assinantes_japones.html

2010年4月20日火曜日

ピンドラーマ2010年3月号⑧広告掲載企業一覧

以下の方々に広告を掲載いただきました(掲載順、敬称略)。
ありがとうございます。

日本通運
アキタ美容クリニック
shunkun ARTES E CURSOS
インペリアル宝石
Transfer Inn
Daikiti Travel
Qualys Prodont 歯科クリニック
高野書店
CALJ TREINAMENTO E ENSINO DE IDIOMAS
MARUITI
レストラン・ニュー美松
日本食レストラン栄
味彩
YOKA
ぶえの
ランショ・ダ・トライーラ
八代
レストランさむらい
焼き鳥ハウス・ポルケ・シン
玉ゆら
PAULO'S
池田レース
林プロポリス
TAMPOPO
KWin
Silence Acústica
小松歯科クリニック
Smiling Clinic
オーソバイト・クリニック
NEOVISE 中野眼科
サービス・グローバル
レストランらん月
秀樹すし
焼鳥屋 YAKITORI
鮨処 浜長
老舗の和菓子屋 金澤
Abyara
むつみようちえん
OCS YACON
CLÍNICA NAGAYA サンパウロ・カイロプラティック・センター
SAMWAY
秋山診療所
カオリ眼鏡店
カトレヤ Gifts
TRENDY TURISMO
PARAÍSO LINE
Nassui Alimentos
Usycargas
USYTUR
HIKARI TRAVEL
Paulista Video
Yakult
FERTICLIN
TOYOTA
レストラン「ア・ミネイラ」

2010年4月19日月曜日

ピンドラーマ2010年3月号⑦<新しいレアル紙幣><ブラジルの道路交通、夜間の信号無視にはご注意><クラッキ列伝・ジェルソン><リベルタドーレス杯開幕>

<摩訶不思議なブラジル経済>
新しいレアル紙幣


ブラジルの株式市場は停滞気味である。年始の70 千ポイントから2 月25 日現在64 千ポイントに下がっている。為替相場もレアルが1 ドル1.723レアルから1.84 レアルまで値下がりしている。昨年後半の過熱したブラジル株式市場に若干調整が入った形だ。流れが変わった原因はギリシャの財政危機がきっかけで、世界的にエマージングマーケットへの資金流入が止まった形である。ただ株価は2008 年の5 月に記録した73 千ポイントの最高値付近でもあり、悲観的になる水準では全くない。さて、最近ブラジル中銀が新しい紙幣を発表した。もしかしたら既に新しい紙幣を手にした人もいるかも知れないが、レアルが導入されて15 年以上が経過したが新たな紙幣の登場である。
今回新たに導入される紙幣は2、5、10、20、50、100 レアル札である。デザインは基本的には従来通りで表に例の肖像でその裏にブラジル固有の動物が描かれることになる。基本的には肖像画は従来通りであるが、動物の絵柄にについては今般新たな絵柄になり、加えて従来は紙幣に対して縦書きであったものが横書きに変更になる。実は新紙幣の構想は2003 年からCMB(Casa da Moeda do Brasil)で開始されたものであり、その主たる目的は通貨の信頼性を高めることで、つまり偽札を作り難くしている。この新たな紙幣のために4 億レアルの投資をしている。
ユニークな変更点としては各紙幣の大きさが異なる点である。従来は縦65 ミリ・横140 ミリ縦と全て同じ規格であったが、100 レアル・50 レアルは縦70 ミリ、横が各々156 ミリ・149 ミリと若干違っており、残りの20・10・5・2 レアル札は縦は65 ミリと従来と同じであるが、金額が小さくなるについれ横の長さが短くなっている。100 レアル札は従来より若干であるが大きくなるので、もしかしたら財布の買い替えが必要になるかも知れない。この変更の理由は紙幣の額面金額の違いを分かりやすくするためで、例えば目の不自由な人などへの配慮である。
さて、気がついている人もいると思うが、1 レアル札はどうなるかというと現状通りで特に変更はない。その理由は簡単に言えばコストに見合わないからである。今回の新紙幣の導入には最新の印刷機械や偽造防止の工夫が様々されており、それらのコストを換算すると従来に比べて紙幣印刷コストは28%も増加するらしい。従って、偽造される恐れが低く、紙幣の磨耗の激しい1 レアル札にコストをかけてまで新調する必要はないとの判断であろう。また、1 レアルは今後はコインが主流になっていくとの思惑もあると思われる。
この新しい紙幣の流通は先ずは100 レアル・50 レアル札が先行され2011 年には20 レアル・10 レアルの流通が開始され2 年以内に全ての種類の通貨が流通を開始することになる。これも、前述のコストに関わる理由で先ず最重要な100 レアル・50 レアル札から紙幣の交換を開始することになっている。尚、現在の紙幣は引き続き利用可能であるので特に心配は無用である。
さて、この新しい通貨が上手く流通するだろうか。新しい通貨の導入にはコストがかかり、一番コストを強いられるのは銀行で、新たなATM を導入したり新しい紙幣に合わせて機械の導入が必要になる。日本で2 千円札が殆ど流通していないのは銀行等のATM にその一因があった。一方で新紙幣の導入はATM 等への投資が必要となりそれが経済をある程度活性化するとの見方もあるがどうなることであろうか。早く新しい紙幣を手にしてみたいものである。


筆者 加山 雄二郎(かやま ゆうじろう)
大学研究員。


<ブラジル社会レポート>
ブラジルの道路交通 夜間の信号無視にはご注意


お前が何を大上段から、と笑われそうなタイトルですが、ブラジルは老若男女を問わず?よくこれで事故が起きないな…と思うことって多くないですか?我が家の近所では、丁字路の曲がった先がまた丁字路で、一つ目を曲がってアクセルを踏めば何とか次の丁字路も青信号で突破できるという微妙な信号設定がされていて、よく知っているドライバーほどアクセル全開で飛ばしていきます。問題はふたつ目の丁字路で、ここを赤になるタイミングで曲がった場合、3メートルほど先に横断歩道があり、そこがすでに青信号になっていることです。歩行者からは車が見えにくいため、通勤でよく通っていたころは、本当に毎日のように、歩行者とあわや人身事故、ということが起こっていました。しかもブラジルでは大きな車ほど威張っていて、青信号になった横断歩道を渡る歩行者の間を、車やバイクがクラクションを鳴らしながら突っ切っていく、ということも多いですね。
自動車学校の先生いわく、ほとんどのブラジル人ドライバーが知らない規則の筆頭は、大きな車ほど小さな車(弱者)の安全に対して責任がある、というものです。これは日本人ドライバーなら(たぶん)当たり前なのですが、信号のない横断歩道を歩行者が渡っていたら車の側が停止するとか、そういうことです。トラックのドライバーは乗用車に、乗用車のドライバーは二輪車の安全に配慮した運転を心がけなければなりません。しかしながらブラジルでは、いわゆる「ガゼルの群れの中でゾウはどこに座る?」のなぞなぞと同じで、大きな車は「好きな所に座る(好きなように走行する)」というのが現状。このため、交通事故の訴訟では、物損や治療費以外に、「倫理上の過失」という項目で慰謝料が加算されることが多いようです。
それから、横断歩道に乗り上げて駐停車させるのも違反。車庫等で横断歩道にスロープがつけられている場所の前に停車するのも違反です。これは、交通技術公社(CET)など交通監督機関が発見した場合は即罰金となります。逆に言えば、ある家を訪問してその車庫の前に家主の同意を得て駐車した場合でも、原則としては罰金が課されるということです。
私自身は、車を運転していてブラジル(サンパウロ)って不便だなぁ…と思うことのひとつは、標識の見づらさです。あらかじめ車線変更するだけの十分な距離がなく突然、二差路など
で行き先の標識が出てきます(そういえば東京
の首都高も、出口が右か左か直前まで分からない標識が多かったように思いますが、今は改善されているのでしょうか?)。もう天寿を全うされましたが、その昔、新聞社勤務時代にいつも私を取材先まで連れて行ってくれていたある一世の方は、この見づらい標識のために幹線道路などでもブレーキをかけたり、ひどいときは止まって強引に車線変更をしようとするため、いつも後ろから追突される事故を起こしていました。「何?バスで行くの?近くに行く予定があるから乗せていってあげるよ」と言われた時は、嬉しくも恐ろしく感じたものです。
日常的に車を運転していてもうひとつ気になることと言えば、治安問題でしょうか。夜間、薄暗い道で赤信号で停車するのはなかなか気持ちが悪いものです。そういった道では午後10 時を過ぎれば、安全を確認の上で信号を無視してもかまわないという説が広く認知されています。実はこれ、単なる都市伝説です。あまりにも誰もが口をそろえて言うので私自身もすっかり信じていましたが、法律の上では24 時間、赤信号の場合は絶対に交差点に侵入してはいけません。でも、強盗に襲われたら…と思うと怖いですよね。赤信号であえて交差点に侵入するかどうか迷うケースでは、なるべくゆっくり交差点まで向かいながら青に変わる時間を稼ぐというように、極力、赤信号で停車するのを避けるのが賢明です。そしてもし後ろの車が追い抜こうとする場合は譲りましょう。交差点で強盗の被害に遭う確率が最も高いのは、交差点の先頭に止まった車だからです。
運悪く違反で罰金が課されたら…。ほとんどの罰金は市単位で設定されており、一部が州単位です。このため、従来は他州や遠方への旅行などの出先で罰金が課されても無視すればいいとさえ言われていましたが、近頃は情報が共有されるようになってきており、そうとも言えません。最終的には、車両登録の更新時に未払いの罰金を清算する必要が生じます。ただし、こうした情報の共有ができていないために、車両登録更新時に罰金の清算が求められないケースが依然として存在するのも事実。このため、「(割引があっても)期限内に払うよりは、車両登録の更新で清算する」という人が少なからずいます。さながら、運試しといったところでしょうか。
ところで、市中で時に張り紙される「罰金を食らった?それならこちら―電話番号―に連絡を」という広告。連絡された方はいますか? 私は恐ろしくて(笑)連絡したことはありませんが、大々的に張り紙をしたりするところを見と罰金のもみ消しではなく、減点の代行ではないかと思うのですが…。ブラジルでは、他人が運転していたことを申し立てない限り、運転者ではなく車両の所有者に罰金(と運転免許の減点)が課されます。これは使用者側の申し立てになるのですが、逆に言えば、自分の罰金(と減点)を他人に肩代わりしてもらうことができる交通システムとも言えます。おおらか、あるいは便利と捉えるか、法律がきっちりしている割には運用がいい加減と捉えるかは、皆さんの心持ち次第です。


筆者 美代賢志 (みよ けんじ)
ニュース速報・データベース「B-side」運営。
HP : http://b-side.brasilforum.com


<クラッキ列伝>
ジェルソン
 

史上最強と未だに称賛の声が止まない1970 年メキシコ大会のブラジル代表。ペレを筆頭に王国が誇る天才たちがアステカの大地で見せた奇跡の数々は、未だに語り草だが、主演ペレのW 杯スリーを演出したのは当時の指揮官だったザガロではなく、ピッチ上の背番号8 だった。
ペレやジャイルジーニョ、トスタンら綺羅星のごとく並ぶクラッキたちにも全く遠慮することなく、彼のスタイルでもある言葉での指示を送り続けた男は「パパガイオ( お喋り)」の愛称を持つジェルソン。
リオデジャネイロのニテロイで生を受けた少年は、やはりプロサッカー選手だった父からサッカーの才能を受け継いでいたが、父にも備わっていなかった能力が、その左足を伝説たらしめた。
おしゃべりなカリオカが、ピッチ上でひときわ存在感を発揮したのは口ではなく、「カニョチーニャ・デ・オウロ( 黄金の左足)」だった。
メキシコW 杯のハイライトシーンでもあるペレやジャイルジーニョの胸トラップからのシュートを決める数秒前に、ジェルソンは必ず自らの左足を鋭く、そして華麗に振り抜いていた。
40 メートルのパスを必ず成功させるだけでも、至難の業ではあるが、ジェルソンに付きまとう評は「40 メートル離れた味方の胸にピタリとボールを送る」。
メキシコW 杯以降も天才ストライカーやドリブラーは絶えず輩出している王国にあって、ジェルソンと同レベルのランサドール( パッサー) は未だ現れていない。
ハーフタイムには必ず喫煙した型破りのクラッキは、現役引退後も数々の逸話を残している。2004 年に公開された「ペレ・エテルノ」の制作の際に、映像の使用を巡ってペレとひと悶着あった( 明らかにペレサイドの無礼なのだが) ことなどから、ジェルソンの姿は一秒も放映されず、胸トラップからシュートのシーンだけが銀幕に流されている。
辛口だが、核心を突くコメンテーターとしても知られるジェルソンは、映画を観終わって一言。
「ペレがフリーで受けたあのパス、いったい誰が送ったのか映画監督に聞きたいぜ。冗談じゃないよな」。
歴史上、王に背いた人間は正当な評価を受けずに、歴史の闇に沈むことが珍しくないが、ペレに公然と「ノー」を突き付けることが出来る左利きの天才パッサーの価値は、永遠に黄金の輝きを失わない。
メキシコ大会の足取りを映画に例えるなら、主演ペレ。脚本・演出ジェルソンなのだから。

筆者 下薗 昌記 (しもぞの まさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002 年にブラジルに「サッカー移住」。約4 年間で南米各国で400 を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などに執筆する。現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。



<リベルタドーレス開幕>


南米各国のクラブがしのぎを削るコパ・リベルタドーレス( リベルタ杯) が開幕した。ブラジルを含めた見どころを探る。
07 年以降のリベルタ杯で、ブラジル勢は毎年決勝で涙をのみ続けているが、今大会はブラジル勢にとって4 年ぶりの優勝のチャンスだ。国内のサポーター数で上位3 位を占めるフラメンゴとコリンチャンス、サンパウロに加えて06 年の王者、インテルナシオナウ( インテル) と昨年準優勝のクルゼイロといった実力ある名門が揃い踏みする。
さらにブラジル勢の優勝13 回を大きく上回る22 回優勝のアルゼンチン勢は、13 年ぶりにボカ・ジュニオールとリーベル・プレートの二強がいずれも出場しないことも王国による王座奪回の追い風となる。
今大会、注目を集めそうなのがクラブ設立100 周年の節目に悲願の初優勝を目指すコリンチャンスだ。エースのロナウドに加えて、元ブラジル代表のロベルト・カルロスが1 月に加入。指揮官のマノ・メネーゼスは07 年にグレミオで準優勝を経験しているが、サポーターからの重圧に負けないベテラン勢を中心に補強を進め、過去に優勝経験を持つFW イアルレイやMF ダニーロらが加わった。負傷がちなロナウドのフル稼働に疑問符が付くばかりか、豪華補強の反面、昨年よりややチーム力は落ちている。特にリベルタ杯制覇に必須の守備力に関しては不安材料が残るのが気がかりだ。
ブラジル勢としては史上初となる7 年連続出場のサンパウロは、過去4 年間ブラジル勢に屈してきた。今夏で海外移籍が濃厚なMF エルナーニスら既存の戦力に加えて、コリンチャンスを上回る補強を敢行。元ブラジル代表のマルセリーニョやシシーニョ、アレックス・シウヴァら過去に一時代を築いた選手たちを獲得し戦力的には優勝の力はあるが、ゴメス監督が理想の布陣を確定するのに苦労しているのが気がかりか。
昨年の全国選手権王者、フラメンゴもブラジル代表のアドリアーノらを中心に既存の戦力を保つばかりか、元代表FW ヴァグネル・ラヴを獲得。前線の破壊力は大会屈指となるが、守備力にはやや不安が残る。また指揮官のアンドラーデも昨年の全国選手権こそ優勝したものの、リベルタ杯を獲得するにはやや力量不足なのも不安材料だ。
ブラジル勢で現状、やや抜け出るのは昨年、好サッカーを展開したインテルとクルゼイロだ。
インテルは元アルゼンチン代表のダレッサンドロが負傷で出遅れているものの要所にタレントが揃う。また昨年LDU( エクアドル) をコパ・スダメリカーナで優勝に導いたウルグアイ人監督のフォサッティが就任したもの心強い。
昨年決勝で涙を飲んだクルゼイロは指揮官、選手を含めてほぼチームを保っての再挑戦となる。組織だった守りと流暢なパスサッカーは南米屈指だが、面子が変わらない故に対策を立てられやすいという泣き所も抱えるのは事実ではある。


筆者 下薗 昌記 (しもぞの まさき)

2010年4月15日木曜日

ピンドラーマ2010年3月号⑥<TREZE TILIAS><ファヴェーラ、サンバ、カーニバル><ナスとしめじのサラダ>

<TREZE TÍLIAS ブラジルのチロル「トレーゼ・チーリアス」>
美しいオーストリア風の町並み

サンタ・カタリーナ州中西部に位置する町トレーゼ・チーリアス。ここはオーストリア移民が作った町で、建て物からその街並みまでオーストリアのチロル地方をモデルに作られており、「ブラジルのチロル」と呼ばれている。白と茶色の2 色で統一された家々を眺めながら町中を歩くと、まるでおとぎばなしの世界に迷い込んだように錯覚してしまうほどだ。



「町の歴史」

1933 年にアンドレア・ターレル農務大臣が大不況で苦しむ祖国を逃れ、同胞約百人と共に新天地を求めて、この町に移住してきた。町の創立者ターレル氏が住んでいた小城のような家は現在、史料館となっており、そこでは移住当初の町の写真や、トレーゼ・チーリアスという町名の由来となった本が展示されている。

「匠の技 木彫りの彫刻」

この町は木彫りの彫刻が盛んで、母国オーストリアの伝統の技を引き継いだアーティスト達のアトリエがあちこちにあり、目を楽しませてくれる。中でも、ゴトフレッド・ターレル氏(創立者ターレル氏の孫)は国際的にも有名で、アトリエの入り口に置かれた4 メートルのキリスト像には圧倒される。




「ミニチュアの町」


町には数カ所、それぞれ趣向をこらした公園がある。その内のひとつ、リンデンドルフ公園には町全体を再現したミニチュア模型が展示してあり、民家に植えられた鉢植えや池の中の魚等、細部まで完璧に作られている。公園内には他に、ヤギ、ダチョウ、カピバラなどを見れる小動物園もある。


「アンドレア・ターレル公園」


町の中心部にあるアンドレア・ターレル公園。創立者ターレル氏を讃える目的で作られた。公園の真ん中を小さな滝が流れ、その両側に樹々が整然と植えられており、散歩に最適の美しい公園だ。





「地ビールをグビグビ」

この町に来たら必ず立ち寄って欲しいのが“ ビヤホール・エーデルワイス”。ここで製造されている地ビール“ ビアバウム”はコクがあり喉ごしも最高だ。塩加減が最高のウィンナーの他、オーストリアの色々な郷土料理を楽しむことができる。





資料提供 サービス・グローバル



<ファヴェーラ、サンバ、カーニバル>


悲しみに終わりはない 幸せにはある
幸せはまるで花びらに浮かぶ夜露のよう
ほのかに揺れて優しく輝き
愛の涙のように流れ落ちる
貧しい者たちの幸せは カーニヴァルの幻想のよう
人々は夢を叶えるために一年中働く
王や海賊、庭師のファンタジア(仮装)を纏うために
そして すべては灰の水曜日に幕を閉じる
悲しみに終わりはない 幸せにはある

カーニヴァルの狂騒が過ぎ去り、灰の水曜日を迎えた2 月17 日。容赦なく照りつける日射しの下、リオは何処もひっそりと静まりかえっていました。まるで街全体が眠っているような、仮死状態にあるような錯覚を覚えるこの日には、ヴィニシウス・ヂ・モラエス作詞+トム・ジョビン作曲による「幸せ(A Felicidade)」がいつも脳裏をよぎります。ヴィニシウス原作の仏映画「黒いオルフェ」に挿入されたこの歌詞とメロディーは、海から昇る朝日のシーンとシンクロしながら、貧しい者たちが住む丘=ファヴェーラの悲しみと幸せを叙情的かつ端的に表現しました。
1913 年に生まれたヴィニシウスは、自らを“ ブランコ・マイス・プレート・ド・ブラジル(もっとも黒人に近い白人)” と形容したほど、20 世紀初頭に下級層の黒人音楽と見られていたサンバをこよなく愛しました。ピシンギーニャやアリ・バホーゾ、ノエル・ホーザ、カルトーラ……等々が活躍した20~30 年代は、サンバが階級差を超えて一般市民の人気を得た時期で、ヴィニシウスはそんなサンバ熱を共有しながら青年期を過ごしました。べつの代表曲「祈りのサンバ(Samba da bênção)」では、美しいサンバに悲しみの一片が欠かせないのと同様に女性は美しさと悲しさを併せ持つべきだ、という意味の歌詞をつづっています。サンバと女性を例えるところにヴィニシウス的嗜好の一端が伺えますが、彼は生涯に9度もの結婚を経験しました。誠心誠意に女性を愛しながらも、別の女性に惚れたら後先を顧みなかったようです。別れる度に、家からは歯ブラシ1本だけを持って飛び出したというエピソードも残っています。


さて前置きが長くなりましたが、今回はファヴェーラとサンバ、カーニヴァルの関係について少し言及してみたいと思います。今年も国内外から70 万人以上の観光客がカーニヴァルのためにリオを訪れ、メインのスペシャル・グループ12 エスコーラ・ヂ・サンバ(以下エスコーラ)は例年通りの豪華絢爛なパレードを繰り広げました。各6エスコーラが2日(日曜と月曜)に分けて出場し、10 項目からなる審査発表は毎年灰の水曜日午後にテレビ中継され、家で疲れを癒すカリオカたちの人気番組となっています。2010 年の優勝は、1936 年以来74 年ぶりとなるウニードス・ダ・チジューカでした(灰の水曜日でも優勝が決定したエスコーラだけは毎年どんちゃん騒ぎで盛りあがります)。
ウニードス・ダ・チジューカは、1923 年創設のポルテーラと1928 年創設のマンゲイラにつぐ老舗エスコーラで、1931 年の創設です。チジューカ地区にあるボレルの丘を本拠地とし、数千人規模の構成員の大半はボレルのファヴェーラ住民が占めています。マンゲイラはマンゲイラの丘、ヴィラ・イサベルは猿(マカコ)の丘、サルゲイロはサルゲイロの丘、エスタシオはサン・カルロスの丘……、というように、多くのエスコーラは丘=モーホ(※ 1) にあるファヴェーラの住民を中心に構成されています。住民たちは居住するファヴェーラをコムニダーヂと呼び(コミュニティの意)、とても強い地元意識を共有し、だからこそパレードの勝ち負けにも強くこだわります。エスコーラを擁するファヴェーラにおいて、エスコーラこそが住民たちのアイデンティティであり、誇りであり、大きな家族のような存在なのです。住民の多くは、現在の最低賃金である月給583 レアル(約2万9千円)を平均的な収入として暮らしています。ブラジル特有の社会格差のなかでギリギリの生活をする彼等が、ひとつに数千万円を費やす華々しいアレゴリア(山車)と共に、ファンタジアを身に纏って年に一度の「ハレ」の舞台でパレードするのです。世界中が注目するリオのカーニヴァルは、それこそ夢のような一時に違いありません。私たち外国人がカーニヴァルの魅力を体感するために、ファンタジアを買ってパレードに参加しそれなりの感動を得ることはできますが、住民たちにはそれ以上の大きな意味があるのだと思います。そしてそれは、彼等だけに与えられた幸せの特権なのでしょう。
冒頭の曲が作られた50 年代には犯罪組織は存在しませんでしたが、80 年代から急激に勢力を拡大し、現在は各エスコーラを擁するファヴェーラのほとんどが犯罪組織に支配されています。ウニードス・ダ・チジューカを擁するボレルの丘もコマンド・ヴェルメーリョ(赤軍団)に支配されており、昨年はライバル組織のアミーゴス・ドス・アミーゴス(友達の友達)と熾烈な縄張り争いを繰り広げました。チジューカ地区では数ヶ月に渡って度重なる銃撃戦が起こり、さらにはアミーゴス・ドス・アミーゴスが支配するヴィラ・イザベルの猿の丘にも攻め入りました。昨年10 月に警察のヘリコプターが撃ち落とされ警官2名が死亡した惨劇は、その抗争の最中に起こりました。その後一帯が停戦状態になったことを知っていたので、今年1月末にヴィラ・イザベルの構成員の付き添いで猿の丘に上ってきました。カーニヴァル直前で浮かれた雰囲気が漂いつつも、ライフルやマシンガンを構えた見張り兵があちこちにたむろっており、いくつもの視線を歩く背中に感じました。
一方ボレルの丘では、カーニヴァル後に州警察が犯罪組織を追放しUPP(平和維持部隊)を駐屯させるという発表がありました。州警察がこの2年間で完全追放に成功したファヴェーラは9つに増えており、その成果は住民と一般市民から高く評価されると同時に、犯罪組織にとってはライバル以上の脅威となっています。今回はカーニヴァル開催中に、反撃することなくボレルの丘から退散し、仲間が支配する外部ファヴェーラへと逃げ去りました。このニュースは、ボレルの丘の住民にとって、カーニヴァル優勝と並ぶ最高のプレゼントとなったようです。
最後に90 年代のファヴェーラで大ブレイクしたファンキ曲を紹介いたしましょう(※ 2)。

俺は幸せになりたいだけなんだ
自分が生まれたファヴェーラを好き勝手に歩いて
そしてプライドを持って
貧しくたって自分の場所があることを感じたいだけなんだ


※1 丘のファヴェーラでは、家に帰る=丘を上るという意味で動詞SUBIR が使われます。対して出かける時は動詞DESCER
例:もう家に帰るんかい?=ヴァイ・スビール・ジャ?

※2 "Rap da Felicidade" CIDINHO E DOCA

筆者 肥田哲也(ひだてつや)
リオデジャネイロ在住、メディア全般。
http://wasabi-brasil.com


<手軽にご馳走>

ナスとしめじのサラダ


暑さの続く毎日、よく冷えたナスとしめじの風味豊かなサラダはいかがでしょう。別々に茹で、熱いうちに塩とオリーブオイルをかけるだけですが、冷めて味がなじむと実においしい。香りの決め手はオレガノ。味のアクセントはオリーブ。ワインやフランスパンによく合い、冷蔵庫で1 時間ばかり冷やしてから食べると最高です。

「材料(4人分)」

1.ナス・・・2 本(日本ナスでもブラジルナスでもよい。ブラジルナスの場合、小ぶりで種の少な
そうなものを選ぶ。)
2.白シメジ・・・1 パック
3.たまねぎ・・・中1 個
4.黒オリーブ・・・10 個
5.オリーブオイル・・・大さじ8
6.塩・・・小さじ4
7.オレガノ(乾燥)・・・大さじ2
8.たかのツメ・・・1 本


「作り方」
① ナスを縦半分に切り、長さを4 等分して、繊維に沿って4mm 程度の薄切りにし、水にさらしたら、熱湯で茹でて、ざるにあけ、水気をよく切る。
② 白シメジは食べやすいように小分けし、熱湯でさっと茹で、ざるにあけ、水気をよく切る。
③ ①と②を別々の器に入れ、熱いうちに、それぞれ塩小さじ2、オリーブオイル大さじ4 を回しかけ、全体を混ぜてなじませ、冷ます。
④ たまねぎは薄切り、たかのツメは種をとって、小口切り。黒オリーブは種に沿って、上下に薄く切る(約6 等分)。
⑤ 器に③と④を入れてさっくりと混ぜ、オレガノとオリーブオイル大さじ1(分量別)で味を調える。盛り付けるときにオリーブで飾る。


筆者 高山 儀子(たかやま のりこ)
青森県出身。和風の手を加えたブラジル料理が得意。
1996 年〜97 年にかけて、日伯毎日新聞に” 味のさんぽみち” を連載。

2010年4月12日月曜日

ピンドラーマ2010年3月号⑤<タルシーラ・ド・アマラール><ブラジルを撮る>

<ブラジル美術の逸品>


【タルシーラ・ド・アマラール 「アントロポファジア( 人喰い)」 】
1929 年 カンヴァス 油彩 126 x 142 cm 
サンパウロ、個人( ネミロフスキ基金) 蔵
Tarsila do Amaral “Antropofagia” Coleção particular(Fundação Nemirovsky), São Paulo.



「気力、体力…私の全てのエネルギーは、少女の頃にファゼンダ( 農場) を駆け回って木登りした思い出、そして、生家で働く黒人女性たちが語ってくれた幻想的な物語から湧き上がってきます」( タルシーラ・ド・アマラール)


真っ先に目に飛び込んでくるのは大きな足と垂れ下がった乳房。20 世紀ブラジルを代表する女流画家タルシーラ・ド・アマラールの代表作の一つが『アントロポファジア( 人喰い)』 (1929) である。
『アントロポファジア( 人喰い)』は、アマラールが1923 年にパリで描いた『ア・ネグラANEGRA』の黒人女性と1928 年に描いた『アバポルABAPORU』というインディオの言葉で表された食人種が組み合わせられている。背景にはバナナの葉っぱやサボテンなどの熱帯性植物が、当時は前衛派と評されたアマラール風のタッチで描かれている。地上を照らす太陽はオレンジの断面にも見える。
「垂乳根(たらちね)」という言葉が思い浮かぶ大きな乳房は、ブラジルでは奴隷制時代から人種を問わず、黒人女性の乳母(ama-de-leite) が子どもたちを育てた習慣のあったことをシンボリックに表している。一方、『アントロポファジア( 人喰い)』というタイトルは、アマラールの二度目の結婚相手だったブラジルの文学者オズワルド・デ・アンドラーデ(1890-1954) が提唱した文芸運動の名前と重なる。
“ 人食い習慣のみが我々を結びつける。社会的にも、経済的にも、哲学的にも”(オズワルド・デ・アンドラーデの言葉)
20 世紀初頭にパリの地を踏んだブラジルの知識人や芸術家は、帰国後、それまでヨーロッパの亜流と見られがちだった欧風文芸から離れたブラジル独自の新しい作風を目指した。それがブラジルの近代芸術を生みだす原動力にもなった。アマラールはオズワルドとともにブラジルの政治的・文化的アイデンティティやブラジル人意識の根源を探る中で、自らが少女時代に大きな影響を受けた黒人女性の存在や、インディオの時代にまでさかのぼるとインディオの部族によっては人肉(主に部族間の戦争での捕虜)を食べる人々がいたという、現代ではセンセーショナルな事柄をブラジル人が共有できるアイデンティティの一つに据えた。
人跡未踏のジャングルに暮らしそうな小さな頭と大きな足を持つ空想上のヒトと黒人女性の垂乳根。アマラールの想像力とブラジルで伝えられてきた物語が、『アントロポファジア( 人喰い)』という目が覚めるようなタイトルでカンヴァスに浮かび上がる。

★タルシーラ・ド・アマラール(1886-1973)
サンパウロ州カピバリCAPIVARI 生まれ。20 世紀ブラジルの近代芸術における代表的な女流画家。祖父が百万長者と呼ばれた大農場主だった。
34 歳の時、美術を学ぶために初めてパリに留学し、前衛派の芸術家に大きな影響を受け、レジェのようなキュビスムの師匠に学ぶ。1923 年にパリで郷愁をこめて描いた『ア・ネグラ』はキュビスムの可能性を拡大させたとも評された。’30 年以降はブラジルの特異性を表現した絵画なども制作する。ブラジル土着の文化とヨーロッパの伝統、さらには近代社会を融合させたアマラール流の傑作が数多い。



筆者 おおうらともこ
1979 年兵庫県生まれ。’01 よりサンパウロ在住。ブラジル民族文化研究センターに所属。子どもの発達に時々悩み、励まされる生活を送る。




<ブラジルを撮る>




改革の時。人々はイピランガ博物館(USP)の前で運動する。独立公園はブラジル独立の叫びを象徴する場所だ。時間に追われ、自動車であふれ、高層ビルに覆われた都市のコンクリートの丘にあるオアシスだ。ジョギングの後はココナッツ・ジュースでリフレッシュ。


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2010年4月10日土曜日

ピンドラーマ2010年3月号④<ドゥルヴァル・フェレイラ><エリコ・ヴェリッシモ④><何処を歩っているの?>

<新・一枚のブラジル音楽>

ドゥルヴァル・フェレイラ 「バチーダ・ジフェレンチ」
Durval Ferreira“Batida Diferente”


 リオには、もはやボサノヴァは生きていない。海外で生き延びているだけだ。7 年前リオに住み始めて間もなく僕はそう悟ったのだが、実はたったひとり、このボサノヴァの故郷リオで気を吐く老ボサノヴァ人がいたのだった。その名はドゥルヴァル・フェレイラ。
 1935 年生まれという事だから、あのロベルト・メネスカルより2歳年長、つまりボサノヴァの最盛期を知る生粋のボサノヴァ人ということになる。お恥ずかしい話だが、僕は彼について、名曲「Tristeza de nós dois /私たち二人の悲しみ」の作曲家としてしか知らなかった。このアルバムCD「バチーダ・ジフェレンチ」を聴いて、ああ、これも聴いたことがある、それも、あれも、という具合でようやく彼の、ボサノヴァ作曲家としての重要性を知った次第である。
 ドゥルヴァル氏とは、イパネマにあった「アントニーノ」というジャズ・ライブハウスで知り合って以来、数カ所で言葉を交わした程度だが、その印象は「笑顔、笑顔、そして笑顔」である。そう、名優ドナルド・サザーランドばりの個性的な鋭い視線で、顔をくしゃくしゃにして、笑う。演奏中も、実に楽しそう。こんなにウキウキとした喜びを顔じゅう、いや体じゅうにたたえながらボサノヴァを、「哀愁」のボサノヴァを演奏する人を僕は知らない。ボサノヴァはまだリオに生きている、そう思わせる真正ボサノヴァ人だった。
 この「バチーダ・ジフェレンチ」を聴いても、その笑顔は容易に聴くものの眼前に浮かんで来るはずだ。幕開けの“Estamos aí” を聴けば、ボサノヴァってこんなに楽しいの!?と、誰もが驚くであろう。続く2、3、4曲目と哀愁に満ちたスローナンバーが続いても、決してけだるくアンニュイな感じはしない。リオのたそがれの、健康な哀愁が漂っているだけだ。
 そう、ドゥルヴァル氏の音楽は「リオ」なのだ。パリでも、ニューヨークでも、東京でもない、健康なリオがそこに見える。
 そんな健康なリオのボサノヴァを、笑顔いっぱいに演奏しつづけたドゥルヴァル氏も癌という病には克てず、2007 年、72 歳で逝った。これにて、事実上リオのボサノヴァの灯は消えたのではないかという思いさえ抱いたものだ。


 翌2008 年、ボサノヴァの50 周年を祝って、あれは7 月だったであろうか、イパネマ海岸において、ロベルト・メネスカル、マルコス・ヴァーリ、ジョイスなど、有名ボサノヴァ人たちを集めて、一大イベントが行われたが、その際、僕が心から残念に思ったのは、ボサノヴァへの逆風強いリオで、笑顔で孤軍奮闘を続けたドゥルヴァル氏の姿が見られなかったことだ。ふだん海外で喝采に包まれて活動するボサノヴァ人たちより、このブラジルで、リオで、ボサノヴァを半世紀に渡って守り続けようとした彼にこそ、このイベントはふさわしいものではなかったか。
 何度目にお会いしたときだろうか、「おい、もう俺のCD 買ったか?アメリカでも評価が高いんだぞ!」と、あの強烈な笑顔で嬉しそうに話しかけて来たのを思い出す。僕はそのとき、まだ買ってなくて返答に困ったのだが、彼がもう亡くなってからようやく購入して、ああ、なぜもっと早く聴かなかったろうか、と後悔したものだ。遅まきながら、お答えしましょう、ドゥルヴァルさん、これは素晴らしいアルバムですよ! Parabéns!(おめでとう!)。
 あとで知った事だが、なんと、彼の長いボサノヴァ人生において、死の4 年前に録音されたこのCD こそ、彼の初ソロ・アルバムだったのだ。収録されている曲は、多くの演奏家に録音されて来た往年の名曲ばかりだが、生まれて初めて自作自演アルバムを録音する老ドゥルヴァル氏の喜びが、アルバムの全編に溢れている。制作を指揮する彼の喜びが、参加者全員の奏でる、ぴちぴちと生きの良い音を通じて僕らの心に伝わって来るのだ。
 生粋のボサノヴァ人、ドゥルヴァル・フェレイラが、その人生の形見に残した「バチーダ・ジフェレンチ」。遅れてやってきた、ボサノヴァの名盤である。



筆者 臼田 道成(うすだ みちなり)
歌手。主にボサノヴァ、MPB を歌う。
2002 年からリオ・デ・ジャネイロに滞在。現在、日本で日本で活躍中。
ホームページ http://www.michinariusuda.com/














<ブラジル文学周遊>
~エリコ・ヴェリッシモ 開拓移民の悲しみが重なる「時と風」④~


当時、グロボ社は出版事業の拡大を掲げていて、外国語ができ、また、自分でも作品を書くエリコは、翻訳だけでなく、刊行する翻訳作品の選択もするようになります。これは平たくいえば、売れる本を選ぶ選択眼がいるわけで、39 年には《ノベル》、《世紀の図書》という翻訳選集(ヴィルジニア・ウルフ、トーマスマン、バルザックなどの作品)を発行、爆発的な売れ行きを上げます。
かたわらバルガス新国家体制はつづき、出版物にも検閲の目が光ります。グロボ出版社は傍系「メリジアノ」出版社を創設。ここで、政府が嫌うものをひそかに発行しました。
エリコは女性の飛び下り自殺を目撃したことがあり、これを「静寂だけが残った」というタイトルの本にまとめたのですが、地元の聖職者団体から猛烈は批判を受けます。自殺ですからね。また、バルガスの独裁体制が災いを及ぼすことを恐れて、州の要請を受けてカリフォルニア大学でブラジル文学を教えることを受諾しました。これが43 年。
バークレイ市に家族で移転します。それからミウス・カレッジでブラジル文学や歴史も教え名
博士号を授与されてもいます。
45 年に帰国。47 年から前述の「時と風」の第一部大陸編の執筆を始めます。発表されると嵐のような賞賛を浴びました。
51 年、「時と風」第二部を上梓。アンナ・テーラの娘、ビビアナの時代が、その夫のロドリゴを主に繰り広げられます。

「1833 年のはじめ、サンタ・フェの村は新しい噂でもちきっていた。大きな幌馬車に乗った2 家族のドイツ移民が入ってきて、この村にドイツ系の人種の第一歩が印されたことだった。新移民は広場の真ん中に天幕を張ったが、村の人々はみんな家から出てそれをそっと見にやってきた。このサンタ・フェの多くの人々は、彼らの生涯に、こんな金髪の人間を見たことはなかったし、またあの白い肌や赤毛で、目が碧かったり、緑だったり灰色がかったりする人間が珍しかった。全く目新しいことばかりで、二月のある朝の広場はまるで教会のお祭りのような賑わいだった」
(『時と風・第二部あるロドリゴ大尉編』 19章 田畑三郎・八巻培夫 共訳)

ヨーロッパ移民を早くから受け入れた南部の社会に目を向けている点がエリコ文学の特徴です。
それまでブラジルを主導していた東北伯のポルトガル植民地文化をテーマにする東北伯出身の作家達とよく対比されます。ヨーロッパ移民によって始まる新しい社会経済、地元の特権階級の衰退をバックに物語りは展開するのですが、 「東北伯出身の作家には、民話という豊かな土壌があった。すごい宝庫だよ。ここ南部は痩せ地を耕さなければならない。だから、ヨーロッパ系と土着人の混合が重要なポイントになる」エリコの弁です。
しかし、前作ほどの評価は得られなかったこともあり、第二部を書き終えたエリコはスランプに陥
ります。パンアメリカ文化局長の任を引き受けて渡米。56 年に帰国し、58 年から第三部「群島」の執筆開始。この年に最初の心臓発作を見ます。
エリコは75 年に狭心症で死亡しますが、その2 年前に「コレイオ・デ・ポボ」紙のアントニオ記者のインタビューにつぎのように答えています。
「最近は、自分の作品に自己嫌悪を覚えるというか、一種の飽和状態に達して、書けなくなってしまった。昔の情熱を持って読書に励みたい思っている」
「…書き手というのは理性より本能が大事なんだ。今、67 歳になったものは30 歳、40 歳になりたいと願っても無理な話で・・・」
「自分の知らない新しいことがたくさんある。一生かけてやってきた仕事のなんと微小なことか。なんだか、迷っている。逡巡しているのかもしれない。しかし芸術に対する偉大な愛は消えていない。創造することでわたしの人生は倍になる。本にしろ、映画にしろ、テレビにしろ、ドラマにしろ、他の人生を垣間見ることができる。いつでも現実に起きている人生を見ることができる。生きるために行動する人間の姿は、神様がわれわれに与えてくれた素晴らしいことの一つだ」
「本はもう一つの魔法。(魔法という言葉が好きだ。映画の魔法、劇場の魔法、音楽の魔法)しかし、文学の魔法は異なる。本の役割も違う。
読むのを休み、後戻りしたり、考えたり、もう一度読んだりできる。
すると、もっと努力しなければいけないと思う。
人生の先が見えている。もう、狭心症にも見舞われているのだし。生きるのが好きだ。できるかぎり生きるために闘うつもりだ。同時に、時間を無駄にできないと思う。それで、社会的な交際はやめた。再出発したいという渇望がおおきい。新しい道を切り開きたい。だから、チャンスを与えてくれるように神様に揺さぶりをかけている。
残りの時間が心配なのではなく、邪魔になる心理的な時間と戦わなくてはいけない。薬を飲む。生きるために薬を飲む。カプセルを飲むと書きたい意欲がうせる。しかし、いろいろなプランがあり、それを実行に移したい」
(1973『コレイオ・ド・ポボ』アントニオ・HOHLFELDT 記者 訳・中田)
アントニオ記者はインタビューの最後をこんなふうに締めくくっています。
「インタビューを終えて、エリコが何百回となく歩いたであろう坂を下りながら、どんなに苦い思いで歩いているのだろうかと考えた。作品に下す厳しすぎる自己批判。それだからエリコはいまだに存在するのだと思う。常に自己と戦い、御しがたく、厳しいゆえに不満で、正直だからいつも疑念にさいなまされる。勇敢であるがゆえに怯えて見える。もっともっと生きるだろう。さらに書くだろう。わたしたち皆のために」(訳・中田)

狭心症の最初の発作が来たのは58 年。その後ずっと薬を飲む生活が続いていたわけです。ジョルジ・アマドが「ブラジルで筆一本で食べてきたのは俺とエリコだけだ。そういえば、最近は忘れられているな」。

薬を服用することで書けなかったのです。しかし、書きたい意欲はあり、自分史「クラリネットの独奏」の第二部の執筆中に斃れました。1975年11 月28 日でした。
ほとんど家具のない薄暗い書斎でエリコは物語をつむぎました。からっぽの机。その上に古いタイプライターが一台。帽子かけ、杖、傘おきがセットになったキャビネット。そしてタンつぼ。殺風景な部屋です。書く作業って、周囲の快適さを要求しないのです。たぶんその分だけ精神の快適さが要求されるのでしょう。


筆者 中田みちよ
青森県出身 在伯半世紀
第8回内田百閒文学賞随筆部門大賞(2005)



<ブラジル映画を楽しもう>
~何処を歩っているの? Onde Anda Voce?~


「長生きしたい!」と思う人は幸せ者です。この様な人は自分の希望と願いと思いが現実化し、功を成した人です。この世が大好きで、この世もこの様な人が大好きです。この様な人は常に何がしかの目的や夢を持ち、その目的の成就に対する希望があり、その目的の過程に対する楽しみがあり、その目的が必ず成就することの信念をもち、その目的が成就した時の喜びと感謝の気を持っている人です(理想の長寿 命理学)。
素晴らしい映画とは感動を与えたいと努力する製作スタッフが、感動したいと期待する視聴者に期待以上の感動を与える映画です。さて、映画のイメージ作りは音楽、照明、衣装、舞台、環境、役柄のパーフォーマンスでもって私達への幻想効果を促しています。そして映画監督がいつも注意を配っている点は観客、視聴者への錯乱効果、デリリオス(DELIRIOUS)効果です。
マイケル・ジャクソンのショー、観ました?「キャアー、マイケル!ウー!バタン!」女の子はすぐ卒倒ですね!(錯乱の大気を放つ側と受ける側の期待感の大差が大ショックでスパークし、爆発!という感じです)。リオのカーニバルで感じませんか?「ワクワク・ドキドキ!スゴイー!」って。恋愛情事の時にも感じるアレ(いつも期待はずれですか?勉強と訓練が足りん!)。実はブラジル人の演劇好きはこの錯乱効果にあります。「この演劇で私の心と魂を錯乱させて欲しい!」(これです、これが演劇好きの深層心理、無意識の叫びなのです)。
また、全ての人々が何らかの形でこの様なデリリオスの心理作用を得たいと欲しています。旅行で、酒で、そしてある者は演劇で、擬似恋愛で、セックスで。インターネットで、バーチャル・リアリティで。音楽、ダンス、カラオケ。レストランの美味しいもので。日本人は客観的にデリリオスを考えようとします、しかし、ブラジル人はデリリオスを主観的に感じようとします。
さて今日の映画は老人心理学の観点から見た映画です。ある老人が過去を振り返り、突如として未来に夢と希望を持って人生への再挑戦に挑もうとします。半面、死を直前にして人生のわだかまりの清算と埋め合わせの為にデリリオスの旅をする結果となります。
監督は「黒マントの男」、「カヌード戦争」、「気違い過ぎる女」「王、マウア」やTVグローボの大河連続ドラマ「七人の女性たちの家」で有名なセルジオ・レジェンデ氏です。自然の華麗さをよく取り入れ、深遠な幻覚幻想と神秘的なシンボリズムを駆使しつつ、人情とユーモアを加味し、なおかつ、事実を的確に捉えた映画作りが注目を浴びています(今回、北ブラジル観光、老人学、エスピリティズモ、漫才学を紹介しています)。
フェリシオ・バッレット(ジュッカ・デ・オリヴェイラ)は少なくとも20 年前まではとても有名な二人組のお笑い(漫才)芸人の一人でした。彼の相方マンダリン(ジョゼ・ウィルケー)が自殺して以来、美人妻パロマ(ドリカ・モラエス)とも離別し、内外(ヤル気と人気)共に落ち目になっていました。
夜中、友人からの電話で起こされ先妻パロマの死を知らされます。その瞬間、彼の脳裏に20 年前の若かりし美貌の彼女と華々しき恋愛に燃えた時の想い出が鮮明に蘇ってきました。そして彼女の側にはかつての相方で彼女を熱烈に愛していたマンダリンがいました(それはパロマと漫才仲間二人が葛藤を伴った三角関係で繋がっていたことを意味します)。芋づる式に辿った連想の先にマンダリンの自殺とブラジル中のTV,ラジオ、新聞が一面トップで取り上げ、国中が悲壮感に包まれた葬儀でした。
二人の死は彼の人生で最もショッキングな出来事であったことは確かです。彼の歩いた事実上の過去に二つの事がわだかまりとして残っていたのです。それは親愛なる相方マンダリンの自殺と妻パロマと相方マンダリンの恋愛関係です。
次の日、パロマの死を広報したTVはマンダリン・フェリシオの漫才仲間をも回想していました。その回想録に刺激されたフェリシオはもう一度漫才をやろうと決意します(20 年間のギャップを取り戻そう!)。しかしながらTV 局の有力者オリヴァ(リカルド・コソヴスキ)に老人扱いされ、激怒したフェリシオは心臓発作で倒れ危うく一命を取り止め病院生活を余儀なくされます。その間マンダリンの幻想が医者の姿で現れたり、退院後も家に現れフェリシオの再起を促します。
フェリシオの夢と信念は20 年前のそれでした。将来の相方を探しにテレジニャ市(ピアウイ州)に住む親友ジャジャ(ジョゼ・ドゥモンテ、ラジアリスタ:ラジオ番組をやっている)を訪ねます。フェリシオの相方探しのコンテストは開かれますが、知的センスの全くない、ふざけた田舎の連中達にガッカリして憂鬱な気持ちに襲われます(滑稽で大笑いの場面!地元のお笑い師達ばかりです)。
次の日、海辺で魚釣りをしながら、聖ペドロ(漁師だった)に話しかけ、「計画を続行するかどうか」のサインを依頼します(ブラジル人の習慣的信仰スタイルです!)。なんと、次の瞬間、竿が振動し始め、釣り上げた魚は口をパックリ開けます。フェリシオは驚きに喜びを加味しながら微笑み、その魚の口元で将来の相方、芸名ボッカ・プーラ(「純粋な口」と言われ、有名だが隠遁してしまった)との出会いの可能性を確信するのでした。
フォルタレーザ市に相方がいるらしいとの噂で、はるばるバスに乗り訪ねましたが、全てが思い違いの中に行き違いが生じてきます( ブラジルではいつもあること!泰然自若!忍耐!辛抱! )。気を紛らわす様に風光明媚な砂丘を歩いていると向こう側の砂丘の上に真っ裸のヴィーナスが真っ赤なスカーフを両手に持って風になびかせているのが見えました(びっくり!典型的な伯国型モルフォの美人!)。エステラ・ダ・ルス(レジアネ・アルヴェス)という若いモデルが写真家の前でポーズをとっています。あまりにも美しい彼女の肢体に見惚れたフェリシオはパロマの娘に違いないとの幻想的デリリオスの神話を作ってしまいます(これは娘を受け入れたということで、パロマの失態を許したことを意味します。ワダカマリが解決された)。
今度はラジェド町に住んでいるエネジオ(アラミス・トリンダデ)という男が本物のボカ・プーラだとの情報を得て、喜び勇んだフェリシオは新たな希望を持って出発します。 
初めて会ったエネジオですがフェリシオは直ぐに意気投合します。即座にコンビ結成、お笑い劇が始ったのです。そこにはマンダリン(幻覚の)と沢山の幻想上の観客と笑い声が彼等を取り巻いていました。コンビ名も浮かびます「ボカ・フェリシッシモ(口いっぱいの最高の幸せ)」。その夜、民宿の庭で晩餐会が開かれ、飲み、食い、歌い、そして踊り、お笑いジョークのやり取り(これはスゴーイよ!我々、日本人にはできませんね!)と皆が皆、喜びを満喫しました。
夜が明けると海辺の椰子の木陰にフェリシオは座っていました。目前にマンダリンとパロマを見ますが不信のワダカマリがすっかりなくなって清清しい気持ちです。隠せぬ喜びと郷愁を含んでフェリシオが二人に聞きます「霊界はどんな所?」と。マンダリンは「死というものはないんだ!」と答え、パロマも「全てが生きているのよ!」と答えます。またマンダリンが「今日はマザロッピが迎えに来るよ!とっても幸せだ!」と言い、「死人と会えて幸せかい?」とフェリシオが・・・。  


☆ 何処を歩っているの? Onde Anda Voce?( 2004 年作品)
監督 セルジオ・レジェンデ
出演 ジュッカ・デ・オリヴェイラ/ ジョゼ・ウィルケー / ドリカ・モラエスほか


筆者 佐藤 語 (さとう かたる)
映画によるアート・セラピスト

2010年4月8日木曜日

ピンドラーマ2010年3月号③<ブラジルの旧宗主国ポルトガル>

<やっぱり気になる!>
ブラジルの旧宗主国ポルトガル

ユーラシア大陸の最西端、イベリア半島の西側一帯を陣取るヨーロッパの小国。ポルトガルは15 ~ 16 世紀、大航海時代の牽引者となり、世界各地の植民地から富を集め、輝かしい絶頂期を迎えた。ポルトガル人カブラルによるブラジル発見もその時代の1500 年で、植民地時代を通じて、大勢のアフリカ奴隷を連れて来ては、金など大量の富を持ちかえっていった。・・・・そんなポルトガルの栄光もかつての話。今となってはすっかり素朴で平和な国というイメージでは?旧宗主国の姿が変わっても、言葉でも料理でもブラジルにとって、やはりポルトガルの影響は大きく、両国は切っても切れない関係にある。
日本にとってのポルトガルは、1543 年、種子島にはじめて鉄砲をもたらした国として印象深い。以降、1639 年鎖国政策によるポルトガル船の来航禁止まで南蛮貿易が行われ、その間「テンプラ(tempero)」、「カルタ(carta)」、「ボタン(botão)」、「襦袢(gibão)」などの外来語も伝えられた。ポルトガルは、日本に「西洋」をもたらした最初の国なのだ!
ところが・・・現在、日本-ポルトガルの直行便はなく、ヨーロッパのハブ空港での乗り換えが必要となる。サンパウロからはポルトガル航空(TAP)で毎日直行便があり、飛行機に乗り込み10 時間もすれば首都リスボンの街に到着する。日本が最初に出会ったヨーロッパを知り、ブラジルをより深く知るためにも、ブラジル在住の日本人ならぜひ訪れたい国である。
ポルトガル初心者の筆者が、2 週間かけて這いまわるように各地を巡り感じた魅力は、
1.初心者が観光しやすい国、
2.公用語がブラジルと同じ、
3.歴史・文化が奥深く見どころ満載、
4.知られざる美食の国。
ブラジルとの関係を探りながら、1~ 3を以下レポートしよう。4.美食の国は、次号4 月号をお楽しみに!

1.観光しやすい国
ポルトガルは、観光客に優しい国だ。国土はわずか日本の4 分の1 という小さな国のため、そもそも国内移動距離が短い。例えば、首都リスボンから北部にある第二の都市ポルトまでは電車またはバスで3 時間半である。電車と長距離バスが国内各地に広がっていて、本数も多く、時刻表も極めて正確。ポルトガル初心者でもわかりやすく、事前の予約は必要ない。現地での気分にあわせて、比較的簡単にどこへでも移動できてしまう。
市内の観光もしやすい。リスボン市内の交通はメトロの他にかわいい市電も一般的で、石畳の道をゴトゴトのんびり走る路面電車は市内観光に絶好。また、リスボンを含め、ポルト、コインブラなど主要都市では、パリやロンドンでも普及している二階建ての観光バス、“Yellow Bus(Hop-On Hop-Off)” が走っている。1 日券を購入すれば、主要な観光ポイントで一日中乗り降り自由、さら
にイヤホンによるガイド8 カ国語オプションに日本語があるのが嬉しい(1 日券大人12 ユーロ)。
時間がない時や小さな街へ出かけた場合はタクシー移動をオススメする。料金が安い上、ブラジ
ル訛り(?)で運転手に話しかければ、「マカオ出身??珍しいアジア人だ!」と興味を引いて盛
り上がること間違いなし。
* マカオ:99 年までポルトガルの植民地。現在は中国の特別行政区。



2.公用語はポルトガル語  ~ブラジル・ポ語との違いは?~
サンパウロからリスボンの空港に着き、見慣れたポルトガル語の標識を見ると、初めての国のは
ずなのに途端に親しみを感じてしまう。当然だが、この国の公用語はポルトガル語だ!
ところが、ブラジル・ポ語とは、発音に加え語彙、文法の違いも多く、ブラジル人であっても理解できないことも多いという。とはいっても、旅行に難しい話をしに行くわけではない。日常会話程度なら十分通じる嬉しさがある。
これ以外にもふとした会話から気づく違いは山ほど・・あとはぜひ現地で体験あれ。ちなみに、ブラジルに帰国して感じることは、ブラジル人のポルトガル語がとにかく抑揚に溢れていること。ブラジル人はそれを“musicalidade” という。日本語では訳しにくいこの表現、“ リズミカル” とでもいうか・・・まさに“ ブラジル語” の特徴を表す表現だ。


☆旅行で学ぼう! ブ・ポ語とポ・ポ語の違い
<発音編>
◎ Bom dia
(ブ)ボン ジーア →(ポ)ボン ディーア
◎ Boa noite
(ブ)ボア ノイチ →(ポ)ボア ノイテ
◎ Verdade(ブ)ヴェルダージ →(ポ)ヴェルダーデ
<単語編>
◎朝食 (ブ)café da manhã →(ポ)pequeno almoço
◎ジュース (ブ)suco →(ポ)sumo

◎メニュー(ブ)cardápio →(ポ)menu / carta
◎バス (ブ)ônibus →(ポ)autocarro
◎電車 (ブ)trem →(ポ)comboio
<フレーズ編>
◎いいよ/ OK 
(ブ)Tudo bem →(ポ)Está bem
◎さようなら/じゃあね 
(ブ)Tchau →(ポ)Adeus
※使わないフレーズ: A gente(私たち)、legal(かっこいい)など・・この表現は、すぐにブラジル在住とばれてしまう!


3.歴史・文化の見どころ ~ブラジルとの関係を探ろう~
ポルトガルは、紀元前から歴史が残り、ローマ帝国の支配、中世にはゲルマン系ゴート族、イスラム勢力の進行、レコンキスタを経て、12 世紀にポルトガル王国が成立している。そして、大航海時代、帝国の衰退、ナポレオン軍の侵攻・・・と長い歴史を持つ。行く先々に名所旧跡、博物館、教会・・と見どころは絶えないが、サンパウロから訪れるのであれば、ブラジルとの関係を探る旅
にこだわってみよう。

【国立古美術館(リスボン)/ ソアレス・ドス・レイス国立美術館(ポルト)】
両館にある「南蛮屏風」は1600 年前後、桃山時代に作成されたものである。描かれているのは、
南蛮船の入港、荷降ろしの風景、ポルトガル人の行列、それを眺める日本の庶民、ポルトガル人の
船長や要人が日本人高官を訪問する場面などである。当時の風俗習慣-住居、船、衣服、動物など双方の姿が描かれていてとても興味深い。
そこで、注目したい点がある。いずれの屏風もよく眺めると、ポルトガル人日本人に混じって、大勢の黒人奴隷が描かれている。船上で操帆するもの、荷物を陸揚げするもの、ポルトガル人高官にパラソルをかざすもの、象や孔雀、ラクダなど珍しい動物を引き連れているもの・・・数えきれない奴隷が長崎の地に上陸している。
屏風が描かれた1600 年前後は、ブラジルが発見されてたった100 年の頃、今の「ブラジル人」というカテゴリーがまだ存在していない頃である。屏風に見られる黒人奴隷は当時ポルトガル人がアフリカから連れだした奴隷であり、もしかしたらブラジルに連れて来られていたかもしれない奴隷である。ここに描かれるポルトガル人もブラジルにやってきていたかもしれない。日本とブラジル、全くつながりのない時代であるが、南蛮屏風から日本・ポルトガル・ブラジルというトライアングルが見えてくる・・こうして観賞するのもまた楽しい。ある研究者によると、これら南蛮船は帰途の際、数多い日本人も奴隷として乗船させ、一部ははるか南米の地まで連れて来られていたという信じがたい記録も残っているそう・・・なんともゾッとする歴史である。



【サン・フランシスコ教会(ポルト)】
世界遺産であるポルト歴史地区にそびえ立つ、14 世紀初頭に建てられた教会。荘厳なゴシック
様式の外観に相いれず、教会内部のバロック装飾は驚くほどゴージャス。祭壇、壁、天井、柱・・・
全てに細かい彫刻が施され、ほぼ全面に金箔が貼られている。この金箔こそ、植民地ブラジルから
運んだ金で、総重量は200 キロとも500 キロとも。サルバドールのサン・フランシスコ教会、オーロプレットのピラール教会に勝る金ピカ教会だ。ブラジルからはるか離れたポルトガルの教会を黄金に塗り替えるとは・・・宗主国ポルトガルの絶大な権力を感じる。さらに見どころは、長崎26聖人をまつった祭壇の他、多くの聖人彫刻の中で、中央祭壇に向かって左の柱にひっそりと佇む黒人の聖人である。ブラジルでも人気が高い、イタリア生まれのアフリカ系、São Benedito だ。

【海洋博物館(リスボン)】
リスボン・ベレン地区ジェロニモス修道院の西端に位置する博物館。入口を入るとエンリケ航海
王子の巨像に迎えられる。先に進むと、大航海時代の船の模型や航海道具、当時の航路を描いた歴史地図など数多い展示が続き、ポルトガルの輝かしい過去の栄光を垣間見ることができる。
別棟の天井の高い空間には、数体の船の実物展示があり、出口そばには1922 年リスボンからリ
オデジャネイロまで初めて南大西洋横断飛行に成功した「サンタ・クルス号」が展示されている。
脇に設置された少し高い見学台からは機体を上から眺めることもできる。この小さな機体が、当時
の首都リオの地に降り立った瞬間に想いを馳せてみよう。

〜おまけの話〜
今年2010 年は「日ポ修好150 周年記念」の年です。ペリーの黒船来航直後、鎖国を続けていた
日本は開国を迫られ、アメリカ、オランダ、イギリスなどに次いで日ポ修好通商条約を締結したの
が今から150 年前の1860 年。一年を通じて、ポルトガル各地で日ポ記念行事が目白押しです。ご
旅行の際は、ぜひ事前に調べてみては?!
→「日ポ修好150 周年」イベント情報:在ポルトガル日本国大使館HP 内参照

参考文献:
「ポルトガル日本交流史」1992 年初版 彩流社
「ブラジル学入門」1994 年 中隅哲郎著 無明舎出版
「BIOMBOS NAMBAN」1993 Instituto Português de Museus ほか

筆者 山本綾子(やまもとあやこ)
お茶の水女子大学卒(生活文化学専攻)
旅経験30 ヶ国 ブラジル在住

2010年4月7日水曜日

ピンドラーマ2010年3月号②<ブラジル面白ニュース><薬物・暴力追放><パサリニャー!!><開業医のひとりごと><ブラジルの民間療法>

<ブラジル面白ニュース>

〜正真正銘のエコ住宅誕生!〜


日本では環境にやさしい住宅として「エコ住宅」がもてはやされていますが、ブラジルではこんなシンプルで画期的な「エコ住宅」が話題になっています。

◎ペットボトルでマイホーム実現

リオ・グランデ・ド・ノルテ州ナタル市から70キロ離れたエスピリト・サント市に建てられた46平方メートルの住宅。
実は、この住宅、砂とセメントとレンガ・・・ではなくて、ペットボトルを使用して作られました。発案者は電気技師のアントニオ・ドゥアルテさん。
個室2 部屋にリビング、キッチン、トイレとコンパクトにまとまった住宅は、ペットボトルが2700
本使われているそうです。

◎破格の値段、建築日数はわずか3日間

さて、この「エコ住宅」の気になるお値段ですが・・・何と、8000 レアル!
日本円にして約40 万円という金額はブラジルでも破格です。アントニオさんはさらに、低所得者層のために、住宅購入者がブラジル連邦貯蓄金庫ローンを使用できるよう配慮しています。
「セメントと砂とペットボトルで作ったブロックを使う。すべての型が揃っていれば、3 日間で家を
作れる。保証するよ」とアントニオさん。「どこでもペットボトルを見つけることができ、低価格を実現できる。僕たちの目的はこのアイデアを広げ、マイホームの夢を現実に変えてあげること。この家のローンは、家賃を払うよりずっと安いんだよ」。

◎強度も抜群、建築業界が注目

アントニオさんのアイデアはナタル市で特許を得ているほか、ペットボトルのブロックはリオ・グラ
ンデ・ド・ノルテ連邦大学で強度テストも受けています。
驚きなのは、通常のコンクリートのブロックは平均1.5 メガパスカルなのに対し、ペットボトルのブ
ロックは1.94 メガパスカル。コンクリートよりペットボトルの方が頑丈だという数値が出ているそう
です。
「最初はみんなに『風に持っていかれるぞ』と言われたけど、テストをして、エンジニアも契約して、この家は安全だということを確認したんだ」。
アントニオさんは、“ 低価格”、“ リサイクル” という要素のほか、“ 安全性” も強調、さらに、「レンガは熱を吸収した後、発散することができない。ペットボトルのブロックを使えば、家のなかはもっと涼しくなる」としています。
ペットボトルの「エコ住宅」には、建築業界も注目しているとのこと。地球温暖化対策の建材開発に時間と大金を注ぎ込まなくても、身近な廃品を再利用してマイホームを建てるなんて、これは面白いビジネスになりそうですね。

筆者 門脇 さおり 島根県出身。会社員。2 児の母。



<薬物・暴力追放へ!教育現場での取り組み>


「ブラジルの公立学校の子どもたちは、10 歳くらいになると、校内で麻薬と隣り合わせに生活するようになる」と、耳を疑うような噂が時々聞こえてきます。BRICs の一員、2014 年サッカーW杯や2016年リオ・オリンピック開催地として世界から注目を集めるブラジルとしては、ほうっておけない事実です。
あるまじき現実の声を一掃すべく、ブラジルの軍警Polícia Militar は教育現場でPROERD という計画を実施し、薬物・暴力の阻止に取り組んでいます。

◎薬物・暴力阻止への教育計画PROERD

P R O E R D はP r o g r a m aEducacional de Resistência às Drogas e à Violência の略で、日本語では「薬物・暴力阻止の教育計画」と訳すことができます。1983 年に米国で作成されたD.A.R.E. (Drug
Abuse Resistance Education) という計画が基になっており、’92 年にリオデジャネイロ州の軍警に、翌
年にはサンパウロ州でも導入されることになりました。現在はブラジル全土に拡大しています。

◎ PROERD の学校教育での実際

PROERD の最大の目的は、「薬物は怖いという意識を持たせ、誘惑に負けず、命の尊さを伝える」ということです。
学校現場での取り組みは、初等学校の1 年生~ 8年生を主な対象に、薬物や暴力の怖さを知るための講義が行われています。昨年までに幼稚園にもプロジェクトは拡大し、保護者の一人として授業を参観する機会がありました。
軍警と学校、家族が一体となってPROERD に取り組むこともねらいにあり、約4 ヶ月間、月
に数回研修を受けた警察官の出前授業が行われてきました。授業最終日には保護者も参加し、薬物の誘惑には「ノンNão!」と誓う子どもたちの姿を見守りました。授業を修了すると、園児たちには卒業証書が手渡されました。
警察官たちの子どもたちへの指導力は抜群で、授業の流れといい、テンポといい、名俳優さながらの演技力です。歌あり踊りあり、約1 時間の授業中、大人も子どもも講義に目が釘付けでした。指導に当たる警察官は志願者から選ばれ、勤務態度や社会活動の経験の有無のほかコミュニケーション能力や創造力なども審査され、プロの訓練を80 時間以上受けているとのことでした。
今後、PROERD の効果がより一層発揮されることが期待されています。



筆者 おおうらともこ
1979 年兵庫県生まれ。’01 よりサンパウロ在住。ブラジル民族文化研究センターに所属。子どもの発達に時々悩み、励まされる生活を送る。



<パサリニャー!!ブラジルの鳥を見に行こう!>


前回では純白が美しいダイサギを紹介しました。
ダイサギの捕食シーンを観察しようとするときっと忍耐勝負になるので、どうしたって他の水
辺の鳥たちも視野に入ってくることになります。
サンパウロのイビラプエラ公園におけるその代表は多分この鴨でしょう。
一目見て顔が白いのが最たる特徴で、それが和名にもなっています。例によって単刀直入ですけど。
そこへ来ると学名のほうがぐっと詩的で、この白い頭を見て、顔を隠すように白い布を被った「寡婦(未亡人ですね)」を想い、それがviduata になりました。かつて寡婦とは社会的にそ
んな立場だったのでしょうか。
ちなみにDendrocygna の方は、「木に縁る白鳥」という意味。
美しい白鳥も分類上は同じカモ科の鳥。水辺に暮らすこのカモが、意外にも集団で木の枝に泊まって休む習性があるためにつけられたのでしょう。
「リュウキュウ」は「琉球」です。どうしても場違いな印象を受けますが、これは同属別種の鳥がかつて琉球諸島で観察され、それを「リュウキュウガモ」と命名したためです。
現地名の「イレレー」は「聞きなし」で、夜間、しばしば都会の上空でも群れをなして飛び交うことがありますが、その時に発する声がきっとこんな風に聞こえます。
カモというと長距離に及ぶ渡りで有名です。気候の変化や、それに伴う食物の変化により、種によっては大陸間の渡りを苦もなくこなしますが、比較的近距離の「渡り」をする種もあり、あるいはかなり狭い範囲で渡りというよりは移動をする種もあります。
都会で見られるカモはそういった渡りの群れからは「落ちて」、地域内で繁殖もしてしまう、半ば「留鳥」化したものが多いようです。
ところでアンデルセンの「みにくいアヒルの子」、覚えていますか。
アヒルの家族に一羽だけ大きくて「醜い」ヒナが混じり、お母さんにまで呆れられ、いたたまれなくなって家出して一冬を過ごしたところ、白い羽に生え変わり、実は美しい白鳥だったというお話。
前述のように白鳥はカモの仲間で、アヒルも家禽とはいえ元はカモ。このお話は童話ではあるけれども、実は科学的な観察から生まれた節があるのです。
カモの仲間には「托卵」をする種があり、このシロガオリュウキュウガモもその一種。
托すのは同じカモ科の別種に限られるようですが、托す方は何気なく托し、托された方も特に違
和感もなくしっかりヒナを育ててしまうようで、そうなると白鳥が家鴨に育児を托すこともあるかも。
シロガオリュウキュウをジッと観察していると、白鳥のヒナが混ざっているかも知れません。

筆者 服部 敬也(はっとり ひろや)カンポグランデ在住
hiroya@terra.com.br
http://blogs.yahoo.co.jp/momotusmomota



<開業医のひとりごと>

〜今月のひとりごと『心と体は切り離して診られないだろうが』〜

 そろそろ季節の変わり目です。毎日気温が変わり、雨が降ったり、暑かったり、寒かったり、鬱陶しいお天気です。「鬱陶しい」とは「晴れ晴れしない」のほかに「気分が重苦しい」意味がありますね。今回はこの「うつ」について考えてみます。医学で「鬱」が分類されるのは精神および行動の障害で、いわゆる精神科領域です※ 1。

『うつの分類については心の病気であるとか脳の病気であるとか、生物的成因や心理的成因など現時点でも諸説あるが、簡単に分けると、躁鬱病(最近では双極性感情障害と呼ばれる)のようなかなり重篤な症状がでるものと、ストレスや自律神経失調症に関連するうつ状態に分類できると思う。前者の有病率※ 2 は日本人で約2%であるが、実は病態があまりにも広範囲にわたるので調査しにくい後者が圧倒的に多い(一般人口の25%という調査もある)。ところが日本ではうつ=
精神科=きちがい科という構図ができあがっていたので、後者の「ちょっとした」うつ状態ではなかなか精神科を受診できなかった・しなかった・したくなかった。それで1996 年から「心療内科」なるものが標榜できるようになったのだな。この名称は日本にしか存在しない。一部の「専門家」からは心身症を治療する内科で精神科ではないといってるが、この科だったらかかりやすいのであればいいじゃないの?』

 地域医療や一般内科の診療の実態ではうつ状態※ 3 がよく見られます。最近の生活状況ではストレスになることが多かったり、あるいはそのために自律神経失調症などになるためではないかと思われます。そのため、単なる風邪のような身体的症状を訴えて来られても精神面も診る必要があると筆者は考えます。反対に精神的症状をきたす器質的疾患※ 4 もあるので、一概に精神病であるとは言えません。精神的症状がある場合、必ず器質的原因を除外した上でしか精神障害とは診断できません。器質的疾患であれば、原因を治療すれば(可能であれば)うつ自体も良くなります。精神障害であれば、必要期間投薬したり、カウンセリングを受けたり、東洋医学的治療をしたり、いろいろアプローチができます。
『うつの症状※ 5 はつらい。日本人的に根性論で克服するのもいいけど、治療したほうが楽じゃないの?引きこもったりしてないで。とにかく症状が2 週間以上つづくようだとなにかがおかしいから医者に診てもらいましょう。』

※ 1 ①気分障害のうつ病;②神経症・ストレス性障害の不安うつ障害;③小児の行為および情緒の混合性障害の抑うつ性行為障害;④産褥に関連したうつ障害。
※ 2 有病率:ある時点で対象人口に見られる患者数。この場合100 人に2 人。
※ 3 一過性のストレス性障害(急性ストレス障害、適応障害、心的外傷後ストレス障害など)、自律神経失調症、パニック障害、恐怖症性不安障害、心気障害、心因性や内因性うつ、など。
※ 4 一番多いのが甲状腺疾患。副腎や副甲状腺疾患。脳血管障害。パーキンソン病。脳腫瘍。膠原病。重金属中毒。
※ 5 ①抑うつ気分(気分の落ち込み、いやな気分、空虚感、悲しさなど);②興味・喜びの喪失;③食欲や睡眠の増減

筆者 秋山 一誠 (あきやまかずせい)。
サンパウロで開業(一般内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@oriente.med.br までどうぞ。


<ブラジルの民間療法>
~糖尿病に効果のある薬草~

 糖尿病は、日本人にとって最も心配な病気のひとつではいでしょうか。データによれば、日本の糖尿病患者数は40 年間で約3 万人から約700 万人まで増え、糖尿病予備軍を含めると2000 万人に及ぶとも言われています。
 ブラジルも日本に劣らず、2000 万人以上が糖尿病または糖尿病予備軍と言われています。
 以下、ブラジルの民間療法において、糖尿病に効果があるとされる薬草を列挙します(学名および和名のわかるものは和名も載せました)。

Araçá-do-campo (Psidium guineense Sw.)
Avenca (Adianthum capillus-veneris) ホウライシダ
Bardana (Arctium lappa) ゴボウ
Carambola (Averrhoa carambola) スターフルーツ
Carqueja (Baccharis trimera)
Cedrela (Cedrela fissillis, Cedrela odorata) 樹皮を使う
Centeio Cecale cereale) ライムギ
Cipó-pata-de-vaca (Bauhinia smilacina) マメ科
Dente-de-leão (Taraxacum officinale) タンポポ
Gerânio (Gernium) フウロソウ
Gervão (Verbena bonariensis) ヤナギハナガサ
Grapiapunha (apuleia leiocarpa)
Jambolão (Syzygium jambolanum) アルコール抽出物や種子の粉末を利用
Jurubeba (Solanum paniculatum)
Erva-de-passarinho (Viscum rubrum, Struthantus flexicaulis Mart.)
Eucalipto (Eucaliptus globulus) ユーカリ
Inhame (Colocasia antiquorum) サトイモ
Laranja (Citrus auratium) 種を煎じる
Limão (Citrus limonum) レモン
Macela (Achyzoclyne satureioides)
Morrião-dos-passarinhos (Stellaria media) コハコベ
Nogueira (Juglans regiafolhas) シナノグルミ
Oliveira (Olea europea) オリーブ
Quebra-pedra (Phyllanthus corcovadensis) ブラジルコミカンソウ
Pau-ferro (Caesalpinia ferrea)
Pedra-ume-caá (Myrcia sphaerocarpa) 葉を使用
Pessegueiro (Prunun persica) モモ、葉を使う
Pata-de-vaca (Bauhinia forficata) 花と葉を使う
Pau-amargo (Pricasma palo-amargo)
Picão (Bidens pilosa) コセンダングサ
Romã (Punica granatum) ザクロ、皮と葉を使う
Rúcula (Eruca sativa) ルコラ
Sabugueiro (Sambuccus australis) ニワトコ、煎じる
Sucupira (Diplotropis incexis)
Tremoço (Lupinus albus) シロバナハウチワマメ、シロバナルーピン、1度に3 粒を粉にしたものを使う
Urtiga-vermelha, Urtigão (Urtica dioica)
Poáia-branca (Richardia brasiliensis) ブラジルハシカグサモドキ

非常に数が多いですから、今回は列挙するのみにとどめて、次回からこの中の主な薬草について解説していきます。

出典:IRMÃO CIRILO (Vunibaldo Körbes) “Plantas Medicinais”
(1971 年初版、現在第63 版を数えるロングセラー)
資料提供:Nassui Alimentos

2010年4月6日火曜日

ピンドラーマ2010年3月号①

<移民の肖像>

写真・文 松本浩治

「移り来て、仕事一筋、我が人生」—。サンパウロ市リベルダーデ区サン・ジョアキン街249番でBAR(簡易飲食店)を経営する宮城新雄さん(75歳、沖縄県国頭村出身)は、自身の生活をこう表現する。
戦前に渡伯していた叔父(母親の弟)の呼び寄せもあり、沖縄南米開発青年隊の第4次隊として1958年、「ルイス号」で単身海を渡った。
そのまま、叔父が行っていたBAR の仕事をサンパウロ市しタトゥアペ区で手伝い、途中、パステル製造販売の従業員として7年ほど勤めた経験もあるが、40年以上にわたってBAR業に携わり、今も現役で続けている。
60年、叔父がリベルダーデ区タマンダレー街に店を移したが、その後もベレン区やビラ・カロン区などを転々とした。
63年、叔父の紹介によりパラナ出身の日系2世である千代子さん(71歳)と結婚。「何でか知らんけど、(千代子さんが)付いて来たもんね」と宮城さんは照れ笑いを浮かべる。
その後は、夫婦による二人三脚のBAR経営が続く毎日。75年には沖縄県出身の「先輩」から任され、現在の店に移った。
「食べて、子供を育てないかんからね。他に何もやることを知らんもん、しょうがないよね」と宮城さんは、商売一筋の人生を振り返って、こう語る。
4、5年、借家の同店で働いた後、先輩から「この店を買ってくれ」と言われ、初めて自分の店を持つことができた。
「その頃は従業員も朝2人、夜2人も雇って、一番忙しかったよね。(サンジョアキン街の道を隔てた)向かいには、日本人のキタンダ(八百屋)やBARもあって賑やかで、文協の職員たちもよく来ていたね」
BARの名前は、プレジオ(建物)の名称にちなんで「モンテ・フジ(富士山)」。以前は午前6時から午後11時半まで開店していたが、今はプレジオが閉まる午後10時で店を閉めている。
当時は、客層の中でも特に学生が多く、早朝や夜遅くにサンドイッチなどを食べに来る青年たちで賑わったという。
現在は、長男とその嫁が交代で店を手伝ってくれるため、「大分と楽になったよ」と話す。千代子夫人は、店には出なくなったが、今でも早朝に起きてコシーニャなどの軽食類を手作りし、その商品が店頭に並ぶ。
宮城さんがBAR業をやっていて寂しい思いをしたのは、遊び盛りの子供たちをほとんど何処にも連れて行けなかったことだった。
「末っ子が3歳か4歳の時に1回だけプレイセンター(遊技場)に行って遊んだことがあったね」
と回想する宮城さんだが、2008年8月にジアデーマ市の文化センターで開催された沖縄県人移民100周年記念式典にも行けなかったという。
長男は大学中退後、日本に出稼ぎにも行ったが、今は父親の手伝いを黙々と行う。その姿を見ながら「継いでもらうのは嬉
うれしいけど、こういう商売は1世で終ってしまうかもね」と寂しそうに笑う。
13年ほど前には過労がたたり、心臓病を患った宮城さんだが、病院で治療を受け、手術することなく「店をやりながら、病院に通
かよった」という仕事熱心さだ。BAR には日系人の常連客も少なくなく、今も「宮城さん」と気軽に声を掛けて行く。
楽しかった思い出について聞きくと、「いろいろあり過ぎて、いちいち覚えてないよ」と屈託なく笑う宮城さん。今も家族の支えを受けながらも、1日1日を地道に生きている。