2010年8月26日木曜日

自殺を考える日本人に、教えたい景色があります。

みなさん、こんばんは。
木曜日の男、きたです。

なんか、自分でつけたとは言え、重たそうな題名ですね…。

前回、メトロやバスで感動した話をさせていただきましたが、
今回はそれを踏まえて、ブラジルで見る、
日本ではなかなかお目にかかれない、
素晴らしい光景の一つを紹介したいと思います。

ブラジルでは、障害者が活き活きと闊歩しています。
※障害者という言い方を嫌う方もいるとは思いますが、
 ちなみに、私の愛する母も障害者であり、そう呼ぶことや呼ばれる事に
 私自身や母は偏見を持っていませんので、今まで通りそう呼ばせて下さい。

日本では、障害を持つ事を恥と思っている人がいます。
そして、隠す人はいっぱいいます。
仲良し学級というものは、いまだに存在するのでしょうか?
私の子供の頃には存在しました。
みんなと一緒にスタートし、一緒にゴールしたがる日本人は、
同じスピードで進まない人を分ける傾向にあります。

そして、進めない人を特別保護し、
自己満足にしかならない対応をするんです。

人は足りない機能があれば、それを補う機能が人より発達するんです。
(生物全体そうなのかもしれませんが。)
足りない事を自覚させれば、その成長は著しいんです。

手が使えなければ、足や口が器用になるし、
目が見えなければ、耳や感覚が発達します。
だから、分ける事はそのたくましい成長を阻害すると思っています。

足りない機能を見た目だけで判断できれば、
障害者なのでしょうか?

本当は、健常者と言われる人にも足りない機能が必ずあります。
ただ、見た目で分からないだけで。

結局、みーんな障害者。

いや、みーんな健常者。

もう、どっちゃでんよかがっ!
※鹿児島弁で「もう、どっちでもイイじゃないかっ!」の意
一緒じゃがっ!
※鹿児島弁で「一緒じゃないか!」の意

 白い杖をついて歩いている人を毎日最低1回は見ます。
足の不自由な人も見ます。
腕が無い人も見ます。
そう言えば、盲目の方達がゾロゾロと一列になって歩いている
愉快な光景もよく見ます。

それは、ブラジルでは当たり前の景色なんです。
こっちでは、障害者は生きているんじゃなくて、活きているんです。

助けが必要であれば、必ず誰かがその人の足りない部分になる。
前にも書きましたが、こっちでは呼吸をする位自然なんです。

私は多人種が存在する事より、その事にブラジルで感動しています。

昔、障害者の私の母は、スーパーで買い物してると、
カワイソウ・・・と言われました。
母は自分をカワイソウと思った事は一度もありません。

何と比較しているのか?
何と比べて劣っていると感じるのか、
何と比べて優越感に浸っているのか。

比較して、凸凹してたら均す文化の日本では、
比較する事でしか、自分の存在価値が分からない事が
よっぽど、カワイソウに思えます。

『違って当然。だから比較する必要が無い』
ブラジルでは、どんな自分でも受け入れられる気がします。

コンプレックスを含めて自分を好きになれる。
足りなくてもいいんだと思える。
欠点って素晴らしいじゃないかと思える。

自殺が少ない国と自殺が多い国。
きっと、ここにヒントがあると、私は思います。

コンプレックスを強く感じちゃう日本のお国柄は、
強い向上心と計画性を育てるんだと思います。
それはそれで素晴らしいとは思うんですけどね。

ただね、
コンプレックスに潰される位なら、
自分の存在する価値が分からないなら、
死にたいと思ったら、

一度、ブラジルのこの景色を見て下さい。
素晴らしい景色である事を約束します。

あちゃぁ~・・・なんか、マジメな事書いたようで、
自分で気持ち悪いです・・・
あ、来週は取材のため、お休みです。
もっと、不真面目になって帰ってきます。
だって、ブラジルに住んでるんだから・・・

じゃ、また再来週の木曜に。

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