2010年8月15日日曜日

ピンドラーマ2010年7月号

ピンドラーマ2010年8月号は予定どおり発行し、配布も完了したと思いますので、先月号(7月号)の全内容一挙にアップします。(川原崎)



<ブラジルを撮る>

《CEAGESP(サンパウロ州中央青果市場)の卵売り場》
市場の敷地は66 万㎡、取引量は毎月25 万トン、中南米一の規模を誇る。市場内は、日系の農業協同組合、生産者団体、卸売業者が多くを占め、鶏卵分野も例外ではない。7 月は、約100 の養鶏場を有するバストスで、毎年恒例の「Festa de Ovo(卵祭り)」が開催される。
写真:山本 綾子


<移民の肖像>

【コチア青せい年ねん、転てん機き ごとに上じょう昇しょう志し 向こうを実じっ行こうに移した岡崎幸雄(おかざき・ゆきお)さん】
「外国に出て、何とか自分でできる仕事を見つけたかった」—。聖市南西部イタペセリカ・ダ・セーラに在住する岡崎幸雄さん(宮城県出身、75歳)は、渡伯のきっかけをこう語る。
農業生産を経て、「このままではブラジルに来た意味がない」と転機ごとに上昇志向を実行に移し、ビアジャンテ(行商)のあと、日本伝統と芸能の「コケシ作り」に転換。現在は、子供や孫たちが後を継いでいる。
仙台の南、宮城県名取郡(現・岩沼市)の「米どころ」で8人兄姉の末っ子として育った岡崎さんは、親の「地元にいてほしい」との希望とは腹に、中学生時代から「海外に出たい」との思いを膨らませていたという。
地元・名取高校を卒業後、神奈川県内の鉄工所で一年働いたあと地元に戻り、知人から「コチア
青年移住」の話を聞かされた。「すぐにでもブラジルに行きたい」と県庁の海外移住課で手続きを進め、「1次4回コチア青年」として1956年4月1日、「あふりか丸」で神戸港を出発した。
48日間の船旅でサントス港に到着後、すぐにサンパウロ市南西部エンブー市の山本利夫さん(故人・2世)の農場に青年として一人だけ受け入れられた。
パトロンのもとに入った青年は原則的に四年の雇用期間を経るが、「入った以上、何年でも働きます」と、ナス、キュウリ、ニンジンなどの野菜作りに精を出した。
入植3年目頃ごろから「フランゴ・デ・レイテ」と呼ばれる若鶏の飼育を任され、鶏舎小屋つくりな
ども行った。5年の月日が過ぎ去った時、パトロンから「もう、そろそろ独立した方が良い。どうせなら自分の土地を貸そう」と勧められた。独立とともに幼馴染じみだった1世の加代子夫人(70歳)と結婚。山本さんの土地を借りながらの新しい生活が始まった。
しかし、転機は2、3年後に来た。当時、ブラジルで猛威を奮った「ニューカッスル病」で鶏は全滅。野菜づくりへの変換を余儀なくされた。「野菜を作るなら、もっと広い場所が必要」と、友人の紹介でアチバイアに土地を購入した。
「良いキュウリができて、値も良かったんだけどね」—。当時、生産物をコチア組合とセアザ(カンタレーラ)に半々の割合で出していたが、「最高の値で出してやるよ」という仲買人の言葉を信じ、カンタレーラにすべてを出荷したことが裏目に出た。
「清算しに行ったら、全然良い値じゃなかった。これじゃダメだと思ったね」と岡崎さん。子供教育面などを加代子さんとも相談した結果、「借金の無いうちに百姓にキリを付けよう」とアチバイアの土地を売却、現在住んでいるイタペセリカ・ダ・セーラに移転した。
ビアジャンテの生活を始めたのは1963年頃、岡崎さんが三十路にかかろうとしていた時期だった。大型スクーター(ランブレッタ)を購入し、衣料品を荷台に括り付けては、主にヴァルジェン・グランデ、イビウーナ、ピエダーデなど聖南西地域を中心に根気よく足を運んだ。
「はじめは人間関係もできていないので、あまり売れなかったけれど、5回も6回も周っていると1回くらいは買ってくれるようになった。まあ、儲けはともかく、歩いて周るのが仕事だったからね。行商を辞めた今でも地方に行けば、喜んでくれる人もいるよ」と岡崎さんは人の良さそうな笑顔をける。
約20年続けたビアジャンテに見切りを付けた岡崎さんはその後、元来の手の器用さを生かし、見よう見真似で「コケシ・ダルマ作り」を始めた。90年代はじめからは日本に「遊びがてら」出稼ぎにも行き、現在、「コケシ作り」は息子や孫たちが引き継いでいる。
「今でもやっぱりブラジルがいいよ」と語る岡崎さん。人生の転機ごとに自分の意志を貫いてきた満足感が、表情にあらわれている。

松本 浩治(まつもと こうじ) 在伯14 年。HPサイト「マツモトコージ写真館」
http://www.100nen.com.br/ja/matsumoto/


<ブラジル面白ニュース>

日本の若者は今でも、男女の出逢いを求めてお見合いや合コンということをするのでしょうか。ブラジルでは、5 月末、彼氏・彼女を求めて(?)ちょっと変わった集会がありました。

彼氏・彼女募集中、だけど・・・

褐色の肌、長身、独身、彼氏募集中――
「私より背が高くないとダメなのよ。でも、男を見つけるだけでも難しいのに、私より背が高いのって、ほとんど不可能よね」
モデル並みのプロポーションを誇る若い女の子の身長は190 センチ弱。うーむ、確かに、彼氏を見つけるのは難しいです。
金髪、愛嬌あり、独身、彼女募集中――
「僕は簡単な男さ。肩にポンと手を置いたら、そのまま持って行けちゃうよ」とモデル業のダグラス・ネイスさん。というか、簡単過ぎて、肩透かしを食らってしまいそうです。

“ 恋人ナシ市民運動”

さて、一体、何の話だと訊かれそうですが、これは5 月29 日、サンパウロ市のイビラプエラ公園で行われた“ 恋人ナシ市民運動(Movimento dos SEM Namorados)” の一こま。彼氏・彼女がいない若者が集まり、公園内を抗議デモ行進をするという一風変わったイベントが開かれたのですが、参加者たちのコメントが摩訶不思議。
「どんなパートナーだって僕にとったら完璧だよ」ともう1 人のモデル業、グスタヴォ・フォンセッカさん。おかちめんこみたいな女性でも構わないのならば、私も挙手しますが、いかがでしょう?
「俺はエモーションを一緒にシェイクしてくれそうな誰かを見つけたいんだ。それだけさ」というガブリエル・デ・シルヴァさんは、自慢のアフロヘアをのりのりシェイク。彼の職業はグラフィックアーチストということで、コメントもしっかりアートしていてさっぱり分かりません。

独身の理由を知りたい

“ 恋人ナシ市民運動” は今年で2 年目。参加者の多くは何とかして抗議デモから抜け出し、運命の人と出会いたいと目論んでいるわけですが、みんながどうしても理解できないのは、「なぜ、まだ自分は独身なのか」ということ。
「私は、その“ なぜ” を発見しようとしているの。もし見つかれば、私たちも、突然、相手が見つかるでしょ」と言うのは、集会を運営するNGO役員のクラウジア・ニーマイヤーさん。いやその、もちろん、それが分かれば、こんな集会に参加する必要はないわけですが・・・・・・
ちなみに、ブラジル地理統計院(IBGE)のデータによると、ブラジル国内には、7400 万人の独身者がいるとのこと。そんな皆さんが良きパートナーと巡り合えるよう、私も心から祈っています。

門脇 さおり 島根県出身。会社員。2 児の母。


<子どもたちの健全な未来のために>
ビリチーバ・ミリン市の養護施設でのプロジェクト

麻薬や10 代前半での未婚の妊娠、犯罪組織との接触など、ブラジルの貧困家庭の子どもたちは社会の魔の手に取り込まれるリスクが高いのが現状です。貧困のみが問題なのではなく、子どもたちとの保護者の接し方は育児での重要課題です。
サンパウロ州ビリチーバ・ミリン市Biritiba Mirimにある養護施設「聖アントニオの家Lar Santo Antônio」では2005 年以降、ブラジル政府とサンパウロ州政府から、子どもたちの非行を未然に防ぎ、健全な将来と社会秩序の安定を目指した2 つのプロジェクトの協力を依頼され、その活動に取り組んでいます。

◆養護施設「聖アントニオの家」の由来
聖アントニオの家は日本のカリタス修道女会と北米のメリノール宣教会のW・マーレイ神父が中心となって1979 年に創設されました。不良少女の更正施設として始まり、後に約70 人の少年少女が暮らす養護施設になりました。
2005 年以前、行政はビリチーバ・ミリン市内の貧困層の子どもたちを支援するプロジェクトを他の福祉施設に依頼していましたが、運営に行きづまり、代わって日伯両国において30 年以上の福祉活動に実績のある聖アントニオの家が引き受けることになりました。
2005 年まで行政からの補助金は一切なく、現在も月3000 レアルを受け取るのみで、毎日200 人以上の子どもたちの世話をしています。毎月の補助金は全てプロジェクトのために派遣された教育指導員の人件費に当てられるため、施設の維持費や子どもたちの食費などは、施設で奉仕するシスターたちがまかなう慈善バザーや慈善ビンゴ大会などで独自に捻出しています。設立当初から近隣の日系農家が毎週届けてくれる新鮮な野菜や、スーパーの期限切れ前の食料品の援助を受けて、子どもたちの食事が確保されてきました。
教育指導員は有志を募って最低賃金の465 レアルで働いていますが、それでも不足する額は、各指導員に篤志家の後援者がつくことで補っています。後援者不足で職員が継続して働くのが常に難しい状況で、当事者であるシスターたちの困難は尽きません。

◆子どもたちへの2 つのプロジェクト
聖アントニオの家が担う活動は、保護者のいない子どもたちを育てることと貧困家庭の子どもたちを家庭や学校外で世話することです。現在、施設では0 ~ 18 歳までの子ども14 人が暮らす他、平日は公立学校の通学時間帯以外に午前と午後、7 ~ 14 歳(120 人) と15 ~ 19 歳(50 人) の子どもたちが通ってきます。施設は町外れにあるため、通学には午前と午後に2 往復、市のバスが提供されています。
施設に通う子どもたちは聖アントニオの家で朝食や昼食をとり、体育や図画工作、ダンスや音楽などの授業以外に、心の教育( 宗教教育) も受けます。問題行動を起こす子どもたちには、心理療法士が特別にオリエンテーションを行う日もあります。

◆在籍する子どもたちの家庭
聖アントニオの家で暮らす子どもたちは、ブラジル各地で生まれた全く身寄りのない子どもたちです。一方、通学してくる子どもたちは、保護者はいても家庭に何らかの養育困難な理由があります。毎年、聖アントニオの家に通学を申し込む子どもたちは200 人以上に及び、職員が各家庭を訪問して本当に援助が必要であるかを確認します。
ビリチーバ・ミリン市内では、3ヵ所で貧困の住人が暮らしています。人々の職業は農家の日雇いや廃品回収作業員が多く、子どもたちの両親は離婚や別居で片親であることも多いのが実情です。家族が麻薬常習者のこともあり、両親が養育放棄して外で遊んでいる場合も少なくなく、子どもだけが残されて非行に走ってしまうケースも目立ちます。家庭では満足な食事もできず、早朝から遠くの家を出て施設まで歩いて通う子どももいます。
保護者には聖アントニオの家が子育てを助ける間、真面目に社会復帰することも求められ、その約束が果たされているか状況を確かめるため、シスターたちと職員は毎週水曜に家庭訪問をしています。
ブラジルの福祉活動最前線で戦う日本人日系人シスターの姿は、サンパウロの町を創設(1554) したイエズス会のアンシエッタ修道士や鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエル(1549) の開拓精神を彷彿とさせられます。
*今回、聖アントニオの家の案内は、日本のカリタス修道女会ブラジル宣教第一陣として派遣され、43 年間教育奉仕に献身してきたフィオレンツァ川上幸代さん(73 歳、修道女)にご協力いただきました。

『Lar Santo Antônio』
℡ :4792-2609 www.larsantoantonio.com.br

おおうらともこ
1979 年兵庫県生まれ。’01 よりサンパウロ在住。ブラジル民族文化研究センターに所属。子どもの発達に時々悩み、励まされる生活を送る。


<-南米の小国・世界の果て-ウルグアイ>

小津安ニ郎の名作『お茶漬けの味』をご存じですか?設定は終戦直後の昭和20 年代後半、結婚7 ~ 8 年経った夫婦ドラマを描くこの映画に、なんと「ウルグアイ」という地名が登場します。朴訥で鈍感な夫のことが気に入らない妻が数日間の家出中、勤め人の夫が突然ウルグアイ出張を言い渡され、この機会に妻が夫の頼もしい態度を見直し、仲直りするという心温まるシナリオです。海外出張が珍しい当時、「モンテビデオ」という響きは、いかにも世界の果て、無事に帰国できないかもしれない・・そんな予感を与え、「ウルグアイ」が作品の大きなカギといえます。
ブラジルに住んでいると気になるのが南米の他の国々。その中でも、特に日本から遠く、情報が少ない小さな国、それがウルグアイでしょうか?ブラジルとアルゼンチンに挟まれ、日本の約半分の国土。筆者は日本で冒頭の映画を観て以来、長年行ってみたい国でした。前段はさておき、今回はウルグアイ旅行記です。

■モンテビデオの街歩き
薄暗いグアルーリョス空港からわずか2 時間半で、首都モンテビデオのカラスコ空港に到着する。清潔で広々とした空港内は明るい日差しに溢れ、同じ南米とは思えない感覚を起こす。カラスコ空港は2009 年改築オープンの国際空港で、ウルグアイ人建築家ラファエル・ヴィニョリによるもの。この建築家は、あの東京・有楽町の東京国際フォーラムも手掛けている。確かに、曲線に沿ったガラスの吹き抜けスペース、白い支柱が大胆に露出された内部、燦々と光が差し込む雰囲気はとてもよく似ている。
空港から約20km 離れた中心地へ向かう。小奇麗なのは空港だけと思いきや、高級住宅地を通り抜け、美しく舗装されたラ・プラタ川の川辺、川沿いに建ち並ぶ大きなガラス窓の洒落たマンション群を眺めていると、まるでヨーロッパのリゾート地に降り立ったよう。
モンテビデオの中心地は、独立広場を境に旧市街、新市街に分かれる。西側の旧市街は18 世紀以降の植民地時代からの古い面影を残す石畳の街並み、東側はメインストリートの7 月18 日大通りを中心に数々の店やレストラン、カフェが続く賑やかなエリアとなっている。ホテルは便利な新市街がオススメ。荷物を置いたら、まずこの7 月18 日大通りを歩いてみよう。なお、土曜の午後と日曜日はほとんど閉店なので要注意。

●メルカド・デル・プエルトでパリジャーダ・ デビュー!
街の散歩もほどほどに、早速、遅めのランチは地元名物料理を食べに行きたい。滞在中、一度は行くべきオススメは旧市街の北に面したメルカド。と言っても、食材を売る店はなく、肉料理をメインとするオープンレストランが所狭しと集まっている。どの店も地元の人々で賑わっている。本場の味、パリジャーダ(肉・内臓の塩焼き盛合せ)を体験しよう。平日・週末ともに夕方以降は閉まる店が多いため、ランチタイムがオススメ。

●蚤の市へ行こう!
ポルトガル語のフェイラ(スペイン語ではフェリア)にあたるが、サンパウロ市内各地の生鮮品中心のこじんまりとしたフェイラとは異なり、モンテビデオでは市内数か所に限られ、それぞれ規模が大きい。各蚤の市には特徴があり、中でも日曜日のトゥリスタン・ナバハ市場は、生鮮食品のほか、洋服、日用品、古本と扱うものが幅広く、ウルグアイ人の庶民の生活を垣間見ることができる。

●驚くべきマテ茶文化
リオグランデ・ド・スル州などブラジル南部でも愛好されているマテ茶。もともと、マテ茶はガウーショ(スペイン語ではガウチョ)と呼ばれるブラジル南部、アルゼンチン、ウルグアイで牧畜を営む人々の文化を継いでいるが、現在ではウルグアイ人一人当たりのマテ茶消費量は他地域をはるかに上回るという。
その事実は、モンテビデオの街を3 分も歩かないうちに気づく。街行く人があちこちでマテ壺を手にしているのである。大抵、マテ壺を持つ同じ腕には、器用にmy 水筒を脇で挟んでいるか、マテ茶セット(マテ壺・水筒・茶葉など)をしまう革製のmy マテバッグを肩から掛けている。
筆者が特に驚いたのは、ホテルでみた地元のニュース番組のキャスターの脇にマテ壺が置かれていたこと、空港にいたシスター数人がマテ茶を飲みながらカウンターに並んでいたこと!

■高級ビーチリゾート地〜プンタ・デル・エステ
モンテビデオ市内にもラミレスビーチやポシートスビーチなど美しいビーチがあるが、南米随一の高級ビーチリゾートなるものを体験したいなら、市内から約140km 東のプンタ・デル・エステをオススメしたい。ここは完全な観光地で、広大なビーチそばの中心地区には観光客向けの店、レストラン、ホテルが整備され、その他エリアはほとんどが別荘地といえるほど。夏季シーズン中はアルゼンチン人やブラジル人の他、ヨーロッパ人を含む多くの外国人が集まるインターナショナルなビーチ。
夕暮れ前はドライブしよう。中心地から海岸線を約13km 走ると、ウルグアイを代表する芸術家カルロス・パエス・ビラロによる真白い家カサプエブロが突如現れる。ホテルの隣には美術館が併設されていて、彼の作品が鑑賞できる。お茶を飲みながら、テラスから眺める夕焼けは絶景この上ない。
その他、モンテビデオから西170km のコロニア・デル・サクラメントも世界遺産に登録された歴史ある街で見逃せない。アルゼンチンのブエノスアイレスからでも、高速フェリーで約1 時間。

☆ウルグアイ旅行シーズン: 11 月~ 3 月
サンパウロ-モンテビデオ直行便:TAM、PLUNA航空で毎日数便あり。

☆ウルグアイ国内の交通:モンテビデオ市内は、徒歩またはタクシーで。プンタ・デル・エステやコロニア・デル・サクラメントまでは、レンタカーまたは長距離バス。プンタ・デル・エステ近郊巡りもレンタカーが便利。

今、ブラジル中を沸かせているワールドカップ。優勝経験もある歴史的なサッカー国ウルグアイは、A グループから無失点で一位通過した後、韓国を破り、20年ぶりのベスト8 進出が決定しました(6 月24 日)!ますます注目の隣国です。

山本綾子(やまもとあやこ)
お茶の水女子大学卒(生活文化学専攻)
旅経験30 ヶ国 ブラジル在住


<ブラジル文学周遊>
コラ・コラリーナ 赤い心を生きた女流詩人②

なつかしい自分の居場所に戻ったコラは、つかれたように書き始めました。土の匂い、厩舎の臭い、流れる水、しずくをたらす葉っぱ。木の根の一つ一つが詩情をかき立てます。コラの作品が分かりやすく、生き生きと生活に密着した詩物語が多いのはそのためです。空想にふけって書く詩ではないのです。
初の詩集「ゴイアスの横丁とその物語」が出版されたのが1965 年。翌年には10 版を重ねるほど売れました。コラはすでに75 歳でしたが、これからの20 年が大きな花を咲かせる舞台になります。その作品のみずみずしさ。サンパウロでなめた辛酸が「時」を得て開花したのです。やはり人にはそれぞれの「時」があるのです。
ちょっと因縁めきますが、昔、糊口をしのぐためにやった本のセールスマン。その売った本の著者がジョゼ・オリンピオ。彼はすでに出版社の社長になっていて、そこから最初の本が発行されたのでした。
75 歳になってからはじめて本を出すこのバイタリテイー。私も見習わなくては思っているところです。ニッケイ社会にも戦争のために勉学ができなかったと嘆息する層がありますが、このコラの生き方、手本になるような気がします。
76 年に「私のコルデルの本」を出版。ブラジルにはコルデルと呼ばれる本のジャンルがありますが、適当な訳がなくて困っています。大衆文芸とでもいえばいいのでしょうか。浪曲師にアコーデオンを持たせ、森の石松の代わりにランピオンを語らせる。浪花節を基調にしたような語り節。7・5 調子で調子よく延々と語ります。「私のコルデルの本」というタイトル。コラにも『私の語り節』という意識があったからではないかと考えられます。心のつぶやき。上段に構えたものではないといいたいのでしょうか。意訳が許されるなら「私の詩物語」が適切かもしれません。
1980 年、いくつかの作品を読んだ大御所カルロス・ドゥルモンド・デ・アンドラデから手紙が届きます。裏側で、こつこつわが道を歩いていたコラに陽が差し始めたのです。
「親愛なるコラ・コラリナさんへ。あなたの作品『20レイス銅貨』は、金貨の値打ちがあるものです。市場値に変動することがない価値ある‘ 金‘ です。今まで読んだどの詩よりもまっすぐで、人の心を打ちます。なんと豊か人間性、類まれなる感受性、生活に裏打ちされたあふれる詩情にあふれています。アニニャはもう私たちだけのものではなく、この地に生を受け、詩を愛する全てのブラジル人の財産です」


この私信がゴイアス連邦大学から発表されたのが83 年です。続いて出版された『2 0 レイス銅貨 - アニニャの半告白記』は好評を博し、翌84 年には女性で初の『ジュッカ・パット賞』を受賞しました。
94 歳のとき、「今、人生の一番良いときを生きているの。それは、半分のほんとを語る勇気がもたらしてくれたもの。誰も全部のほんとは語らないものよ」
文学を志す女は幸せになれない、といわれながら、少女期から絶えることなく燃やし続けた詩の炎。コラ・コラリナは世界一幸せだったのではないでしょうか。
1985 年呼吸器不全で死去。96 歳。4人の子から15 人の孫が誕生しています。死後ゴイヤス連邦大学から名誉博士号を贈られました。
日系社会では知られていませんが、その明瞭で平易な語り口から、学童が教科書で一番先に触れる文学作品でファンも多いといわれています。
苦労の末に買い戻した「橋のたもとの古い家」は、現在博物館になっていて生前のコラを髣髴させてくれるといいます。一度私も訪問したいと考えているところです。
墓碑には「文章で音楽を奏でたものはここに不滅である」と刻まれているそうです。

こんな風に人生を考える

人生には二つの顔がある
ポジティブとネガティブ
過去はつらかったけれど
残してくれたものがある
生きることを学ぶ大いなる知恵
それで私は徳をつんだ
私の女としての条件
その限界を知ること
価値観のくずれゆく中で
石のように堅固にまもる
荒々しい時代に生まれ
矛盾と戦い
世の礫にうたれた
私に役に立つ
生きることを学んだ

中田みちよ
青森県出身 在伯半世紀
第8 回内田百閒文学賞随筆部門大賞(2005)


<新・一枚のブラジル音楽>
イネジータ・バローゾ/ソウ・マイス・ブラジル 
Inezita Barroso “Sou mais Brasil”


ブラジル内陸部を代表する音楽ジャンル、ムジカ・カイピーラMúsica Caipira。ムジカ・カイピーラは20 世紀初頭、農民として働いていたカボクロ達が、仕事の後に一日の労働の疲れを癒すかのようにギターやヴィオラ・カイピーラ(復弦のギター)を弾きながら歌っていたのが始まりとされている。以降、ムジカ・カイピーラは田舎の音楽とされ、当時の都市生活者はあまり好んで聴いていなかったようだ。しかしラジオや蓄音機の発達、そして農村から都市部への労働力の移動などが影響すると、1940 年頃から都市部でも大流行した。特にブラジル各地から多くの出稼ぎ者が集まるサンパウロにおいては、故郷を懐かしむ愛好者に支えられると、多くのムジカ・カイピーラ系アーティストが活動の拠点とした。今日、ムジカ・カイピーラを愛聴している層は年齢層の上昇に伴い往年ほどの勢いはみられないが、ブラジルのヒットチャートを独占しているムジカ・セルタネージャMúsica Sertaneja はムジカ・カイピーラから派生したいわばムジカ・カイピーラの次世代の音楽であり、その精神性は受け継がれている。また往年のムジカ・カイピーラを歌う歌手も少なからず活動を続けている。今回は、85 歳を超えた今でも元気に活動を続けているムジカ・カイピーラ界の大ベテラン、イネジータ・バローゾを紹介しよう。
イネジータ・バローゾことイネス・マダレーナ・アラーニャ・デ・リマIgnez Madalena Aranha de Lima は1925 年3 月4 日、サンパウロの音楽を愛する両親の元に生まれた。7歳より歌うようになりギターとヴィオラ・カイピーラを習い始め、11 歳よりピアノを始めるとますます音楽に傾倒した。やがてプロ歌手になることを決意。大学卒業後の1951 年にシングル盤をレコーディングし、プロ・デビューを果たした。1953 年にはラジオ局専属の歌手として契約。この頃から徐々に人気を獲得していく。当時、女性歌手といえばサンバ・カンサォンSamba Canção が主流だったが、彼女はグアラニアGuarânia、トアーダToada、パゴーヂPagode、モーダ・ヂ・ヴィオラModa de Viola といった、ムジカ・カイピーラの良心を歌った。また男性2 人組が主流のムジカ・カイピーラ界において、女性ソロの弾き語り歌手として新風を吹かせた(オーケストラを伴奏に歌うこともある)。そして1958 年にリリースした「モーダ・ダ・ピンガModa da Pinga」が大ヒット。これは彼女の代表曲となった。以降、コンスタントに作品をリリース。この頃は絶世の美女だったそうで、映画にも何本か出演している。1970 年には日本で開催された万国博覧会でブラジルを紹介するドキュメント・フィルムの製作に関わっている。彼女にとってターニング・ポイントになったのは1980 年、TV クルトゥーラ(テレビ局)でムジカ・カイピーラの歌番組「ヴィオラ・ミーニャ・ヴィオラViola Minha Viola」の放送が開始され、この番組で司会を務めることになったことだ。番組がきっかけで先輩格からデビューしたての若手出演者まで幅広く交流し、自身もムジカ・カイピーラ歌手としての存在を広く示した。ちなみに、この番組はつい先日放送30 周年を迎え、盛大な記念イベントが開催された。85 歳を超えた今でも彼女の元気な姿を毎週観ることができる。これまで約50年のキャリアで80 枚のレコード(CD 含む)をリリースしている。近年はファンキ・カリオカのDJ、ロナウドが彼女のヒット曲「モーダ・ダ・ピンガ」のファンキ・カリオカ・ミックスをリリースしスマッシュ・ヒットを記録した。このように彼女は老若男女から広く愛されている存在だ。
さて、本アルバムは1999 年、彼女が70 代も半ばにさしかかった時に録音した、円熟期のセルフ・カヴァー集だ。収録曲の全てがムジカ・カイピーラの定番曲で、ボサノヴァ界のマルコス・ヴァーリMarcos Valle が書いたカイピーラ曲「ヴィオラ・エンルアーダViola Enluarada」で幕を開け、ナラ・レオンNara Leão も歌った「クイテリーニョCuitelinho」、巨匠ヴィラ・ロボスのサンバ・カンサォン「ニャポペNhapope」、かつての大ヒット曲「モーダ・ダ・ピンガ」、北東部のリズム、ココで歌った「ココ・ド・マネCoco do Mané」、ショッチ・スタイルのフォホー「ノ・ボン・ド・バイリNo Bom do Baile」、ライブ収録されたアルバムの最後を飾る「ランピアォン・デ・ガスLampião de Gás」まで、まるで一人の女性が歩いて来た人生の道のりを振り返るような、優しさに包まれた作品だ。パウリーニョ・ノゲイラPaulinho Nogueira、テオ・ヂ・バーホスTheo de Barros、ナタン・マルケスNatan Marques といった一流アーティストによる度の過ぎない伴奏も素晴らしい。初めてムジカ・カイピーラを聴くという人もすんなり入っていけるだろう。
残念ながら(関係者自ら「ブラジル音楽大国」と呼んでいる)日本においてムジカ・カイピーラはほとんど評価されていない。いや、ミュージシャンや評論家でさえムジカ・カイピーラの代表的作品をまともに聴いていないのではないだろうか。このような庶民に愛された音楽こそブラジルのリアリティが込められていると思うのだが、いかがだろうか?

Willie Whopper
東京・西荻窪にあるブラジル・スタイルのバー、Aparecida のオーナー。著書に『ムジカ・モデルナ』、他、CD ライナー等多数執筆。


<パサリニャー!!>
ブラジルの鳥を見に行こう!



SANHAÇO-CINZENTO(サニャッソ・シンゼント)
学名:Thraupis sayaca
和名:ハイガシラソライロフウキンチョウ
スズメ目フウキンチョウ科


前回お話ししたとおり、このシリーズではサンパウロ市およびその周辺でよく出会えると思われる順に野鳥に登場してもらっていますが、今月のこの鳥もまた、サンパウロのみならず、ブラジルではアマゾン地方を除いたほぼ全土に分布し、大都会でも普通に見られる種としては、シリーズ最初に登場したサビアー・ラランジェイラと並ぶと言われます。
ただ・・・。
幸か不幸か・・・あまり目立たないんですね・・・。
片やサビアーはサンパウロ州のシンボル・バードに指定されているというのに、このサニャッソ君、下手をすると一般のブラジル人にさえもその存在を知られていないかも。
カラフルであるとか、さえずりが美しいとか、あるいは騒々しいとか、風変わりな習性を持つとか、何でもいいから特徴があってくれると、特に野鳥に関心がない人にも覚えられたりするものですが、この鳥の場合はどれもいまひとつ。
写真を見れば何やらとても鮮やかな空色をしているようですが、いかんせん、実際に見るとややくすんでいる。
そんな鳥が一瞬目の前を横切ったところで、フツーの人の目にはその影すら残らないものです。
和名の「ハイガシラソライロ」はそのまま「灰頭空色」。例によって単刀直入です。
それでは「フウキンチョウ」って何でしょう。
漢字では「風琴鳥」。「風琴」とはオルガンのことです。
ずいぶん風流な名前ですね。万葉の歌人によって名づけられたかのようにも思えますが、日本にはフウキンチョウ科の鳥はおらず、アメリカ大陸に数百種が分布するのみです。命名は比較的新しいわけですが、風雅なセンスを持った方に拍手です。
風琴と呼ぶからにはメロディアスなさえずりでもするのかというと、それほどではなく、むしろ原色のカラフルな鳥が多いことで知られます。この灰頭空色はそれほどではないけど。
雑食性で果物、種、虫など、嗜好性は実に広範囲。花の蜜も吸います。空間と時間に余裕のある方、餌付けしてみてはどうでしょう。
朝食の残りのパパイヤとかスイカの皮などを根気よくお庭のバードフィーダーに置いてみましょう。目立たないというだけで、昨今の大気汚染と騒音に満ちた都会でも何不自由なく暮らしているようですから、遠からず、サニャッソ君のお出ましとなるでしょう。日光さえ浴びれば、その空色は意外に鮮やかで、一目でそれとわかります。
そうやっていよいよあなたとそのご家族に慣れてきたら、お庭にテーブルを出して、フィーダーには皮でなく、果物そのものを置き、野鳥と共に朝食と洒落込んでみては。
世はロハスとか。

服部 敬也(はっとり ひろや)カンポグランデ在住
hiroya@terra.com.br
http://blogs.yahoo.co.jp/momotusmomota



神秘の湯・塩水の温泉につかり、心も体もリフレッシュ!!
ミナス州カショエイラ・ドウラーダ
Cachoeira Dourada

ミナスジェライス州カショエイラ・ドウラーダ市にあるイクアラ・ホテルYquara Termas Hotel には、ブラジルでは珍しい塩水の温泉があり、ブラジルの温泉好きを喜ばせている。
海岸から遠く離れたこの地から塩水の温泉が湧き出るのは非常に不思議なことだが、太古の昔ここが海だったか、あるいは地中の岩塩が地下水に溶けだしたか、どちらかだろうと研究者は推測している。
ここの塩水温泉はリウマチ、皮膚病などに効果があると言われている。また、保湿効果が高く、入浴後には、肌がすべすべになると女性に大好評、まさにブラジル版「美人の湯」だ。
イクアラ・ホテルには7 つの温泉プールがあり、水温はどれも約39 度とゆっくり長湯できる温度になっている。
ホテルのすぐ前にはカショエイラ・ドウラーダ湖があり、釣りやボートなどを楽しむことが出来る。湖に造られた人工の岸は、眺めも素晴らしく、散策に最適だ。







温泉郷カウダス・ノーヴァスCaldas Novas
人気No.1のホテル太陽





 
ブラジルで最も著名な温泉郷の一つカルダス・ノーバス。

当地の老舗ホテル・太陽は、一度宿泊したお客さんのほとんどがリピーターになるほど、アテンドがきめ細かく行き届いている。のんびりくつろげる温泉プールのほか、ゲートボール、カラオケ、テニスなど様々なリクリエーション施設を取り揃えている。









<ブラジル美術の逸品>










【ネリヴァル・ロドリゲス 『モジ・ダス・クルーゼスのコーヒー園』】







2005 年 カンヴァス 油彩 100x140cm サンパウロ 個人蔵
Nerival Rodrigues “Cafezal de Moji das Cruzes” 




coleção particular SP


「1950 年代のモジ・ダス・クルゼスのコーヒー園はこの様だったのだ!」




(ネリヴァル)



60年前の田舎、モジ・ダス・クルゼスのコーヒー栽培は最も主要な農業であった。そして、そこに働く人々は今日の様ではなかった。のどかでゆったりとした生活リズムを持っていたに違いない。
今の様なコンクリートのビルも全く無い、自動車の交通停滞が皆無の中にスモッグ汚染と言われるものも、よりゼロに近かったのである。緑色の広大な田園と空に広がる蒼色が対照となった空間の中に茶色の土と直に接しながら人々は生活し働いていた。今で言えば、それは人間として生を受けた者の環境としては抜群の世界で在るに違いない。しかし、その過去を取り戻す事は、もはや不可能である。只、私達はその失われた天空と地と人を夢見るように望見し続けるのみである。

ネリヴァル・ロドリゲス

北伯ペルナンブッコ州のグァラニュンスの町にて貧乏農家の息子として(1951年12月23日)生まれた彼は土と草木の中で育った。今でこそ、この町は(標高900mの高地で人口200万人以上の避暑地。寒涼雨霧の環境は丁度サン・パウロの様相である。1985年から音楽、ダンス、演劇の国際冬季フェスチバルが開催され、以後人口増加。)ペルナンブッコ州のスイスと言われているが、‘60年代(当時人口5万人)の「農村田舎」は何処も「貧困に喘ぐ者達の村」の代名詞だった。カーザス・ペルナンブカナスの創設者アルツー・ルンドグレンやルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルヴァ(大統領)が生まれた所でもある。昨年封切されたファビオ・バレット監督の映画『ルーラ・ブラジルの子(2009年作)』に出てくる風景やワルテル・サレス監督の映画『ビハインド・ザ・サン(2001年作)』の背景が彼、ネリバルの育った「田舎」である。最も人気のある彼の絵画は緑草色に囲まれた素朴な田舎の田園風景の中に人々が働いているものだ。それは彼の生まれ育った環境と彼の心理的背景が具現化された作品なのである。原始林とインディオを描く19世紀初期のフランスよりのアート・ミッシヨン画家ジョアン・バチスタ・デブレに感動し感化を受けた。全くの独学であり素朴派(NAIF)絵画で、彼のプリミチヴィズム的(初期的、原始的、素人的、アンリ・ルソーや山下清の作品)画法は絵を鑑賞する者達に安らぎと癒しを与えてくれる(それは私達が自分達の子供の絵を見るような心境にシンクロナイズされるからだと言う)。インジオをこよなく愛した人類学者ダルシィ・リベイロや社会文化派の教育者パウロ・フレイレを尊敬する。1962年以来、サン・パウロに在住、今迄に9400枚の絵画を制作し、うち540枚の絵画が日本人に引き取られている(その切っ掛けは70年代後半からスザノ市にある日本の企業NSKブラジル支社に勤めていた時、彼の絵が上司の福丸常雄氏の目に止まってからである)。 

アート・セラピィ

彼の絵には不思議なものがある、鑑賞していると心の安らぎを得られるのである。スザノ市にあるファビオ・相原歯科医院の中に飾られているのは彼、ネリヴァルの絵画で相原氏は35枚もの作品を蒐集されているとの事である。歯を治療する患者達は不安と痛みの中で待ち、より異常な緊張の中で治療を受けるのが歯科医院内での実情である事は誰もが知るよしだ。そんな患者達の心理に呼応すべき存在するのがネリヴァルの癒し系絵画である。リラックスと安寧を与えてくれるのである。
  小生もネリヴァル・ファンの一人で5年ほど前に彼の講演「NAIFの世界」がパウリスタ美術大学でなされた時に感動して入手した。居間に飾られたこの「優しさの存在感」は他のどの絵画よりも私の心を癒してくれる。外から部屋の中に入った時、先ず最初に目にするのがこの「優しさの・・・」一声「お帰りなさい!」である。 

 モジ・ダス・クルゼス市長とその一行の訪日土産

  ちなみに今年4月22日、市長マルコ・アウレリオ・ベルタイオリや市議会議長マウロ・アラウジョをはじめとする一行8名が日本の姉妹都市(富山市:石川県)を訪問した際に持参したものがネリヴァルの8枚の絵画である。 

佐藤語
映画によるアート・セラピスト


<摩訶不思議なブラジル経済>
株式市場改革

4年に一度のワールドカップ真最中にこの原稿を書いているが、今回はどこが優勝するであろうか?私も仕事は二の次でせっせと試合を見ている。ブラジルは順調に予選を勝っており優勝の可能性もあるだろう。今回は南米チームの調子が良いのが印象的であるがどうであろうか?日本も自国開催大会以外で初めて勝ったり、嬉しいこともあった。ブラジルもこの時期はセレソンの試合のある日は銀行の営業時間が中銀の指示によって変更されるのは驚きである。 
さて今回は、先日ブラジル株式市場の今後について興味深い記事が出ていたので紹介しよう。現在外国人投資家がブラジルの株式を買う方法としてはNYに上場されているADR(American Depositary Receipt、米国預託証書)を買う方法が最も一般的である。これを今後はブラジル市場に上場されている株式を直接売買できるようにすることが検討されている。NYに上場されているADRはブラジルの超優良会社のみにであるのに対して、ブラジル市場に上場されている全企業の株式へ投資が出来るようになるのは海外投資家にとって極めて魅力的である。 
また、この構想では株式取引をドル建てで出来るようにすることが検討されており、通常であれば先ずドルからレアルへ為替取引を行い株式の購入を行い、売却時は株式の売却とレアルからドルへの為替取引を行う必要があるのを、これらを一連の取引とすることを検討している。例えば、ペトロブラスの株式(PN)の価格が30レアルだとすると、その日の為替が1ドル=1.80レアルであった場合にはその株式が16.67ドルと値がつけられるという具合である。課税等についての詳しい詳細は明らかにされていないが今年度後半には、この新たな枠組みが開始される見通しである。 
もう1つの新たな枠組みとして、上記と逆に海外優良企業の株式をブラジルでも購入できるようになるとの試みが7月1日から開始される。所謂BDR(Brazilian Depositary Receipt、ブラジル預託証書)である。例えば、Apple、Google、Exxon、Wal-Mart、Mc Donald’sなどの株式をブラジルで購入できるようになるのである。これはブラジルの投資家にとって投資先の選択肢が増え、逆に海外企業はブラジルマーケットでのプレゼンスアップと共に資金調達先を増やす意味でも大きなメリットを持つ。因みに日本にも同様な枠組みがあるが、海外企業の日本での上場数は残念ながら最近は減っている。尚、このBDRの購入は現在の所、機関投資家に限定され一般の人は購入出来ない。一般の人は銀行等が組成するFUNDOを通して投資することになる。 
これらの改革はブラジル株式市場を投資家により使いやすくする為のものであるが、同時にブラジル株式・先物市場は取引量増加への対応も行っている。BOVESPAでは取引量のキャパシティーを一日150万件から300万件まで上げている。また、先物やデリバティブ取引をするBM&F市場も現在は一日20万件のキャパがあり、過去平均は一日7万件程度であったが、最近は15万件近くに達することもあり、一日30万件の取引が可能なキャパシティーに上げることを決めている。 
ブラジルでは為替政策の柔軟化に加え、株式市場も改革を行い国内・国外の投資家に魅力的にする努力がされている。ブラジルは引き続き発電能力の増強や道路・港などのインフラ等の整備に対して大量の資金が必要となっている。また、カンポス沖に見つかった大型油田の採掘に関しても、相当な資金が必要となる。現在はBNDESが長期の資金を安く供給することで金融危機も乗り越えるとともにこれらの必要な資金をまかなっているが、これにも限界がある。BNDESの資金元は結局は連邦政府であるので連邦政府も資金調達には限界がある。従って、ブラジルの成長を安定的かつ持続的にするには如何に海外・国内の民間資金を活用するかにかかっており、今回説明した株式市場の柔軟化はをれを目的にしていると言ってよい。今年のワールドカップの優勝国が何処になるのかと主に4年後のブラジルワールドカップ時に金融市場がどうなってるか大変興味深い。 

加山雄二郎 大学研究員


<ブラジル社会レポート>




国中が熱狂するワールドカップを経済的に眺めてみると 



いよいよ、サッカーのワールドカップ(W杯)が開幕しました(というか、この号が出る頃にはもう決勝トーナメントでしょうか?)。ワールドカップの開催年は、ブラジルにおいては大統領選の開催年。このため、W杯開催年のブラジルは、大盤振る舞いの公共投資に加えて、大幅に制限されたものの(日本と比べると?)依然として金権体質の選挙対策があったりと、もともとが景気の浮揚効果が見込める年なのです。 
国庫の歳出がだだ漏れ?的状況になるのに加えて、日本人の私たちにとっては「君たちの人生はそれしかないのか?」と言いたくなるようなブラジル人のW杯の応援振り。今年のW杯では各国から不満たらたらの悪役になったブブゼラをはじめ、代表のシャツや緑と黄色の帽子、サングラスなどのグッズ、さらには大事な試合を観戦するためのテレビや、文字通り勝利の美酒を味わうためのビールなどがバカ売れするのだそうです。 
テレビ業界では、薄型テレビの販売が勢いに乗って品不足気味、しかも、液晶パネルをアジアから海上輸送していたのでは増産に間に合わないという状況から、空輸してまで需要に対応したメーカーが多かったようです。このため、工場が集中するマナウスの空港では、税関職員を増強して対応するという異例の事態になったようです。また国内紙の報道によれば、小売店では「購入予定だったメーカーのテレビが品切れでも消費者は入荷待ちなどせずに別のメーカーの製品を買って帰る状況」だそうで、メーカーにとっては生産が追いつかないことが即、シェアの落ち込みにつながるので大変だったようです。ブラジルでは今年のテレビの販売台数が、昨年を30%上回ると予想されています。思わぬボトルネックに泣いたのはビール業界も同様で、ビールそのものの生産ではなく缶メーカーの供給が間に合わないという理由から品不足気味になっています。ブラジル清涼飲料水工業界(Abir)とブラジル高リサイクル缶製造会社協会(Abralatas)が分析したもので、金融危機から回復したこの夏(昨年末からこの年明けにかけて)の時点で、缶は15億本の不足。フル稼働しても需要に追いつくのは次の夏(2010年の年末)だそうです。さらにブラジル・スーパーマーケット協会(Abras)によれば、飲料は27%、おつまみは10%の販売増を見込んでいます。こうしたW杯効果もあいまって、政府は今年上半期の正規雇用が158万人拡大したと推計しています。 
ビールが売れること自体、ブラジル代表の試合がある日は「働かない」人がいることを意味するわけですが、そんな業界のひとつが自動車業界です。といっても、すべてのメーカーが生産を停止したわけでもなく、またメーカー内部でも工場ごとに対応が分かれたりしているようです。例えば、ゼネラルモーターズ・ド・ブラジル(GM)は、サン・ジョゼ・ドス・カンポス工場が試合中にも操業した一方、同工場から80km離れたサン・カエターノ・ド・スル工場では、従業員は自宅観戦(工場の操業を停止)だったそうです。操業を停止した工場の場合は、W杯終了後にその埋め合わせが待っているそうで「結局はプラスマイナスゼロ」ということらしいです。 
面白いのが電力消費で、2試合目となった6月20日(土)の場合、試合開始の30分前までは通常の土曜と同様の消費で推移しながらも、午後3時10分からキックオフの午後3時30分にかけて、消費電力が1,400MW減少したそうです。しかも試合開始後は、毎分33MWずつ消費が減少。ハーフタイムで一時的に上昇したものの、後半開始で再び電力消費は下降線。その後、試合終了から消費が増加して24分後には、試合終了時点から1万0,700万MWも消費電力が拡大したそうです。これは、サンパウロ大都市圏の消費電力に相当するのだとか。 
いったいどういう理由かは分かりませんが、恐らく、試合の開始30分前からテレビの前で臨戦態勢から観戦(リビング以外のテレビのない部屋の電気が消える、パソコンの使用が減る、商店が営業を中断してシャッターを下ろす等)、試合終了後は夕方のためにいっせいに部屋の電気をつけるなどした、と言うことなのでしょうか。これが全国規模で行われると、サンパウロ大都市圏の消費電力に相当する電力需要がが増えたり減ったりするようです。電力消費からブラジル人たちの観戦パターンを想像すると、まさに2億人近い国民の目がテレビに釘付けだったようです。街角が無人化するのも納得です。 
W杯効果でさまざまな業界で需要が拡大しているようですが、一方で、その需要に国内産業が対応できないことから業種によっては輸入も急増しています。結果として、W杯の国内経済への波及効果がいったいどれぐらいになるのか、現時点では「まだ分からない」というのが正直なところのようです。

美代賢志(みよけんじ)
ニュース速報データベース「B-side」運営。
HP : http://b-side.brasilforum.com


<クラッキ列伝>
第12回 プレギーニョ

真冬のヨハネスブルグで行われているW杯南アフリカ大会の初戦、北朝鮮戦。均衡を破ったのは後半10分、右サイドから放たれたマイコンの強烈な一撃だった。
過去19回のW杯に出場してきたブラジルにとっては通算202度目となる得点だ。過去幾多の名ゴールを生みだしてきた王国にあって、最初にゴールネットを揺らした男の存在は意外と知られていない。
まだ各大陸予選もなく、参加国も13チームという牧歌的な時代に開催された1930年の第一回ウルグアイ大会。現在のカナリアイエローでなく、真白なユニフォーム―1950年のマラカナンの悲劇後に着ることはなくなった―を身にまとったブラジル代表は、7月14日にモンテビデオのパルケ・セントラル競技場で行われた初戦のユーゴスラビア戦に登場。ウルグアイの国旗を掲げて登場したブラジルイレブンの先頭に立ったのが、プレギーニョの愛称で知られたFWだった。
まだ王国と呼ばれるには歴史も実績も不十分だったブラジルが0対2のビハインドを背負って迎えた後半17分、ゴール前のこぼれ球をプレギーニョが蹴り込み、ブラジルのW杯ゴール第一号として歴史に名を刻みこんだのだ。
作家のコエーリョ・ネットを父に持ち、本名をジョアン・コエーリョ・ネットと名乗った男はフルミネンセでFWとして活躍したがペレのような天才性も、ロマーリオのような狡猾性も持ち合わせていたわけではなかった。ただ、彼は当時としては珍しいマルチアスリートとしての才能が備わっていた。
総合スポーツクラブでもあるフルミネンセで、プレギーニョは実にバレーやバスケット、卓球、水泳など数々の競技で活躍。逸話にも事欠かない。ボタフォゴ海岸で600メートルの競泳に参加した直後にタクシーで今度はフルミネンセのサッカーの試合に参加するなど現在ではあり得ないタフな日程をこなしたこともあったという。
プレギーニョの愛称は、まだ金槌だった幼少の頃、プールに真っ逆さまに沈むジョアンの姿を釘に例えた友人の言葉がキッカケだったが、秘められた運動神経はあらゆる競技において発揮されたのだ。
1930年のウルグアイ大会ではブラジル最多の2得点を記録した先達は、フルミネンセで生涯アマチュアとしてプレー。二度のリオデジャネイロ州選手権の得点王を含めて184得点を記録したことも偉業だが、8つの競技で55回の優勝、387のメダルをもたらすという離れ業をやってのけた。
100得点目は1970年大会のペレ、200得点目は2006年大会のアドリアーノ……。W杯で王国のゴールは続くが、その原点はリオが生んだ偉大なマルチアスリートなのだ。
ヴィヴァ(万歳)、プレギーニョ――。今もその胸像は、控えめにフルミネンセのクラブハウス内に立っている。

下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などに執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


<W杯の様々なジンクス>















ブラジルなど南米勢が好発進した一方で、欧州勢の低調が目立つW杯南アフリカ大会のグループリーグ。7月11日にヨハネスブルグで黄金のトロフィーを掲げるのはどこの代表なのか――。W杯にまつわるジンクスなどをもとに、優勝を占ってみる。






過去18回のW杯では、不思議と一度も破られていないジンクスがいくつかある。
1)欧州開催以外の大会では南米勢が優勝。
2)過去18大会の決勝は欧州と南米が独占。
南米大陸での開催はもちろんだが、1970、86年のメキシコではブラジルとアルゼンチンがそれぞれ優勝。1994年のアメリカと02年の日韓大会はいずれもブラジルが制している。この法則を当てはめれば、今大会の優勝は南米勢ということになる。
南米勢といえばブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、パラグアイの5チーム。ただ、南米勢にも不吉なジンクスがのしかかる。
3)W杯前年のコンフェデ杯王者は優勝できない。
97年と05年に優勝したブラジルはいずれも翌年の本大会で優勝を逃している上に、01年優勝のフランスは日韓大会でグループリーグ敗退の屈辱を味わった。ブラジルは昨年のコンフェデ杯で優勝しているために、法則に従えば優勝できないことになる。
4)コパアメリカ王者は優勝できない。
07年のコパアメリカ王者ブラジルにはさらにこのジンクスものしかかる。
そうなると有利なのはメッシを中心にブラジルを上回るタレントを擁するアルゼンチン?いやいや、タンゴの国にも恐るべきジンクスがのしかかるのだ。
5)バロンドールの呪い。
フランスのサッカー専門誌が56年に創設した欧州最優秀選手に与える賞「バロンドール」の受賞者を、W杯前年に出したチームは必ず優勝を逃している。
古くは73年のクライフ(オランダ)、93年のバッジオ(イタリア)、97年のロナウド(ブラジル)、05年のロナウジーニョ(ブラジル)。昨年メッシが初めて受賞しているアルゼンチンもこの法則に従うとアウト。
そうなると、ジンクスから逃れる国はウルグアイ、チリ、パラグアイのわずか3カ国のみとなる。
ただ、アフリカ大陸初開催となる今大会は、ジンクスを打ち破る歴史的大会になると筆者はみる。すでに、過去18回には一度も、起こらなかった現象が起きているのだ。過去開催国は必ず決勝トーナメントに進出したが南アフリカはグループリーグ敗退の憂き目を見た。
そこでジンクスを打ち破って頂点に立つ可能性がある代表を紹介しよう。
 ブラジル史上最も組織だった守備力を持つブラジルは、質実剛健なサッカーで6度目の頂点を目指すばかりか、大黒柱のカカーも復調傾向。マラドーナ率いるアルゼンチンは、86年大会のマラドーナ同様に天才メッシが決勝トーナメントで爆発の気配が漂っており、24年ぶりの優勝も夢ではない。
 6)大会初戦で敗れたチームは優勝していない。
 こんなジンクスにも挑戦するのが今大会屈指のパスサッカーを展開するスペインだ。
 チームの平均年齢24.8歳と戦後最年少のドイツも伝統のゲルマン魂で4度目優勝を目指す。
 人類発祥の地アフリカで、誕生する王者はこれまでのジンクスを打ち破るはずだ。

下薗昌記(しもぞのまさき)


<開業医のひとりごと>
『サンパウロの冬対策にはオイルヒーターがいいぞ』

冬になりました。意外と寒いですよね。気温の数値そのものを見てると日本から来た方にはそんなに大した寒さでは無いと思われるのですが、体感温度が低いので「一体これは?」になる事が多いようです。悪い事に特に家の中が寒く感じます。これにはいろんな理由があるのですが、今回は対策の暖房についてひとりごとです。 
『いきなりだけど、東洋医学では病気の原因として邪気、つまり健康を乱し病気を引き起こす有害なものが存在するとの考え方があり、内邪(内因)と外邪(外因)に分類される。外邪は「風・寒・湿・署・燥・火」の6種類ある。外邪が病気の原因になるのは過不足と体調の組み合わせによるものなのだな。つまり体力が充実しているとちょっとした邪気は病気にならないし、なっても激しく症状が出てすぐに治る。反対もしかりだな。体調がよくないとすぐに病気なる。暖房の話で脱線しているのではないぞ。サンパウロの冬は気候以上に環境(住宅、用地)が東洋医学の概念ではよくないのだな。上記の外邪の内、「風寒湿」が特に悪いのだが、正に当地の冬は風寒湿なのだな。まず風。家の建付が悪いしドアや窓の密封性が低いのですきま風が入る。寒は冬なので気温が下がって当たり前だけど、それ以外には家の建て方が涼しいのを優先しているので建材が石とかタイルとか冷たい物が多いのだな。日当たり悪いし。さらに湿は煉瓦の壁が夏期の雨(あるいは水道管の水漏れなど)をたっぷり含み家の中が結構湿気っているのだな。このような状況ではどのタイプの暖房(一般的にブラジルで入手可能な物)が適切か考えてみよう。

サンパウロの住宅事情を考えると、オイルヒーターが一番適切と考えられるのは、ランニングコストが良いのもあるが、ジワジワと効き目があるし対流効果もあるので、空気を暖めるだけではなく、壁や床も暖かくする事であろう。また、標高が高い都市なので夜中の3時以降気温が下がるのも当地の特徴であるが、この手のヒーターを着けっぱなしにしておくと室内の温度が下がらなくって快適だぞ。つまりオイルヒーターは室温を上げるというより下げない様に使用するのがいいのだな。また、ブラジルの住宅は日本の様に床の上に座って生活することを前提に設計されていないので、これをするととても冷える。ホットカーペットやコタツを使う手もあるが、前出の隙間風、特にドア下の、があってあまりよろしくないぞ。オイルヒーターの使い方は、スイッチを入れ、サーモスタットを全開にし、快適と感じる室温に達したらゆっくりサーモスタットを小さい数字に戻し、通電が切れたところで止める。こうするとその時点の温度以下になると電源が入るので室温をキープができる。だから気温が上がる日中は電源が入らないので着けっぱなしにしておいても大丈夫なのだな。購入にあたって注意が必要なのがちゃんとしたメーカー品でないと、内部のヒーターがアンダーサイズで熱効力が悪く電源がつきっぱなしになる(要するにパワー不足だな、ホームセンターで山積みで売っているようなやつ)ようだな。高級モデルはタイマーも付いているが、これは必需ではないと思う。一度だまされたと思って使ってみてください。日本にもって帰っても使えるよ(プラグを交換する必要はあるけど)。』

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。
サンパウロで開業(一般内科、予防医学科)。
この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@oriente.med.br までどうぞ。




















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