2010年11月21日日曜日

ピンドラーマ2010年10月号(vol.52)

みなさん、お待たせしました。
最新号(11月号)もとっくのむかしに行きわたり、遅くなってしまいましたが、先月号の内容一挙公開です。
(川原崎)




<ブラジルを撮る>
パラナ漁村=サンパウロとパラナの州境にあるこの漁村では、パラナ州政府の援助を受けて太陽光発電(ソーラーシステム)を取り入れている。村民は質素な生活ながら魚介類など自然が豊富。小魚を黒いビニールシートに敷いた上で天日乾燥し、天然の「いりこ」を作っていた。

写真:松本浩治


<移民の肖像>
ベルテーラ、ゴム移民の岩坂保(いわさか・たもつ)さん。香こう料りょう「クマルー」の実を手に持もち、今も現役で貿易を行う

90歳を過ぎた今でも、現役で貿易業を営んでいる岩坂保さん(92、福岡県出身)は記憶力も良く、矍鑠(かくしゃく)としている。
中学卒業後、福岡県大牟田(おおむた)の海産物問屋で7年間、丁稚奉公として修行。戦後、自ら海鮮問屋を始めた。
渡伯のきっかけとなったのは、長兄がブラジル行きを望んでいたことだ。兄の代りに福岡県庁へと移民募集の話を聞きに行った時、渡航条件が良かったことが岩坂さんの心を掻(か)き立てた。募集は、ベレン郊外のコッケイロで野菜の自営業を行うこと。義務農年も無い上に25町歩の土地があり、旅費は10年払いでも構わず、道にはアスファルトが通り、電気も通っているという好条件だった。

すでに田鶴子夫人(2005年に死去)と結婚していた岩坂さんは、母親と田鶴子さんの弟、息子2人を合せた家族6人でブラジル行きを決意。渡伯に際しては、オート三輪車をはじめ、船外機、大型精米機、耕運機、脱穀機、籾摺(もみす)り機、搾油機など15トン分の荷物を準備していた。

しかし、54年12月、神戸を出航する2日前になって移民斡旋所の職員から、コッケイロ行きが決まっていた20家族の家長たちが呼ばれ、「コッケイロは土地も無く、家も立っていない」と説明された。一度は渡伯を断念しかけたが、職員からトメアスーでの3年間の義務農年と、ベルテーラでのゴム移民が1年間だけの義務農年という2つの選択条件を提示され、ベルテーラに行くことを決めた。54年12月に「ぶらじる丸」で神戸を出航。翌55年1月にベルテーラに入植した。

ベルテーラに入った岩坂さんだったが、結局、ゴムの採取は1日も行ったことが無かったという。他の移住者たちに自分たちの持ってきた品物を売ったりして、生活していた。

同年8月、ゴム移民たちは伯側から強制退去を命じられた。ベルテーラを退去するに際して岩坂さんは、自分たちで運送できない移民たちの荷物を、移住地から12キロ離れたピンドバウ港まで三輪車で何度となく運んでやり、自分たち家族は最後にベルテーラを出たという。
その後、高拓生など3家族でサンタレンの対岸にあるアレンケールに共同出資して土地を購入したが、労働者の経費を考えると、作物の収穫までに赤字になる。そう計算した岩坂さんは、56年2月にアレンケールの町に出て三輪車を利用し、運搬業や農産物の仲買業などを始めた。大牟田でやっていた海鮮問屋の商売経験が、ブラジルでも活きた。

その間、岩坂さんは商売に結びつくことは何でもやってきた。64年に禁猟となるまでは、野生動物の毛皮の卸商売も行い、豹(ひょう)、鹿、猪、山猫、ジャカレイ(ワニ)、スクリュー(大蛇)など「皮」と名の付くものはすべて扱った。特に豹の毛皮は、フランスを中心に輸出。高価な品として売れた。

野生動物・環境保護が叫ばれる現在では考えられないが、岩坂さんが所持している当時の写真には、自宅の庭で所狭しと置かれた天日干しされている豹皮の画像が写っていた。

その他にもブチジョン・ガスの元締めをしたり、「レガトン」と呼ばれる120トンの商売船をベレンとイタコアチアラの間を行き来さ
せてきた。 

「当時は恐ろしいものは無かった」という岩坂さんだが、「今の自分があるのは、たくさんの人たちにお世話になってきたから」と感謝の意を忘れてはいない。

アレンケールで37年間過ごした岩坂さんは92年、病気が原因となりベレンへと出てきた。肩が痛くなり、薬を飲んだが、その薬が身体に合わず、無理して仕事をしていたら胃に穴が開いたという。薬で身体は完治したが、元に戻るまで1年間は療養した。
その後、身体は完全に回復し、92歳になった現在も、タバコの香料になる「クマルー」という実をアレンケールから船で持って来て、フランスやドイツなどに卸している。以前は代理人がやっていたが、今はすべての交渉を1人で行っている。

「一番残念に思うことは、お世話になってきた人たちが亡くなったこと」と話す岩坂さんは、「仕事をやっていないとダメですね」と元気の秘訣を教えてくれた。

松本 浩治(まつもと こうじ) 在伯14 年。
HPサイト「マツモトコージ写真館」
http://www.100nen.com.br/ja/matsumoto/


木曜の男キタが
ペルーに行ってみました


◎ペルー共和国の基本情報 
主な言語はスペイン語
他にはケチュア語・アイマラ語などがある。
面積は日本の約3.4 倍で、その中に約2615 万人が住
んでいる(2006 年データによる)。
首都のリマには約790 万(総人口の約3 割に当たる)
の人が住んでいる。
通貨はソルとセンチーモ。
1Sol = R $0.61 =約30 円(2010 年9 月19 日現在)

■言葉
ブラジルへ来てまだ半年、ポルトガル語さえおぼつかない私ですが、案外スペイン語圏でもポルトガル語は通じました。買い物・道を尋ねる・タクシーの料金を交渉する等のケースでは特に不自由は無く、聞き取りが難しいだけで、こちらの言いたいことは理解してもらったように思います。
英語を話せる人も多く(ペルーという国が観光資源が多いことが理由かもしれませんが)、小さな商店や、ボロボロのタクシーの運転手までもが英語で話かけてくるのには驚きました。
リマ以外でもクスコやプーノでも同様で、行った先が観光地という事を除いては、英語が片言でも喋られれば不自由を全く感じません( 少なくともブラジルより便利)。
こちらがポルトガル語で会話をし、相手が英語で答えるという、互いの母国語を無視した会話が成立するのは不思議な感覚です。

■街の風景

どこの街に行っても、アルマス広場という名称の公園を中心に街が構成されています。
中心街は石畳を敷き詰めたお洒落な街並で、リマ・クスコなどは世界遺産に登録されています。ブラジルのようにゴミが散乱しているようなこともなく非常にきれいで、夜はライトアップされているので、長年連れ添った夫婦が行ってもロマンチックな雰囲気になれることは間違いないように思います。プーノはそれと比べると発展途上という言葉がぴったりな風景ですが、チチカカ湖の存在が住宅街とマッチしていて、素朴で美しいと感じられる都市です。

■メスチソ

首都リマではヨーロッパ系が多く、クスコ、プーノと南下するにつれ、先住民との混血であるメスチソと呼ばれる人種が多く見られる傾向があります。
ここで驚いたことは、私の出身地である鹿児島県には島がたくさんあり、島出身であれば主に島人( しまじん・しまんちゅ) と呼ばれ、顔に島人の特徴が出てきます ( 島が沖縄に近くなればなる程、顕著に表れてきます) 。今はそうでもないですが、色が黒い・背が低く逞しい体つき・ホリが深い・毛深い等が島人の特徴と言われていましたが、メスチソにも同じような特徴が見られます(「毛深い」はさすがに確認しようがないですが、髪は黒く多かったように思います)。私の島出身の友人に似た人を何人見かけたことか…。そして、みんな似ているため、あれ?これ、さっき会った人??と戸惑いながら歩いていました。
道に迷った際( よく迷子になってました) よく話しかけて道を聞いたりしたのですが、とても親切で、そしてシャイな印象を受けました。商売をしていても決してしつこくなく、朗らかで落ち着いた印象を受けます。またその風貌も加えて、とても愛らしい感じがあるのです。目が大きくキラキラしている印象を受けるのですが、体は逞しく、または丸っこく、顔が体の比率からすると大きいので、マスコットを見ているような感覚と言えば分っていただけるでしょうか?とにかく、メスチソという人種に親近感を覚えましたし、仲良くなれるような気さえしてきます。

■食事

美味しいです。本当に。ブラジルより美味しく感じましたし、日本人が美味しいと思う味覚に近いものがあるんじゃないでしょうか? 有名なコカ茶がありますが、これはコカの葉で作るお茶で高山病に効くと信じられています。苦いハーブティーといった感じですかね。砂糖を入れると美味しく飲めました。コカインの原料とされていますが、コカ茶には幻覚作用などはないため、安心して飲んで下さい。スーパーにはティーバッグで普通に売っています( ブラジルには持って帰れましたが、日本には持って帰れません)。

他にはインカコーラ( インカ帝国のインカ) という飲み物があります。もともとペルーに存在した黄色い炭酸飲料だそうですが、今ではコカ・コーラ社がその会社を買い取って販売しているそうで、こちらでは、黒いコーラより親しまれて飲まれているようです。飲んだ感じで言えば、お子様向けバージョンのオロナミンC と言った感じです。

■高山病

リマは問題ないですが、クスコやプーノは高地にあるため、息切れもしやすく、ヒドイ方は頭痛もするでしょう。なんたって富士山の頂上と同じかそれ以上の場所で生活するんですから。しかし、ナーバスになりすぎてマチュピチュに行くのをためらう程では決してありません。ゆっくり歩いて腹式呼吸を意識すれば問題はありません。実際に高山に慣れるには1 ヶ月程かかるらしく、実際の症状と言っても明け方の頭痛位でしょうか。あ、お酒はオススメしません。ただでさえ、酔い易くなる高地でピスコサワーという少し強めのペルーのお酒を2 杯呑んだだけで、翌日にはひどい二日酔いに悩まされましたし、吐きました。お酒はリマで飲んだ方がいいかもしれません。

■サービス

観光資源が豊かだからでしょうか、高級店だけではなくどこに行ってもとっても質の良いサービスを受けました。例えばブラジルと一番の違いを感じたのは、こちらが稚拙な言葉で用件を言おうとしている時、柔和な表情で聞こうとする姿勢です。私がブラジルで感じたサービスは、同じケースで言えば、眉間にシワを寄せて変わらないスピードで話し対応が一方的、という印象を今でも持っています。ところが、ペルーの人達はこちらが言葉が分らないと知るとゆっくり喋りますし、英語で話そうと努力してくれます。こちらが、まだ意図が伝わってない表情をすると、何度も話してくれますし、言葉が出るまで待ってくれます。そして終始、表情は柔和です。同じ南米でもこんなに対応が違うのかと感動しました。一方、日本人や観光客を見ると熱心に( しつこく? ) 営業をかけて来る人達もいました( 民族衣装を着ている先住民だと思われる人達に多かったように思いますが、それはおそらく、生活の質が他の人達と違うからのようにも思います)。

いずれにせよ、ペルーはサービスの質は高いように感じますし、観光客の対応の仕方を学んでおり、心得ているという印象です。

■お土産

アルパカの毛でできたクッション( すごく暖かくてフワフワ) や銀でできたものが昔から有名ですね。今では「エケコ人形」が有名だそうで、日本のネット通販では売り切れ続出だそうです。人形に自分が欲しいもののミニチュア品を背負わせ週に二回口にタバコを突っ込むと願いが叶うそうです。リマよりもクスコ、クスコよりプーノと都市部を離れて行くほど、安くなっていく傾向にあるようです。買い物をする際はどんな場合でも値切り交渉ができます。買わない素振りをするだけで、安くなったりします。

※マチュピチュの話は弊社のブログに「木曜の男」で更新しております。ぜひのぞいてみて下さい。
ブログ http://revistapindorama.blogspot.com/

北渡瀬 義彦( きたわたせ よしひこ)
1979 年生まれ 鹿児島県奄美出身
弊誌の広告営業担当



<移民レポート>ドイツ編

現在、ドイツ系ブラジル人(teuto-brasileiro) はブラジルの人口の約1 割(1800 万人)を占めるという。過去にさかのぼれば19 ~ 20 世紀の間に約35 万人のドイツ人がブラジルに渡り、今も約100 万人のドイツ語話者がブラジルにいると推定されている。

19 世紀、公式のドイツ移民は1818 年にスイス人入植地ノーバフライブルゴがリオデジャネイロ州で建設された直後に始まり、1824 年には同入植地やリオグランデドスル州のサンレオポルドに集団で到着し、本格的なドイツ移民の波が押し寄せた。以後約190 年の間、ドイツ系ブラジル人はブラジル南部を中心に、主に南部から南東部にかけて多くの足跡を残している。

■ブラジルに渡ったドイツ移民の要因

ドイツは国外移住に長い歴史を持っている。12世紀半ばには当時のハンガリー王国への移民があり、東欧地域(黒海沿岸、コーカサス地方、ヴォルガ川など)でもドイツ人定住地が形成されてきた。1830 年代になると東欧への移民は減少し、アメリカ大陸への移民が本格化し、東欧のドイツ人がブラジルへ渡るケースもあった。

19 世紀のドイツの海外移民の主な要因は、国家の重商主義政策で農業生産が増して食の流通が改善する一方、一般市民の経済が追いつかないまま人口過剰となっていた事だった。また、産業革命による新しい機械の出現により手工業者は職を失い、農家の小作人は住む場所を追われ、町で見かける海外移住の広告は人々に一つの希望を与えた。ブレーメンやハンブルクに拠点を置くドイツの船会社は積極的に海外移住を呼びかけ、1840~ 50 年代の西南ドイツでは、公的に海外への移民を資金面で援助する地域もあった。ドイツ移民の出身地は当初は西南ドイツが多く、やがて西ドイツ全般から東ドイツへと拡大していった。
1870 ~ 80 年代には海外膨張政策に移民を利用しようとする動きがあった。大きな経済力を持っていた米国とは異なり、ブラジルの未開拓地域へ渡るドイツ人なら民族的アイデンティティーを保つことができ、文化面や経済面でドイツとの関係を維持してドイツ製品の市場拡大が目指せると考えられた。 20 世紀に入ると1920 年代に最も多い約7 万5千人がブラジルに渡った。1918 年には約2 万人がサンパウロに到着し、商工業者や都市労働者、教師、政治亡命者などとして渡る者がいた。第二次世界大戦後はナチスの残党などもブラジルを含め南米に渡った。

■サンパウロのドイツ移民小史

ドイツ人の集団移民が最初にサントス港に降り立ったのは、1827 年12 月13 日のことだった。オランダ船マリア号で渡航した226 人に始まり、1829 年末までに926 人(149 家族と単身者72 人)がサンパウロに到着した。入植先を決める最初の抽選会で現在のサントアマーロ地区( サンパウロ市) に当選した94 家族が、1829 年6 月29 日から同地で居住を始めたことがサンパウロ・ドイツ移民史の起源とされている( 今年で181 周年)。当時のサンパウロ市は人口約2 万人の町で、サントアマーロは町外れにあり、760 家族の農家が町や近隣へ食料を供給していた。
サンパウロで初期のドイツ移民は農業では成功できず、商工業者に転身していった。現在、ブラジルの企業家なども利用するClub Transatlânticoは1954 年にドイツ系コミュニティーの交流拠点として発足したもので、おいしいドイツ料理店もある。サンパウロ商工会議所にもドイツ系の人が多い。

【新聞】

現在、サンパウロで発行されているドイツ語新聞は『Deutsche Zeitung』『BRASIL-POST』の2 紙。サンパウロで最初のドイツ語新聞『GERMANIA』が発行されたのは1878 年(1923年廃刊) で、1897 年に『Deutsche Zeitung』は刊行された。第一次世界大戦中の1917 年にはドイツ語での出版が禁止される中、ドイツ系新聞はポルトガル語で発行を続け、2 年後には再びドイツ語に戻った。第一次大戦後には数々のドイツ語新聞が発行されて各紙が競合した。

【宗教】

ドイツ人のカトリック信者は1900 年にサン・ベント修道院( セントロ地区) に集まり、ドイツ・カトリック・コミュニティーを発足させた。1871 年にはルター派のドイツ福音コミュニティーが発足し、1907年にドイツ福音教会と命名されたサンパウロ市で最も古いプロテスタントの教会(Av.Rio Branco) が翌年には開設された。

【ビール】

19 世紀初めのブラジルではまだビールはほとんど知られていなかった。ドイツ移民はブラジルのビールの起源に深く関わっており、ブラジル産のホップや大麦を原料に手作りビールを造り始めた。19 世後半から20 世紀初頭にかけてのサンパウロではドイツ人が生産するいくつものビール会社が現れた。例えば、ドイツ人のビール醸造業者Louis Bucher は1868 年に小さなビアホールを開き、1888 年には1885 年にサンパウロで興ったアンタルチカと提携し、当時はドイツ人やデンマーク人が株主となった。

【学校】
サンパウロで最初にドイツ人学校が創設されたのは1861 年のことで、以後20 世紀初めまでにサンパウロの町で40 校、田舎で28 校が開校した。多くは1930 年代に資金難で廃校となった。1878 にはドイツ人の子弟がブラジルで適応するための基礎教育やドイツ文化を伝えることを目的とした「ドイツ学校維持協会」が創設され、今日まで続くドイツ系学校のポルト・セグーロ、ベンジャミン・コンスタント、ウンボルト、インペラトリス・レオポルジーナなどが創設された。これらの学校はブラジルが第二次世界大戦で連合国に加わったことからドイツ学校という名前の使用を禁止され、改名した。

【建造物】
1892 年に開通したお茶橋Viaduto dochá(セントロ地区)の金属構造はドイツから輸入された。セー大聖堂や市内各地の教会、サンタカタリーナ病院、1887 年から1927 年まで食肉処理場として使用されたビラ・クレメンチーノ地区のレンガ造りの美しい建造物(1992 年よりCINEMATECA BRASILEIRA)など、ドイツ人建築家が設計に携わったサンパウロ市内の有名建築物は数多い。

◎サンパウロの主なドイツ文化交流機関

サンパウロにある主なドイツの文化交流機関に、ゲーテ・インスティトゥートGoethe-Institut(以下GI)とインスティトゥート・マルチウス-スターデンInstituto Martius-Staden( 以下IMS)がある。

GI は世界数十カ国に設置されたドイツ連邦共和国の文化機関で、ドイツ語の普及をはじめ、現代ドイツの紹介を通じて世界各国との文化交流に努めている。サッカーW カップのドイツ戦の時には、館内の飲食店でドイツを応援する人々の姿もあった。GI は日本ではドイツ文化センターと呼ばれ、京都、東京、大阪に設置されている。

IMS はコレジオ・ビスコンデ・デ・ポルト・セグーロの一校に付属しており、ドイツ移民に関するブラジル有数の研究機関になっている。1916年に「ドイツ学校」のドイツ人教師のための研修機関として設立され、1925 年にはドイツ移民の資料館の役割も兼ねるようになった。機関の名前は様々な名称を経て、ブラジルを訪れたドイツ人のパイオニアである2 人*の名前を冠する現在の名前となった。

IMS には10 万点以上の公文書、資料、ブラジルで発行されてきた新聞記事、カタログのほか、4 万冊以上のドイツ語書籍などが所蔵され、快適な図書室で自由に閲覧できる。ドイツに関連する文化イベントも開催されている。ただ、近年はブラジルでドイツ語書籍を読める人は減少しているという。

図書館には約20 万人のドイツ人の個人データも収められており、ドイツ移民の現状を調査するため、IMS では今もドイツ系ブラジル人に対して調査協力を呼びかけている。

* HANS STADEN とCARL FRIEDRICH PHILIPP VON MARTIUS(1794-1868) の名前。MARTIUS は1818-20 年までアマゾン地域を1 万km 探検した医者・植物学者で、帰国後はブラジル滞在中の体験や調査記録の本を出版した。

◎ドイツの海外移住者センター

ドイツ本国でも21 世紀を迎えて海外への移住者の認識が高まり、2005 年には北海沿岸の港町ブレーマーハーフェンでドイツ海外移住者センターDeutsches Auswandererhaus がオープンしている。ドイツはハンブルクやブレーマーハーフェンなどの港町からドイツ国内や東欧の移住者を1000 万人以上新大陸へ送り出した歴史がある。ドイツ在住者の話によると、今、身近な若い世代のドイツ人は、ブラジルでドイツ人の子孫が暮らすことをほとんど知らないという事だった。参照サイトによると、センターは若い世代にドイツとアメリカ大陸の過去から現代までの関わりを紹介し、レジャー感覚で楽しめる画期的なミュージアムとなっている。
〈参照サイト〉http://www.dah-bremerhaven.de/

◎サンパウロの恒例文化イベント『ドイツ祭り』

『第15 回ドイツ祭りBrooklinfest』が10 月23、24 日にサンパウロ市内で開催される。毎年10 月頃のサンパウロの恒例文化イベントになっており、ブルックリン地区のドイツ系住民や企業家の協会(AEMB) が主催している。10 万人以上の来場が予想されており、会場ではおいしいドイツの伝統料理(アイスバーンなど)やソーセージ、高品質なビールが飲めるほか、ドイツの伝統芸能やクラッシック音楽の演奏会、ドイツの写真展や映像なども楽しめる。

■インフォメーション
【サンパウロの『Brookinfest』】
〈日時〉10 月23(土)24 日(日)
〈場所〉Rua Joaquim Nabuco やRua Princesa
Isabel ( ブルックリン地区) の通り。
詳細はAEMB のTEL : 5533 - 4904
【Instituto Martius-Staden】
Rua Itapaiúna,1355-Panamby TEL : 3744-1070
【Goethe-Institut São Paulo】
Rua Lisboa,974-Sumaré TEL : 3296 7000

*各国移民レポート・ドイツ編は来月号に続きます。

【参考引用文献】
山田史郎他『移民』ミネルヴァ書房,1998 年ほか

企画: ピンドラーマ編集部 
文・写真: おおうらともこ


<ブラジル版百人一語>
アンドウ・ゼンパチ
(本名:安藤潔、元日伯新聞編集長、評論家、1900 - 1983)


「そもそも、ブラジルの社会は、ブラジル開拓の初めから1888 年まで、約四世紀の間にわたって、徹底的な奴隷制度による純然たる荘園的農業経済のうえに築かれたものであった。しかも、主要産業であったサトウ、ワタ、コーヒーなどは、いずれも輸出を目的とした大規模な企業的経営によって占められ、小地主による自作農業はほとんど発達しなかった。そのため、社会の構成は、主として企業家である大農場主と、そこで働く黒人奴隷の二階級によってなされ、このほかには、商品生産を目的としない貧弱な自給農業を営んでいた生活水準のごくひくい農民が辺境の地に散在していただけであった。大企業による生産物は、全部輸出商品となったものであるから、国内における消費経済の発達は、奴隷制社会が崩れるまでは非常におくれていた。」

日本からのブラジル移民がピークを迎えた1930 年代、そのほとんどが農民出身である移民一世にとっては、出稼ぎして故郷に錦を飾ることが目的であって、ブラジルの大地に骨を埋めるという発想は無縁であった。当時の日系社会は本国の軍国主義に感化され、国粋主義的な思考体系が支配的であったが、稀有な存在として、『文化』という邦字雑誌は、文化主義を唱え、ブラジルへの永住と同化、さらには非日系ブラジル人との混血を肯定的に主張していた。その主な論客がアンドウ・ゼンパチと画家の半田知雄であった。

日系社会が永住を志向し始めるのは、終戦後の「勝ち・負け抗争」の混乱期を経てからだが、時局認識派=「負け組」の知識人たちの集まり「土曜会」から出発した研究活動組織として「サンパウロ人文科学研究会」が1948 年に発足する。その共同研究の成果として、ブラジル社会学、ノルデスチ、南リオ・グランデなどに関する4 冊の「ブラジル研究叢書」が刊行されるが、この研究会を発展的改組して1965 年「サンパウロ人文科学研究所」が設立される。その目的は、「ブラジル研究・コロニア研究をとおして、日系人の業績を高め、ブラジルの文化に貢献せんと図るもの」であった。

中尾熊喜という、カネは出すがクチは出さないパトロンを得て、人文研は研究セミナーを連続的に開催し、研究レポートを公刊するなど活発な活動をしていくが、その専任研究員のアンドウは、日本語、英語、ポルトガル語の文献を渉猟したうえで、その後の移民史研究の出発点となる記念碑的な論文『近代移民の社会的性格』(1966 年)と『日本移民の社会史的研究』(1967 年)を発表するなど、活発な知的活動を展開していく。

こうした研究・著述活動の根幹として、取り組んだのが、日本語によるブラジル史叙述であった。アンドウはその生涯の間、ブラジル通史を三回(1940 年、1956 年、1983 年)発表しているが、二回目の「ブラジル史」(河出書房新社)を「ニッポン語でかかれた最初のブラジル歴史」とはしがきで自己規定している。三回目の岩波版「ブラジル史」は、高齢と病魔のため最終稿をまとめることが出来ず、西川大二郎の補筆を得て刊行されている。

河出版「ブラジル史」は、カイオ・プラード・ジュニオールからの知的影響を指摘できようが、独自の史観に基づくものであり、今日の読者にも通用する歴史叙述である。ブラジル発見前史から筆を起こしているが、ドレイ制度の内実からドレイ制社会の崩壊に関する章、先住民やセルトン、アマゾンについての独立した章、いずれもブラジル歴史学の先行研究蓄積を柔軟に吸収し、生き生きとしたアンドウ風カクテル文体で書かれている。

東京外国語学校ポルトガル語第一回生であったアンドウは、移民監督としてブラジルに到着、伯剌西爾時報記者、日伯新聞編集長を経て、著述業に専念することになるが、中江兆民に心酔した学生時代からマルクス史観を保持した思想家であると同時にユーモアたっぷりの話し上手でもあった。1954 年南米取材中の大宅壮一と中野好夫を前にして、ねじり鉢巻で自作自演の落語を披露し、拍手喝采を得た、といった類のエピソードも多い才人であった。(ちなみに、筆名ゼンパチ=全八は、金に縁がないから、金という漢字を全と八に分けた、というシャレから、だ。)

冒頭の引用は、『コチア産業組合30 年の歩み』(1959)からであるが、著者が「ニッポン移民が築き上げた偉大なる金字塔」と評価したコチア組合は1993 年崩壊してしまった。

岸和田仁(きしわだひとし)
東京外国語大学卒。二度目のブラジル滞在(前回と合わせると、延べ19 年間)を終え、09 年6 月帰国。
ブラジルを中心とするラテンアメリカ研究は継続中。
著書に『熱帯の多人種主義社会』(つげ書房新社)。
新しい著書を” 工事中”。


<新・一枚のブラジル音楽>
ヘナート・ブラス「10 anos」
Renato Braz "10 anos"

1970 年代から1980 年代にかけて、ブラジル音楽のトレンドであったMPB。MPB とは「ムジカ・ポプラール・ブラジレイラMúsica Popular Brasileira」の略であり、その名が示す通り、大衆歌でありながら、ブラジル音楽の伝統に基づいた音楽ジャンルだ。サンバ、ボサノヴァ、北東部音楽などを軸に海外の音楽も吸収しながら、独自の音楽性を築き上げた。カエターノ・ヴェローゾCaetano Veloso やジルベルト・ジルGilberto Gil などはその代表格だ。

近年のブラジルではロックやヒップホップなどの海外で誕生した音楽、またパゴーヂPagode やセルタネージョSertanejo 等、より大衆化した音楽がチャートの上位を占めているのが現状で、残念なことではあるが今やMPBはブラジル音楽の主流であるとは言えなくなっているのも事実だ。だが、若い世代にもMPBの精神性を継承しているミュージシャンは少なからず存在している。本日紹介するヘナート・ブラスもそんなミュージシャンの一人である。

ヘナート・ブラスは1967 年サンパウロの生まれのシンガーソングライター。有名なインディオ部族であるグアラニー族の血が流れているそうだ。10 歳からプロ活動をはじめたという早熟なアーティストで、チン・マイアTimMaia に憧れドラムを叩いていた時代もある。やがてギターに興味を持ち、弾き語りを始める。街角のバールで歌う日々の中、その才能が認められレコード会社と契約、1996 年、30 歳の時に『homônimo』でCD デビューを果たした。

ヘナートはムジカ・カイピーラMúsica Caipira、ムジカ・ミネイラMúsica Mineira をルーツに、ヴィラ・ロボスVilla-Lobs、アリ・バホーゾAry Barroso、ドリヴァル・カイミDorival Caymmi、トム・ジョビンTom Jobim、シコ・ブアルキChico Buarque といったブラジル音楽界の歴史を消化、新しい時代に体現した作品として音楽評論家から高く評価された。またインディオ音楽やアフロ・ブラジル音楽なども研究、逃亡奴隷の集落、キロンボを題材にしたもリリースしている。このような活動が認められ、MPB を志す新人の登竜門であるシャープ賞を獲得したこともある。現在までに6 枚のCD をリリース、決して派手なアーティストではないが、コンスタントに活動を継続、現在はビスコイト・フィーノ・レーベルBiscoito Fino に腰を落ち着けている。近年は米国出身のサックス奏者、ポール・ウインターとも交流を持ち、米国での演奏の機会も増えている。このポールとのグループのメンバーとして来日経験がある。つい最近では、ミナス州出身のゼ・ヘナートZé Rentao とのデュエット集をリリース、このセットでブラジル国内をツアーしているところだ。

今回紹介するのは彼がデビュー10 周年を記念しリリースした『10 anos』だ。ベスト盤ということもあり、比較的良く知られた曲を中心に収録されている。特にお勧めなのはカエターノ・ヴェローゾ作のバラード「オ・アモールO Amor」、トニーニョ・オルタToninho Horta 作の「アナベラAnabela」、そしてシコ・ブアルキとエドゥ・ロボEdu Lobo がミュージカルの挿入歌として共作した「ベアトリスBeatriz」。このベアトリスはある雑誌で「ブラジル音楽で最も美しい5 曲」の中の1 曲として選ばれたこともある。このように、アコースティックな伴奏で美しいメロディを歌い上げるスタイルが彼の特徴で、ストリングスなどの弦楽器も効果的に使用、オーガニック感溢れる彼の演奏は、全くポルトガル語がわからない日本人にも魂を通して訴えてくるものを感じる。

実は親日家でもあるヘナート、日系人の友人も多いそうで、まだアルバムには収録されていないがレパートリーには日本の童謡「七つの子」などもある。ヘナートは自身のグループでの日本ツアーを熱望してる。もし彼の音楽に共感していただけたなら、どなたか出資を検討していただけないでしょうか?充分元は取れるし、それ以上にきっと素晴らしいツアーになると思うのですが...

《Edição Especial 10 Anos 収録曲》
1. Porto
2. O Amor
3. Cruzeiro do Sul
4. Sentimental
5. Meu Drama
6. Mantiqueira
7. Anabela
8. Quero Ficar com Você
9. Bambayuque
10. Todo Menino é um Rei
11. Crença
12. 7 X 7
13. Onde Está Você
14. Nação
15. Beatriz

Willie Whopper
東京・西荻窪にあるブラジル・スタイルのバー、Aparecida のオーナー。
著書に『ムジカ・モデルナ』、他、CD ライナー等多数執筆。




Profª Lilianの
ポルトガル語ワンポイントレッスン
ブラジルでビジネス:「数字」と「お金」の表現

ブラジル人には非常に特殊な気質があります。型にはまらず陽気だというところです。おしゃべりで、大きな声で笑い、ニコニコしています。会社の中でもたいていの場合会議はリラックスしたもので、ジョークを連発するし、サッカーのことから果ては家族や個人の生活のことまで話に出ます。要するに、ブラジル人は相手がどんな人なのかまず知ろうとするのです。ビジネスをするかどうかはそれからです。ビジネスをすることもまたひとつの社会的相互作用ですね。

「時は金なり」という考えに慣れた外国人にとって、時間にルーズであまりに型破りなのは大きなショックかもしれません。しかし、もし違ったやり方で付き合っていくならば、異なるビジネスマナーと関係していくこの機会こそ、私たちが人としてまた職業人として大きくなれるチャンスです。

ビジネスの世界について話していますので、今日のレッスンは数字とお金に関する表現です。特に今、ブラジルでは収入の増加とともに中流階級が成長していますから、経済のさまざまな分野で事業収益を得られる可能性があります。

◎「数字número」を使った表現

1. Número significante:相当な数(significante =意義のある)

Um número significante de brasileiros tem acesso à Internet.
相当数のブラジル人がインターネットにアクセスしている。


2. Número enorme:ものすごい数(enorme =巨大な)

Há um numero enorme de desempregados no país.
ブラジルにはものすごい数の失業者がいる。


3. Número surpreendente:驚くべき数(surpreendente =驚くべき)

O número de multinacionais no Brasil é surpreendente.
ブラジルにある多国籍企業の数は驚くべきものである。


◎「お金dinheiro」を使った表現

1. Gastar dinheiro em ___:~にお金を使う(払うためにお金を使う)

Maria gasta muito dinheiro em roupas.
マリアは洋服に多額のお金を使う。


2. Economizar dinheiro:節約する(将来のためにお金をためる)

Nós estamos economizando dinheiro para comprar uma casa.
私たちは家を買うために節約しています。


3. Desperdiçar dinheiro:無駄遣いをする(間違った方法でお金を使う)

Eu acho que comprar este carro é desperdiçar dinheiro.
私は、この車を買うのはお金の無駄遣いだと思う。


4. Doar dinheiro para ___:~に寄付する(社会を助けるためにお金を与える)

Minha empresa vai doar dinheiro para a construção do novo hospital.
私の会社は、新しい病院建設のためにお金を寄付する予定です。


ポルトガルの偉大なる詩人、フェルナンド・ペソア曰く、「我々はお互いを見ていると同時に見ていない。お互いのことを聞いているようで、各人は自らの中にある声しか聞いていない(中略)あなたが新たな感覚を手にする唯一の方法は、新たな魂を築くことだ。なぜなら、物事は我々がその新たな魂を感ずるがままに存在するからだ」と。ですから、この新たな魂を築き上げようではありませんか。ブラジルで働くことは、新しい視点で世界を開発し感じ取っていくことでもあるのですから。Boa Sorte!! 幸運を祈ります!!

リリアン・トミヤマ
USP(サンパウロ大学)卒、ポルトガル語学・言語学専攻。
ナンシー大学(フランス)卒、フランス語学・文学のスペシャリストでもある。


ひろこの
さんぱうろ ぐるめ をっちゃー

☆「ADEGA SANTIAGO」(Ibérica)

Av. Rebouças とAv. Brg. Faria Lima の交差点付近にある、バールとレストランをミックスしたスタイルのお店。木やレンガを使った温かみのあるインテリアで、広すぎずアットホームな雰囲気。たくさんのブラジル人で賑わっています!メニューはスペイン、ポルトガルのイベリア半島からインスパイアされたタパス料理が中心。大好物の、Jamon Serrano(ハモンセラーノ)の生ハム、Gambas al Ajillo(スペインの代表的なタパス、海老をたっぷりのオリーブオイルとにんにく、唐辛子で煮たもの)などを注文してみました。食べ慣れたブラジル系レストランとは一味違って、とてもおいしかったです!そしてどれもお酒との相性抜群。タパスなので少しずつつまめるのも魅力的。お通しのオリーブもおいしいです☆ワインを飲みながら、ゆっくりおしゃべりとタパスを楽しんでみてはいかがでしょうか?またデザートのCrema Catalana(クリームブリュレ)やPudimも満足です。スペインをはじめ各国のワインが180種類あり、その他イベリコ豚の生ハム、パエリア、Sardinhas Portuguesas na Lenha(いわしのオーブン焼きレモン添え)など魅かれるメニューがたくさんあるので是非試してみてください!

Rua. Sampaio Vidal, 1072, Jardim Paulistano.
TEL.3081-5211 一人当たりの予算: R $110~R $150
http://www.adegasantiago.com.br/

☆「Shimo」(Japonesa&Peruana)

こちらはペルーと日本料理のレストラン。赤、ショッキングピンク、黄色などのカラフルな色遣いに壁の和風の絵がマッチしたポップでおしゃれな店内です☆早速食べてみたかったペルー料理、セビチェ2種を頼んでみました!生の白身魚やエビなどの魚介類をたっぷりのレモン汁を絞って混ぜ合わせた料理です。レモンが効いてさっぱりしていてとてもおいしかったです!生魚好きな日本人には嬉しいです。それからお寿司。純日本風ではありませんが、いろいろとアレンジが加えられていてこれもおいしいです。サーモンの裏巻きはサーモンの揚げた皮も一緒に巻いてあり、サーモンとさくさくの食感がばっちり合います。Combinado などのお寿司の盛り合わせ(2 人前くらい)は、少しずついろいろなお寿司が食べられるのでよいです。少しオリエンタルなペルー料理、ペルーのアレンジが加わったお寿司をお楽しみください!! 懐かしい麒麟一番搾りも置いてあります!

Rua. Haddock Lobo, 955 - Jardins - São Paulo
TEL : 3063-5377/3063-5374 一人当たりの予算: R $60~R $100
Blog:http://blognacozinha.zip.net/

いわたひろこ
主婦。サンパウロにて新婚生活を満喫。


日帰りで行ける
果物の里めぐり&ワイナリーツアー

サンパウロ市近郊のヴァリニョス、ヴィニェド、ロウヴェイラなど果樹栽培が盛んな10 市が行っている「果物の里めぐりツアーCircuito das Frutas」は、サンパウロ市中心部から日帰りで行ける距離にあることもあり(車で約2 時間)、毎週末多くの観光客で賑わっている。

これらの地域ではブドウ、イチゴ、カキ、ポンカン、モモ、ゴイアバ、ジャブチカバ、マラクジャ、イチジク、パパイア等さまざまな果物が栽培されている。

《熱帯アメリカ原産のシリグエラ》

《ポリフェノールたっぷりのクワの実》

《幹にブツブツと大量の実がなるジャブチカバ》

#試飲付きのワイナリー見学

ブドウ栽培が盛んなヴィニェド市で40 年以上ワイン作りを行っているカルロス・フェハグッチさん。当ワイナリーのワインは製造量が少ないためここでしか販売しておらず、口コミで評判を聞きつけた人たちが遠方からわざわざ買いに来るほどだ。色んな種類のワインとブドウジュースを無料で試飲することができる。

当ツアーでは果物狩りを楽しみ、もぎ立ての果物を持ち帰ることができる。ほかに、各果樹園で栽培者から果物の食べ頃やおいしい果物の見分け方・良し悪し、栽培方法で独自に工夫していることなどを直に聞けるのがこのツアー最大の魅力だ。

《グァバ栽培のノウハウを熱く語る日系農家の草刈場さん》

《絶えず最新の農業技術の研鑽を怠らないヴェラさん》


ジャリヌ市にあるカシャーサの蒸留所では蒸留工程を見学した後、特大の樽からリットル単位(約3レアル)で質の高いカシャーサを購入できる。









PASSARINHAR!

パサリニャー!!
ブラジルの鳥を見に行こう!


TESOURÃO (テゾウロン)
学名:Eupetomena macroura
和名:ツバメハチドリ
アマツバメ目ハチドリ科

気がつけば、「特撮映画」という言葉にすっかり新鮮味がなくなってしまった昨今です。

それほど特撮は、今やもはや特別でない、日常の手法になってしまったわけですが、これが衝撃的な完璧さに到達したのは今を去る1970 年代の終わり頃。ほぼ時を同じくして封切られた「スター・ウォーズ」と「未知との遭遇」という2 本の不朽の名作とともにでした。

その「未知との遭遇」の映像の中で、宇宙からやってきた巨大な母船から、いくつもの小型宇宙船が飛び出し、強い光を放ちながら、大画面上を所狭しと縦横無尽に飛び回ります。

ブラジルで初めてハチドリと出会ったとき、瞬時にこのシーンが頭をよぎり、スピルバーグ監督はこの鳥の動きからインスピレーションを得たに違いないと、一人うれしくなったものです。

空中で静止してホバリングをする鳥はいますが、そこから後退できる鳥はハチドリだけです。

この鳥が得たいくつかの形質がその秘密ですが、翼の、ある部分の羽根が短く、それによって羽ばたきを極めて高速でできることや、その、正に目にも止まらぬ羽ばたきを維持できる運動能力を支える、心臓の鼓動の速さが主なものでしょう。

ハチドリは鳥類の中で最も小さな種の一つです。

ブラジルでよく語られる美談の一つに、山火事を消そうとするハチドリのお話があります。

猛火に包まれる森を1羽のハチドリが、その細いくちばしで滝から水を運び、懸命に火を消そうとしています。それを眺めながらゾウが、「あのねえ、無駄とわかってやってんだろ?もういいから逃げな」と勧めます。でもハチドリは、「ボクはボクにできることをやってるんだ、この森はボクの家なのに、何もしないで見捨てるなんてできないよ!」と、けなげに消火活動を続けるのです。

汚職に支配された実態が連日ニュースで伝えられるのにも関わらず、そんなことオレの知ったことかとばかりに、現政権への支持率が音を立てて上がっていくような、どこかの国の有権者に聞かせたいお話ですね。

さて、ツバメハチドリ。

その長い尾羽のおかげで、ハチドリの中では大型の種です。その尾羽をしばしば両側に開きますが、その姿がツバメに相通じるものがあることから和名がつき、ブラジルでは「大バサミ」。

身体が大きいからか、ハチドリの中でも比較的攻撃的な種で、テリトリーに入ってきた別のハチドリのみならず、より大型のタカや、トゥカーノなどの後も追いかけて追い出します。

さすが森の消防士。勇敢なんですね。

大都会でも、軒先にハチドリ給餌器を吊り下げておけばきっとやってきます。先にやってきて砂糖水を飲んでいるハチドリたちを、ブンブンと音を立てながら追っ払う姿を観察できるでしょう。

この砂糖水、発酵すると害になりますから、必ず毎日、容器をていねいに洗い、砂糖水は交換しましょう。濃度の目安は20%です。

ハチドリはとかく話題に尽きない鳥ですから、またいつかお話しできると思います。

服部 敬也(はっとり ひろや)カンポグランデ在住
hiroya@terra.com.br
http://blogs.yahoo.co.jp/momotusmomota


<ブラジル美術の逸品>


【エミリアーノ・ディ・カバルカンチ 『赤い通りのムラータ』】 
1960 年 カンヴァス 油彩 98 x 79 cm リオデジャネイロ、個人蔵
Emiliano Di Cavalcanti “Mulata em Rua Vermelha” Coleção particular,Rio de
Janeiro.

「しおらしい花は俗世のフェスタを飾るのには向かない」
( エミリアーノ・ディ・カバルカンチ)

ムラータ( 白人と黒人の混血女性) の美しさ、情熱や奔放さをキャンバスで称えたディ・カバルカンチ。色鮮やかな花を描くことを好んだカリオカの画家は、南国の空気を彩るムラータたちも人一倍愛した人だった。

カバルカンチのムラータは、18 世紀後半にアタイデ師匠*がミナスジェライス州の教会に描いた“ マドンナをムラータにした” 聖母像ではなく、“ ムラータをマドンナにした” 趣がある。官能的な香りの漂う何人ものムラータの姿には、時にルネサンス期の芸術家が描き出したマドンナとも変わらぬ格調を感じさせる。

1953 年の第2 回サンパウロ・ビエンナーレに参加したカバルカンチは、『漁師たち(PESCADORES)』を出展してブラジルの優良画家に選ばれた。ブラジルの海岸で漁猟生活をする浅黒い肌の恰幅のよいムラータの作品が評価されたことは、ブラジル芸術が、さらに言えばブラジルが認められたことを意味した。1955 年にカバルカンチが著した『我が人生の旅』には次の一節がある。

「エルグレコ、セザンヌ、ドラクロワ、ゴーギャン、ルノワール、ロートレック、マネ、ピサロといった主なヨーロッパの画家、パリのカフェに出入りしたピカソ、ブラック、マティスといった現代画家の作品だけが絵画ではない」

この言葉の自信を裏付けるような『赤い通りのムラータ』に描かれたブラジル女性は、未来の国ブラジルから、内に秘めた情熱とどこか控え目な視線を鑑賞者に送っている。

★エミリアーノ・ディ・カバルカンチ
Emiliano Di Cavalcanti (1897- 1976)
リオデジャネイロ市生まれ。画家、イラストレーター、風刺、デッサン、彫刻、壁画、ジャーナリストとして新聞や雑誌の仕事に携わった。カバルカンチの大きな功労の一つは、'22 年にサンパウロで開催された近代芸術週間の立案者、実行委員の一人となったのをはじめ、ブラジル芸術の近代化やブラジル文化の統合を追究したことだった。'23 年から2 年間はリオのコレイオ・ダ・マニャン紙の通信員として、'36 年には軍国主義の風刺画を描いたことなどが理由で一時投獄された後に'40 年までパリで過ごし、レジェやピカソなどの芸術家と交流した。ムラータを描いた作品は数多い。

*アダイデ師匠 Mestre Ataíde (1762-1830) はミナスジェライス州の黄金時代に活躍したブラジル人の宗教画家。美術史上、画風はバロッコ・ミネイロ( ミナスのバロック) と位置づけられる。代表作はオウロ・プレット(MG) のSão Francisco de Assis 教会の天井画など。


ブラジルビジネスで
失敗しない秘訣

この連載では、ブラジルビジネスの最前線に立って長年ブラジルで仕事をしてきた方々に、現場からの体験を通じて日本との比較を交えながら独自の視点でブラジルビジネスに失敗しない秘訣を紹介していただきます。
今回は有限会社フレンチ・ヒオの専務である高野秀雄さん(58 歳)にお話をうかがいました。

<その一>恩をあだで返される覚悟も必要

ブラジルに来てから25 年くらいはずっと会社のためにブラジル人を育てようとして、実際に自分の仕事時間を削って技術を教えてきたこともありました。ところが、ある日突然技術を身に付けると会社を去ってしまうわけです。感謝の言葉もなく…。そういうことが度々ありました。仕事を教えている期間の給料が低かったと後になって訴えられることもありました。そういうと、「何かの見返りを求めて教えようとしたからショックを受けるんだ」と人から言われ、「なるほどなあ」と思いましたが、仕事の時間を割いて教えてきたわけですから、実際には全体の仕事のロスもありました。教えない方がいいというのは悲しいことですけれど、最近は自分で勉強してきて技術を習得してきた人材を雇用する方がよいと考えるようになりました。

<その二>自分の看板を売って歩く

昔からブラジルでどんなにいいものを作っても、ヨーロッパをはじめ海外では「メイド・イン・ブラジル」の文字があると売れないために「ブラジル」の文字が消されてきました。

ブラジルで作られたものは、メイド・イン・フォルクスワーゲンやメイド・イン・マイコン(前川製作所)として世界で販売されました。よいものを作っているにも関わらずメイド・イン・ブラジルが消されるのは悔しいことですが、グローバル時代も到来していることですし、会社、さらに言えば自分のブランドという心構えで世界一のもの作りや製品販売を行うのがよいと思います。

<その三>ステレオタイプのブラジル人ばかりではない

2010 年に取引先のブラジル前川製作所がジアデマ市からアルジャー市に移転したのを受け、長年ジアデマ市に拠点を置いていた工場をグアルーリョス市に移転しました。そうして改めて感じたのは、ブラジルでもABCD 地区*の人々の気質は、きちんと約束を守り、あまり虚言がなかったということでした。調べてみると、ABCD 地区は20世紀ブラジルの工業を牽引してきた地区で、ドイツや日本など世界の高い技術力を持つ多国籍企業が拠点を置いていました(現在は移転した会社も多い)。技術は嘘が通りません。嘘をつくとブラジルの車はいつも爆発してしまいますよね(笑)そういう事もあって、一般にジアデマ市は泥棒が多いなどの風評がありますが、律儀な住人が多く過ごしやすかったです。新しく移転したグアルーリョスは、一般に言われるブラジル人気質を持った人が多いように感じます。

*サント・アンドレ市、サン・ベルナルド・ド・カンポ市、サン・カエターノ・ド・スル市、ヂアデマ市のこと。

<その四>従業員はロボットの奴隷ではない

現在の会社に移ったばかりのころ、仕事の効率化を図るためにワークサンプリング(勤務時間中に作業内容別に統計をとるなどして作業時間を見積もる方法)を実施しようとして猛反発にあったことがありました。数年後には徐々に理解してもらって受け入れられていきましたが、当時は「俺たちはロボットじゃない」といって、日本の常識がすぐには通用しませんでした。効率的だと考えてロボットのように働いてもらおうとすると、逆効果のこともあります。

<その五>度胸と資金

リーマンショックの後は工場も注文が減り厳しい状況が続いてきましたが、仕事が無い時にも落ち込まず、新しいビジネスを考えて、門前払いされたり蔑まれたりすることを恐れず他社の門を叩いてセールスし、さらに新しいアイデアや技術を入手することに貪欲になるべきです。何が功を奏すか分かりません。あとは、従業員を全て解雇してもまだ事業が続けられる資金の余裕が常にあれば、本当は理想的ですね。

◆高野秀雄さんのプロフィール

1952 年、秋田県雄物川町生まれ。高校卒業後3年間は日産自動車に勤務し、1973 年に正式な移民船としては最後の『ブラジル丸』でブラジルに工業移住。渡伯から約3 年はサンパウロやクリチーバで転職し、1975 年からコンプレッサーエンジン製造のチーフとしてブラジル前川製作所に入社。1995 年から有限会社フレンチ・ヒオの専務兼代表として最盛期には約30 人の従業員と産業用冷凍設備を主に製造。工場はグアルーリョス市にあり、ブラジル前川製作所などと取引がある。

【サイト】www.frenterio.com.br

企画: ピンドラーマ編集部 取材・文: おおうらともこ


<摩訶不思議なブラジル経済>
ブラジル国債

ペトロブラスが過去最大の株式公開を行った。これは今まで最大であったNTT の株式公開額を遥かに上回り、改めてエマージングマーケットに資金が動いてることを印象付ける出来事である。さて、今回はブラジル国債について書いてみたい。国債とはブラジル政府が国内・国外から借金をする手段であるがこれが色々な種類があり分かりにくい。ブラジルの新聞などでNTN-F やらLTN 等を見たことがあると思うが、知らない人は何のことなのか理解できないと思う。実際、私も最近までLTN やNTN が「国債」であるとの理解はしたが基本的には意味不明であった。これを今回は整理したい。

現在、ブラジル国内で流通している代表的な国債は以下の通り。

(1) LTN(Letras do Tesouro Nacional)
6・12・24 ヶ月の短期ゼロクーポン債※1(割引債)

(2) NTN-F(Notas do Tesouro Nacional Série F)
3・5・10 年の長期債、クーポンは10%で年2 回利払

(3) NTN-B(Notas do Tesouro Nacional Série B)
3・5・10・20・30・40 年のインフレ指数(IPCA)リンク債、クーポンは6%で年2 回利払

(4) NTN-C(Notas do Tesouro Nacional Série C)
インフレ指数(IGP-M)リンク債、期間は最長25年の超長期でクーポンは6%若しくは12%、年2回利払

(5) LTF(Letras Financeira do Tesouro)
SELIC 金利(基準金利)連動の期間5 年程度のゼロークーポン債(割引債)

(6) NTN-D(Notas do Tesouro Nacional Série D)
US ドルリンク債、金利計算360 日ベース(※ 2)ブラジル中銀も同様な国債NBC-E (Notas do Banco Central do Brasil Série E) を発行している。

(1) (2) は固定利付債、 (3) (4) は物価連動債、 (5) (6)はSELIC・為替連動債としてグループに分けると分かり易いと思う。固定利付債はブラジル政府の利払額が発行時に決まるので金利変動リスクが無く、物価連動債はインフレ率によってクーポンの額が変動するが比較的金利変動リスクは低い。逆にSELIC・為替連動債はその時の金利・為替によって変動する可能性がありリスクが高くなる。

2009 年末のブラジルの国債残高はおよそ1 兆5千億レアルでそのうち固定利付債の割合が32.2%、物価連動債が26.7%でSELIC 連動債が33.4%、そして為替連動債が6.6%となっている。この構成比率は過去10 年で大きく変化している。2002 年の時点でSELIC 連動債・為替連動債の構成比率は全体の90%近くを占めており、一方で固定利付債はおよそ10%程度であったのが、今では前述の通り構成比が逆転している。特に為替変動債は変動リスクが大きいのでブラジル政府はその比率を下げ、固定利付債の構成比率を上げる努力がなされてきた。

また、国債償還までの平均期間は3.5 年でこれは2004 年の2.9 年から比べると長期化(改善)している。また、今後1 年に償還となる国債の割合も2004 年に39.3%であったのが2009 年には23.6%まで下がっている。これはブラジルが長期国債の発行が可能となり毎年の借換負担が減っていることをあらわしている。

今回は随分テクニカルな内容になってしまったが、ブラジル国債はブラジル経済を理解する上で欠かせない。書き残した部分も多いので興味がある方はブラジル財務省のサイトを是非見て頂きたい。

http://www.tesouro.fazenda.gov.br/

ブラジルにはインフレ指数が沢山あるように、国債も色々な種類あり、また名称もNTN-B と言った具合でその名称から内容を想像することが難しい。数ある国債の種類は過去ブラジル経済が危機に対応してきた名残と言っていいだろう。今後ブラジル経済が安定していくとしたら数ある国債の種類も整理され、おそらく固定利付債と物価連動債が更に国債の大部分を占めることになると思われる。

(注1)ゼロクーポン債とは利払がない債券のことをいう。例えば額面が100 レアルで償還期間1 年の債券の売り出し価格が95 レアルとすると、経済効果としては5.263%の利回の商品を購入したことと同様になる。

(注2)金利計算360 日ベースは国際的には一般的であるが、NTN-D 以外のブラジル国債の金利計算は1 年252 日ベースの複利計算をする。これは、ブラジルがインフレ率が極めて高かった時代の遺産であるが、土日を含まない営業日がおおよそ252 日と考えればよい(つまり土日には金利がつかない)。金利の計算方法も複利となる。例えば100 レアルの国債で年利が5%だったとすると、6 ヶ月間の金利は(1+5%)の126 / 252 乗になり具体的には2.47%であり、単純に5%の半分の2.5%にはならない。年利が15%の場合は6 ヶ月の金利は7.23%になり単利計算の場合との差が大きく無視が出来なくなる。

加山 雄二郎(かやま ゆうじろう)
大学研究員。


<ブラジル社会レポート>
ブラジルでストレスフリーって本当? 自殺あれこれ

「これが日本の世相だ」と言える話題って、気が付くと「高い自殺率」とか「孤独死」とか、何やら暗い話題ばかりと思える今日この頃。事実、世界保健機関(WHO)の統計では、人口10 万人あたりの自殺者数(自殺率)のランキングで日本はワースト5の25.8 人(2009 年)です。片やブラジルは、75 位、4.6 人(2005 年)。こう聞くと、外国に住んだことのない日本の人から、「ブラジルに駐在?いいね、ブラジルはストレスフリーでしょ!」と言われそうです。しかし、ブラジル全国の多数の駐在員の皆さんと共に、ぜひ言っておきたいですね。「んなわきゃーナイ!」と。ホント、一緒に仕事をしながら、何でこのブラジル人たちはこんなにストレスを感じてないんだろうと思うだけでストレスになりそうです。

ブラジルの自殺率は世界的に見ても低水準なのですが、実は、地域でかなりばらつきがあります。自殺率が一番高いのはリオ・グランデ・ド・スル州で、11.0 人。中でも州都ポルト・アレグレは11.9 人です。しかし、国内の都市で自殺率が最も高いのは、同じくリオ・グランデ・ド・スル州内のヴェナンシオ・アイレス市。10 万人あたり40人以上と言われており、日本をもダントツで追い抜いており、市町村別にみても世界の上位に食い込みます。理由は……実はよくわかっていません。しかし、多くの研究者が指摘するのは、この地域で大規模に行われているタバコ栽培で利用される、殺虫剤のタマロン(バイエル社商標)の影響。商品名ではわかりにくいと思われますので、化学名で言いますと、ホスホルアミドチオ酸-O,S- ジメチル、つまりメタミドホスです。あの日本中を震撼させた中国製ギョーザに混入していた殺虫剤。ちなみにブラジルでは、使用は禁止されていません。ちなみにメーカーは、研究者の指摘に対して、「自殺と弊社製品の因果関係はないものと考える」との見解を示しています。

こうした事情があるためブラジルは、「平均すると極めて低いが、実は、極めて低い地域に極めて高い地域が混在しているためで、自殺率が高い地域では十分な対策が実施されることが望まれる国」なのです。ブラジルは地域差と男女差が大きく、ブラジリア大学が2004 年に実施した調査では、男性の場合、リオ・グランデ・ド・スル州が10 万人あたり16.6 人でトップ、反対に、最も低かったのはマラニョン州の2.3 人。女性では、南マット・グロッソ州が4.2 人でトップ、最低の自殺率を記録したのは、リオ・グランデ・ド・ノルテの0.6 人です。

自殺の原因については、答えは単純ではないようです。私は、適度に希薄な人間関係と柔軟な雇用関係が抑制要因のひとつでは?と思っています。つまり、農村であっても「身内の話が筒抜け」ではなく、都市部であっても「とりあえず何か口がある」という状態。

私の友人の、ある自動車部品メーカーの役員のケースをちょっとご紹介しましょう。

この友人は、2008 年の国際金融危機のあおりを受けてレイオフが宣告されました。その話を聞いた時には私のほうが驚いたぐらいで、本人はいたって冷静。半月ほどブラブラした後、就職活動をしながら近所の知り合いが経営するレンタカー会社でドライバーとしてアルバイトを始めました。

「そいつの会社が韓国の某社と契約したんだ。俺の仕事は、韓国人の役員を、サンパウロから田舎の工場まで毎日、連れて行っては帰ってくること。お前の日本語も意味不明だけど、韓国人の言葉も全然わかんない。相手だって俺のポルトガル語がわかんないんだから、車のシートに座ったら目的地に向けて速攻で出発」

などと言いながら、仕事そのものは楽しそうな口ぶりです。

「何しろ相手が話さないからさ、運転中はそれこそ沈黙。エンジン音だけ。気楽なもんだ。だいたい、『キムチは好きか?』なんて聞かれたら、どう答えるんだよ。米とフェイジョンに満足している人間だぜ。寿司なら聞いてくれてもいいけど。俺は運転が大好きだし、会社の車はゴージャスだし、その上に後部座席は人がいないも同然なんだから、楽しいアルバイトだよ」

結局、レイオフの期限前に部品工場の役員に復帰しました。「ブラジルでは失業していても何がしかの働き口があるケースが多い。だから、単純に日本とブラジルの失業率の数字だけを比較してもナンセンス」と指摘する研究者が多いのも、うなずける話。ブラジル地理統計資料院(IBGE)の調査(1996 年から2005 年の平均値)では、サンパウロ市内でもそうした地域特性を反映して自殺率に地域格差があるそうです。例えばリベルダーデ区近辺のセントロの自殺率は10 万人あたり6.3人。反対に、カンポ・リンポ区やサント・アマーロ区では3.3 人だそうです。

美代賢志 (みよ けんじ)
ニュース速報・データベース「B-side」運営。
HP : http://b-side.brasilforum.com


<クラッキ列伝>
第15回 ネコ

今年9 月1 日に記念すべきセンテナーリオ( 百周年) を迎えた王国きっての人気クラブ、コリンチアンス。マルセリーニョ・カリオカやネット、ソークラテスらクラブ史に名を刻んだ数々のクラッキたちにもやはり、源流が存在する。

ネコの登録名で知られたコリンチアンス最初の英雄、マノエウ・ヌネスその人である。

1895 年にサンパウロ市内の貧しい家庭に生を受けたネコは荒れ地に近い土の上でボールと戯れ、そのドリブルの技術を磨いたが、最初に門をくぐったのが設立されてわずか2 年しか経過していないコリンチアンスの下部組織だった。

1911 年に16 歳の少年マノエウを、のちにブラジルで最も熱狂的なサポーターに支えられるクラブに導いたのは、コリンチアンスの創設に携わり、自らも創設時の選手であった兄セーザル。草サッカーで足技を磨いたネコだったが、当初出場機会には恵まれなかった。

ただ、局面の打開力とシュートセンスは本物で、1914 年にはサンパウロ州選手権優勝に貢献し、自らも得点王を勝ち取っている。

技量はさることながら、コリンチアンスでアイドルに上り詰めるには、強烈なクラブ愛は不可欠だが、ネコも後に現れる英雄同様にクラブを愛していた。15 年に財政危機に陥り、クラブの運営が危ぶまれた際には深夜にクラブハウスから優勝のトロフィーや書類などを運び出し、状況が落ち着くまで自らの自宅で保管。

逸話には事欠かない男である。20 年9 月にパレストラ・イタリア( 後のパウメイラス) との試合では、自らが受けた反則を主審に見逃されると自らのパンツのベルト――当時のユニフォームの仕様だった――を外して手に持ち、主審を追いまわす気性の激しさも見せた。

以来、当時のコリンチアーノは主審のミスがあると「ベルトを外せ、ネコ」のコールが決まり文句のようにスタジアムに響き渡ったという。

技術とガッツを併せ持ったネコ。コリンチアンスから最初にブラジル代表に招集された選手としても知られ、14 試合で9得点。左ウイングやCF など複数の攻撃的ポジションをこなした男が特筆されるべきは、17年の長きにわたって、クラブ愛を体現し続けたことだ。

296 試合を戦い、235 度ゴールネットを揺さぶったコリンチアンス最初の英雄は、1930 年に引退。やはりクラブ初の栄誉となる胸像が同年、クラブの拠点となっているパルケ・サン・ジョルジに築かれた。

「MANOEL NUNES (NECO)」の文字が刻みこまれた堂々たる像のモデルは、天から見つめた百周年に、何を思ったのだろうか――。

下薗 昌記 (しもぞの まさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002 年にブラジルに「サッカー移住」。約4 年間で南米各国で400 を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などに執筆する。現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


王国再建なるか
新代表監督メネーゼス

☆優勝が義務付けられる4 年後の自国開催W 杯に向けて、ブラジル代表が動き出した。若手への刷新などいくつかの課題を抱えながらマノ・メネーゼス新監督は、王国再建に挑む。☆

 南アフリカ大会で惨敗を喫したドゥンガの後任選びに向けてブラジルサッカー連盟(CBF) がリストアップした候補から当初、最有力だったのがフルミネンセを全国選手権で首位に導き、2006 年から三年連続でサンパウロを全国選手権優勝に導いたムリシー・ラマーリョだった。一時は就任直前まで至ったラマーリョだったが、フルミネンセ側が認めず御破算に。二番目の候補として挙がっていたメネーゼスにいわば「プラノ・ベー」として白羽の矢が立てられた。

 2007 年のコパ・リベルタドーレスでグレミオを準優勝に導き、二部落ちしたコリンチアンスを一年で復帰させた翌年にコパ・ド・ブラジルで優勝させるなど国内屈指の指揮官として知られるメネーゼス。コリンチアンスOB のリヴェリーノ氏も「このクラブで3 年も指揮を取れていることが、彼の質を物語る」と太鼓判を押す。

 リベルタ杯では敗れ、国際大会でのタイトルには縁がないものの、ブラジルで最も重圧を受けるコリンチアンスでクラブ史上最長の指揮を執った実績は、セレソンの指揮を任せるに相応しいものだ。

 選手時代にはアマチュア経験しかないものの、ガウショらしく統率力とメンタルの強さをピッチで体現していたメネーゼスは大学で体育学を修め、1997 年から指導者の道に。戦術的にも欧州のモードを柔軟に使いこなすことでも知られ、コリンチアンスでは攻撃時に[4-3-3]、相手ボールの際には[4-5-1] と現代的なスタイルで結果を出してきた。

 メディアと不必要な軋轢を起こし、自ら禍の種を蒔いてきたドゥンガの二の舞を踏ませたくないとCBFは、メディアとの関係も重視。会見などでも滅多に声を荒げず、またツイッターなどの情報発信にも秀でるメネーゼスは適任と言えるだろう。

 そして、4 年後に向けた課題で必須なのが、若手の登用だ。目先の勝利のみを追求し、若手を本大会に招集しなかったのがドゥンガの負の遺産。

 「強いセレソンと同時にブラジルらしさも」( テイシェイラCBF 会長)。

 相手に攻められた時のみ、堅守速攻が持ち味を発揮する前任者のスタイルは王国に相応しくない。

 すでに8 月に行われたアメリカとの初めての親善試合に向けて、ネイマールやガンソ、パトらの実績ある若手に加えて、国内では無名のCB ダヴィジ・ルイス、さらにはグレミオ時代に起用していたルーカスやカルロス・エドゥアルドら「メネーゼス色」は出始めている。

 さらに新指揮官の強みは年齢にとらわれずベテランを巧みに起用することだ。経験値の少ない若手を、圧倒的な重圧のかかる自国開催の中心に据えることはまずあり得ない。

 コンディション次第だが、カカーや復調著しいロナウジーニョらベテラン勢も当然視野には入れているはずだ。

 新体制初戦となったアメリカ戦では初先発初得点のネイマールらの活躍でアメリカに快勝。新聞には「マジックが戻ってきた」との見出しが躍っていた。

 まずは来年のコパ・アメリカが最初の関門となるが、「エラ・マノ( マノ時代)」は順調なスタートを切っている。

下薗 昌記 (しもぞの まさき)


<開業医のひとりごと>
今月のひとりごと:『海水浴をして免疫力を高めよう』

 このコラムの22 人の読者様、皆様お元気ですか?先月はお休みをいただきました。休暇中にはノルデスチ地方の某所でダイビングを楽しんで来ました。久々に海に潜って、その時つくづく思ったのが「人間の免疫力はすごい!」でした。なぜだか説明します。一度ダイビングしてみるとわかるのですが、どれだけ美しくて汚染のない海でも、明らかに大変な量の生物、微生物、浮遊物があります。魚介の生活代謝物はあるし、ワカメのような藻類や、辛うじて肉眼で見えるプランクトンやクラゲ類、見えない微生物、海水に溶けているミネラルなどなどです。 海水を舐めてみると色々な味がわかります。 それだけ「汚い」ところに入っていって大丈夫なのが今回のひとりごとです。

『そう。大丈夫なのだな。透明度の高い海に潜ると「汚い」のがよ〜く見えるぞ。とにかく潜水作業そのものが忙しいので始めは気にもならないのだが落ち着いてくるとゾッとするぐらい生物がいるのだな。目の前できれいな熱帯魚がブリッと排泄してるし。でその中をゆらゆら移動している間に思ったのが、これだけ周りが「異物」だらけでも人間病気にもならないだけの免疫力をもっていることだな。抗菌抗菌といろいろあるが、あれはいったい何なんだろう?ダイビングしながら思ったのが、アトピー性皮膚炎に海水浴療法なるものは※1、これは適度な汚れが効果があるのではないか?海水には塩分を始めいろんなミネラルが溶けているのでそれがアトピーの皮膚に良いのではないかとされているが、筆者はそうは思わない。その証拠に塩水療法※2が無効の場合でも海水では有効例がいくらでもあるのだな。秋山説は二つ:①適当に汚い水が免疫力を高め、かつ正しい作用に導く、②海水浴は温かい所で行うので冷えが改善される※3。日本の小学生のアトピーの有病率は約10%とされているが、場所によっては3 人に1 人もありうるそうだ。後進国では無い疾患だな。ブラジルでも少ないぞ。また、一昔はアトピーの85%が成人すると治っていたが、最近では大人になっても20%しか治らないといったデータもある。これはアトピー要因が増えたのと、治癒する機会が減ったのと、主にステロイド使用で治るのが遅くなっている(あるいは治らなくなっている)のではないだろか?この内、治癒機会として海水浴が重要であると思いたい。アトピーでなくっても免疫には絶対にいいからこれから暑くなる季節なのでどしどし海に行ってもらいたいな※4。

註1:海水療法または海洋療法。正式にはタラソテラピーと呼ばれ、20 世紀の初めヨーロッパで始まったレッキとした医療行為。でも日本では「タラソ」は癒し系・エステっぽいアプローチ。

註2:食塩とミネラルを溶かした水で身体を洗う方法。

註3:東洋医学的に診ると、アトピー患者さんは総じて冷えているのだな。炎症が起こってほてっているのに。いわゆる虚熱なのだ。これを西洋医学ではさらに冷やすので絶対によくならない。

註4:日焼けには注意しましょう!

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。
サンパウロで開業(一般内科、予防医学科)。
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