2010年6月27日日曜日

ピンドラーマ2010年5月号

ワールドカップなどでアップを怠っていました。
一気にアップします。(川原崎)



<ブラジルを撮る!>



《サンパウロ市ブラス地区の移民博物館で毎週末に運行している列車》
撮影場所:サンパウロ
写真:伊東 信比古


<移民の肖像>

【沖縄開発青年、女子青年隊の与儀米子(よぎ・よねこ)さん】

「自分が青年隊の中に入れてもらったことは、最高の喜びです」—。2004年9月30日に開催され
たブラジル沖縄青年隊移住50 周年記念式典に出席した第2次女子青年隊の与儀米子さん(66歳、沖縄県出身)はこの日、祝辞の挨拶を行う大役を果たした。
同青年隊は、米軍用地問題や人口対策などで揺れていた戦後の混乱期の時代、社会問題解決策の一環として1957年の第1次を皮切りに、ブラジルへの若者の派遣を促した制度だ。
米子さんの父親が地元の移民局長と知り合いで、女子青年隊としてのブラジル行きを薦められ、家族も同行することで米子さんは承諾。1961年(チサダネ号)の渡伯を前に名護キャンプで3 か月間、女子青年隊としての訓練を行った。
訓練所では午前6時に起床して隊旗を掲揚。パイナップルを植えたり、草取りなどをやらされたほか、男子隊員に混じって山を切り開いたりもした。
父母、兄妹ら家族10人で海を渡り、カンピーナスから西に約40 キロ離れたエリアス・ファウスト在住の新垣源次郎氏の農場で世話になった。63年頃にサンパウロの町へ出て、米子さんはカンブシー区で絹織物関係の事務員として働いた。当時、まだ18歳だった。
両親たちはサンパウロ市内でフェイラ(青空市場)の仕事に就いたが、思うように金が貯まらない。
「少しでも親孝行したい」と米子さんは65年、同村出身者で戦災孤児だった与儀時次郎さんと結婚した。渡伯前、米子さんは開発青年隊の理事長だった瑞慶覧長仁氏から、「必ず青年隊と結婚してほしい」と言われていたが、伴侶は青年隊ではなかった。
当時、時次郎さんはサンパウロ市から約300 キロ離れたサンパウロ州イタベラーに伯父の土地40アルケールの密林開拓に励んでいた。21歳だった米子さんは、初めての「電気もない、人もほとんどいないヤマの生活」に入った。
夜明けとともに起き、日中は汗と泥にまみれた農作業を続けたが、暮らしぶりは進展しない。奥地で思うようにいかない農業に疲れ果て、73年にはやむなく、夫と三男一女の子供を連れて父母の住むサンパウロへ。 
父母たちがやっていたフェイラの仕事をイピランガのビラ・プルデンテ区で始め、主に野菜類などを販売した。出店だけでなく、野菜を洗ったり箱詰めしたりと1日3、4時間の睡眠で寝る間も惜しんで働いたが、インフレの影響などで生活は少しも良くはならなかった。
「その頃、青年隊の集まりがあることも聞きいていましたが、それどころではありませんでした」
1988年、夫をブラジルに残し、親子5人で日本に出稼ぎへ。悲壮感が漂う中で日本に向かったが、母国日本の経済活動が米子さん親子を助けた。
「金の成る木を求めてブラジルに渡りましたが、本当の金の成る木は日本にありました」と米子さん。東京の病院で5年ほど働いたが、「背中が痛くなるくらい睡眠を取ることができ」(米子さん)、ブラジルの仕事から比べると楽なものだったという。
90年には、ブラジルに渡ってから初めて故郷の沖縄に戻った。同級生たちが集まってくれたが、「もう、沖縄には住めない」と感じ、出稼ぎで得た金で、ブラジルでの生活を再出発させた。
米子さんは「私たちがやらなければ」と今でも前5時半に起きて、夫とともに午後9時までパステラリアで働き続けている。生活にもゆとりができ、95年には初めてのブラジル国内旅行もできた。
そうした中で、3年前、改めて沖縄開発青年隊の集まりがあることを知った。
「それまでは生活に余裕がなく、後を振り返ることもできませんでした。この時は青年隊の集いであいさつをさせてもらい、自分の人生を果たしたような思いです」と米子さんは、改めて青年隊の友情と団結の素晴ばらしさを噛み締めている。

写真・文 松本 浩治(まつもと こうじ) 在伯14 年。
HPサイト「マツモトコージ写真館」
http://www.100nen.com.br/ja/matsumoto/


<ブラジル面白ニュース>
〜死後もお騒がせ、クロドヴィル連邦下院議員〜

去年3 月、脳溢血で急逝したクロドヴィル・エルナンデス連邦下院議員(享年71)が死後1 年以上を経て再び世間を騒がせています。

クロドヴィル語録をリプレイ

クロドヴィルといえば、ブラジルの著名人のスタイリストとして大成功、1980 年代からはテレビ番組の司会などとしても活躍、その後、2006 年の連邦下院議員選挙で政界入りした、いわゆるタレント議員。また、国会議員で初めてホモセクシュアルであることを公言した人としても有名でした。
でも、特に世間に名前を知らしめたのは、女性政治家との対談番組で「女って、つまらなくて平凡になったわ。それにシリコンだらけ。最近、女は寝そべって働いて、立って休憩している(=売春婦は寝て働き、立ちながら休憩する。すなわち、女は売春婦)」などという発言を平気でしてしまう悪癖を持っていたから。これはピンドラーマ2009 年5 月号の「面白ニュース」でも取り上げているので、皆さんもご存知かと思います。

あの世に賠償金請求? ?

そのクロドヴィル、去年3 月に多くの毒舌ファンに惜しまれつつ、この世を去りました。ところが、死後1 年以上を経た2010 年4 月13 日、裁判所より、心的損害を与えたことによる5000 レアルの賠償金支払命令が下されたのです。
原告はクロドヴィルと同じく、スタイリストでホモセクシュアルのロナルド・エスペール(62 歳)。クロドヴィルが2005 年、ある雑誌のインタビューで「エスペールってば、イタリアで芸術作品を盗んだのよ」とコメントしたことに対し、1 万レアルの賠償金請求を同年8 月に起こしたのです。
「困ったものだけど、私たち、いつも仲良かったのよ」とエスペール。その言葉を反映するごとく、エスペールはクロドヴィルを名誉毀損で訴え、クロドヴィルも同じ理由でエスペールを訴えていました。
エスペールいわく、「私はこの司法紛争を早く終わらせようと言ったの。でも、クロドヴィルは『あたしじゃどうにもならないの。弁護士にすべて任せてあるのよ』と言っていたわ」とのこと。審理の後は必ず二人で大笑いしながら法廷を後にしたそうですから、クロドヴィルは裁判の成り行きをかなり楽しんでいたようです。

親友エスペールの秘密

ちなみに、このたび、勝訴したエスペール、実は2007 年1 月、窃盗の罪で逮捕されています。
サンパウロ市ピニェイロス区にあるアラサー墓地で花瓶を2 つ盗もうとしたところを墓地職員に目撃されたのですが、その時の言い訳が「花瓶があったお墓は私のおば様のものよ」。でも、親族関係を明確に説明することができなかった上、花瓶はすでにエスペールの愛車ビートルのなかにあったことから、窃盗の現行犯として警察に連れて行かれてしまいました。
やれやれ、クロドヴィルもお騒がせ人間ですが、親友のエスペールも負けず劣らず・・・・・・ですね。

文 門脇 さおり 島根県出身。会社員。2 児の母。

<各国移民レポート>
ウクライナ編
◆ 100 年以上前の記憶

日露戦争(1905) が終結してしばらく後、ロシア兵として参戦したウクライナ人男性の郷里の家族に、日本政府から一通の手紙が届けられた。捕虜として日本に渡った男性が、「大阪で息を引き取った」という通知とともに、生前に携えていた刀と身分証明書が添えられていた。
サンパウロ市に暮らすウクライナ人女性ルドミラ・シモンスキーさん(73 歳) が、2008 年に昇天されたご主人オレグさん( 享年76 歳) の祖父のこととして、繰り返し聞かされた話だった。ルドミラさんはポルトガル語で書かれた『MUSASHI( 武蔵)』の本をめくりながら、ご主人との思い出を回想するかのように付録の地図で大阪を探し指差した。

◆第二次世界大戦後ブラジルに渡ったあるウクライナ移民の話

ルドミラ・シモンスキーさん(73 歳) は1948年12 月16 日、12 歳の時に両親と兄、妹の5 人家族でリオデジャネイロのグアナバラ湾にあるイーリャ・ダス・フローレス(*1)の移民収容所に到着した。
ルドミラさんは1936 年12 月22 日にウクライナ東部のスラベンスク(*2) で生まれた。幼いころから父親はドイツで労働者となり、第二次世界大戦中は母子で戦火を逃れてウクライナ各地を転々とした。第二次世界大戦が終結すると、ウクライナ難民協会を頼りに英米の管理下にあったドイツのハノーバーの難民キャンプ地に家族で移り、約3 年の時を過ごした。「レセンコ」と呼ばれた難民キャンプ地では約5000 人が暮らしており、食料や服が配給され、小中学校や小劇場、図書館も備えられ、子どもらしい一時を過ごせた。
キャンプ地での生活も終わりに近づき、ウクライナで会計士だった父親は、旧ソ連の支配下に置かれた祖国へ帰ることを望まず、連合国救済復興機関(UNRRA) と国際難民機関(IRO)の支援の下、ブラジルへ移民として渡ることを決意した。そうしてドイツのハンブルグ港から家族で乗船し、ヨーロッパを後にした。
イーリャ・ダス・フローレスの移民収容所に着くと、父親はサンパウロで働くことを選択し、当時、工業都市として急成長していたオザスコ( サンパウロ市の隣町) の工場で電車の部品を製造する仕事に従事した。たった一部屋のアパートを借り、家族5 人水入らずの生活は、ヨーロッパの戦時下では想像できなかった平穏なものだった。ポルトガル語のできなかった母親は裁縫をして洋服を作り、同胞に販売するなどして生計を助け、ルドミラさんも学校に通う傍ら母親を助けた。
ルドミラさんは16 歳の時、5 歳年上だった同じウクライナ移民のオレグさんと知り合った。セントロ地区( サンパウロ市) のシリア人の教会(*3)を借りて行われていたウクライナ正教のミサでのことだった。1956 年に結婚し、以来家事育児に専念して3 人の子どもを育て、現在は7 人の孫に恵まれている。2 年前に他界したオレグさんとの幸せだった時間を思い出すと、今もまだ涙が溢れ出す。
ルドミラさんの移民としての歩みは、2000 年にウクライナの新聞でも紹介されることになった。

◆ブラジルのウクライナ移民小史

ブラジルへのウクライナ移民は19 世紀末に始まった。1870 年代から既に家族や個々のグループでブラジルに渡ったウクライナ人が記録されているが、集団移民が開始したのは1895 年のことだった。1895 ~ 96 年の2 年間で約15000 人がブラジルに到着した記録がパラナ州公文書局(*4)に残されている。初期のウクライナ移民はウクライナ西部のガリツィア地方出身者が多かった。当時のガリツィア地方はオーストリア= ハンガリー帝国やポーランドの領土の一部で、東西は列強の帝国に挟まれ、地理的条件から常に政情は不安定の上、主に農民たちは高い税金などで生活が困窮していた。一方、ブラジルでは奴隷制廃止以降、農業労働者が求められていた。
19 世紀末から第二次世界大戦後までブラジルに渡ったウクライナ人は約5 万人といわれているが、オーストリア人(*5) やポーランド人として入国した者もいたため、実際はさらにその数を上回ると考えられている。現在、ブラジルには約40万人(*6) のウクライナ人とその子孫が暮らすと推定され、ウクライナ系4 世や5 世の時代になっている。彼らの約90%がブラジル南部で暮らしており、中でもパラナ州プルデントポリス市の住民は半数以上がウクライナ系で占められていることで知られ、町にはウクライナ系の教会やウクライナ料理を食べられるレストランもある。パラナ州クリチーバ市のチングイ公園Parque Tingüi には、ウクライナ移民記念館Memorial da Imigração Ucraniana も設けられている。


◆初期移民の困難と心のよりどころ

多くのウクライナ人はリオデジャネイロ港(RJ)やパラナグア港(PN) で下船し、祖国と気候の近いパラナ州のクリチーバ近郊、サンタカタリーナ州、リオグランデドスル州に居住した。
初期のウクライナ移民は、ブラジルに到着するや祖国で聞いた新天地での夢のような生活と現実の厳しい生活とのギャップに困惑し、多くの苦難に直面した。密林や猛獣、熱帯病、言語の違い…それでも、ブラジル南部の未開の地を切り開いて生きていくしかなかった。
厳しい現実の中で、ウクライナ移民は祖国での生活を思い出すようになり、ウクライナ語でのミサの場を欲するようになった。ブラジルで既に根ざしていたキリスト教会では、言語の違いからウクライナ人たちが心安らげる場にはならなかった。
ウクライナ移民たちの状況がヨーロッパにも伝わり、1896 年には早速一人のウクライナの神父がオーストリア= ハンガリー帝国政府の使者としてブラジルに到着した。以来、神父の往来を通じてウクライナ由来の宗教が少しずつブラジルでも根を下ろし、ウクライナ人の集まる所はウクライナ正教会やウクライナ・カトリック教会が建設され、ウクライナ語のミサが行われるようになった。

◆世界に渡ったウクライナ人

19 世紀末まで、ウクライナ人は先祖が暮らしてきた黒海北部に定住してきたが、社会状況の変化やシベリア鉄道の開通などに後押しされ、ユーラシア大陸各地やアメリカ大陸などへの移民が始まった。アメリカ大陸の主な国へのウクライナ移民の数は、米国が約50 万人、カナダが約30 万人、アルゼンチンが約4 万人となっている。
第二次大戦中から旧ソ連の支配を逃れて約20万人のウクライナ人が労働者や戦争捕虜、政治亡命者として西欧諸国へ移ったが、ヤルタ協定で一時西側陣営から強制帰国させられた。1945 年末にその条項が取り払われた後、連合国救済復興機関と国際難民機関の支援によって、新しい土地での生活の道が開かれたウクライナ人もいた。

◆ウクライナの伝統を伝えたい思いから

サンパウロで暮らすウクライナ移民やその子孫の数はブラジル南部に比べて少なく、ルドミラさんによると約2000 人と推定されているという。サン・カエターノ・ド・スル市(サンパウロ市の隣)にはウクライナ文化協会があり、民族舞踊やウクライナ語教室が開かれている。サンパウロ市、オザスコ市、サン・カエターノ・ド・スル市には合計4 つのウクライナ正教会があり、他にもウクライナのカトリック教会が1 つある。全て第二次世界大戦後にサンパウロでウクライナ移民が暮らすようになった1955 年前後に創設された。
ルドミラさんの3人の息子たちはウクライナ語を話せるが、孫の世代になるとウクライナ語の習得は難しくなっている。現在、ルドミラさんは個人的に1 人の生徒にウクライナ語を教えており、これまでにはウクライナの伝統文化を伝えたい思いから、復活祭の伝統卵細工ピサンカの作り方やウクライナ伝統の刺繍教室を開いてきた。家ではボルシチやヴァレーヌィクなどのウクライナ料理も作る。
「私たちはヨーロッパを離れる時、着替えの服も何も持たず、ただ身一つで海を渡ってきました。小さなカバンには宗教や伝統、愛…ウクライナの魂を詰めてきました」とルドミラさんは静かな口調で力強く語ってくれた。
Q.ブラジルの良い点はどのような部分ですか?
A. 自然の豊かさと人々の明るさが魅力です。ただ、ブラジルの人はのんびり働きますね。ウクライナの農民はもっと小まめに働きます。
Q.ブラジルに到着した時の印象は?
A.ブラジルに来る前は熱帯林の中にサルがいるような土地だと思っていて、サルを見れるのが楽しみでした。ところが、下船したイーリャ・ダス・フローレスにはサルがいなかったので残念でした。ウクライナには熊はいますがサルは珍しいんです!
ルドミラさんはブラジルに渡ってからウクライナに4 回旅行した。
世界各国の人や文化に興味があり、日本を訪ねたこともある。
100 年以上前に日本人とウクライナ人がユーラシアの極東で出会い、ブラジルで語り継がれていたことをルドミラさんから知らされ、時間と空間を越えた人間のつながりの深さを感じさせられた。


*1 ILHA DAS FLORES には1883 年、ブラジル農務省の管轄で入植者のための移民収容所が設置された。1966年まで移民収容所として使用された。
*2 ドニエツクとハリコフのほぼ中間地点に位置する町。
*3 サンパウロにウクライナ正教会ができるまで、シリア人の正教会堂(Rua Cavalheiro Basílio Jafet,115-Centro) を借りてウクライナ人のためのミサが行われていたという。
*4 Departamento do Arquivo Público do Estado do Paraná
*5 1795 ~ 1918 年までガリツィア地方はオーストリア= ハンガリー帝国の領土の一部だった。
*6 パラナ州政府の発表 (2007 年8 月)


企画: ピンドラーマ編集部 

文・写真: おおうらともこ

1979 年兵庫県生まれ。’01 よりサンパウロ在住。ブラジル民族文化研究センターに所属。子どもの発達に時々悩み、励まされる生活を送る。

<ブラジル百人一語>
シュテファン・ツヴァイク(オーストリア人作家)
「地上の最も美しい都を持った、ふんだんに自然に恵まれたこの国、(中略)ここには過去がヨーロッパそのものにおけるよりも鄭重に保存されていたし、ここではまだ、第一次大戦をひきおこした野蛮さが、道徳慣習のなかに、国民の精神のなかに、浸透していなかった。ここではヨーロッパにおけるよりももっと平和に、もっと慇懃に、共同生活を行っており、相異なる種族のあいだの交渉そのものが、われわれのヨーロッパにおけるように敵意にみちていなかった。ここでは血とか種族とか血統とかについてのばかげた理論によって、人が人から分け隔てられるようなことがない。(中略)ヨーロッパではきわめてわずかな土地を得ようとして諸国家が闘い、政治家が不平を鳴らしているのに、ここでは土地が測り知られぬ充実をもって未来を待ち受けていた。(中略)ここではヨーロッパで創られた文明が、新しい、別な形態をとって大規模に続けられ、発展していた。私はこの新しい自然のきわまりなく多様な美に眼を楽しみながら、未来に一瞥を投げたのであった。」



『アモク』、『ジョセフ・フーシェ』、『マゼラン』、『マリー・アントアネット』などの作品で知られる、ユダヤ系オーストリア人作家シュテファン・ツヴァイクは、今日でも多くの読者(例えば、愛読者としてフィデル・カストロも司馬遼太郎も)を有するが、ナチズムと結託した日本軍国主義によりシンガポールが陥落した、との報道に接するや、1942 年2 月23 日、ペトロポリスにて妻ロッテとともに服毒自殺した。 
「自由な意志と明晰なこころでこの人生からお別れするまえに、私はぜひとも最後の義務を果たしておきたいと思う。私と私の仕事に対して、このように居心地のよい休息の場所を与えてくださった、このすばらしい国、ブラジルに、心からの御礼を申し上げたいと思う。(中略)私自身のことばを話す世界が、私にとっては消滅したも同然となり、私の精神的な故郷であるヨーロッパが、みずからを否定し去ったあとで、私の人生を根本から新しく建て直すのに、この国ほどに好ましい所はなかったと思うのである。(後略)」という書き出しで始まる遺書が明白に語っている如く、彼はブラジルに” コスモポリタン的ユートピア” を見ようとしたのであった。
ブラジルは「気候は暑くて不健康、政情は不安定、だらしない行政」の国であって、「絶望した移住者や出稼ぎのための国で、我々が精神的な刺激を受けることを期待できるような国では決してない」と書いていたツヴァイクが、1936 年、ブエノスアイレスで開催されたペンクラブ大会に招待されたついでに、ブラジルを初訪問したのだが、当時の先進国アルゼンチンより経済的にも遅れていた隣国に惚れてしまう。
ブラジルの歴史、文化、社会、経済、地理について短期間で急速に造詣を深めつつ、リオやサンパウロばかりでなくサルヴァドールやレシーフェなども訪問し、自らの見聞をもとに『未来の国ブラジル』(邦訳、河出書房新社、ポ語新訳は2006年L&PM 文庫)を刊行するが、これはブラジル永住ヴィザと交換条件で書いたものだ、すなわち当時のヴァルガス政権に” 買収された作家” だ、との批判を受けることになる。確かに、「ブラジル国民は、数世紀も前から自由かつ無制限な混血主義で形成され、黒人、白人、褐色人種、黄色人種が完全に平等化している」とか、「我々は国家に順番をつける場合に、産業、経済、軍事的価値でなく、平和的精神と人間性に対する姿勢を判定の尺度としたい。この意味でブラジルは世界で一番模範的であり、それゆえに最も尊敬に値する国の一つに思える」といった、ブラジル絶賛の文章は、過剰評価といわれてもやむをえないだろう。ナチズムの拡大への反対者として、亡命生活を余儀なくされ、精神的にも追い詰められていた老作家の幻想でしかなかった、との見方は否定しきれない面もある。
しかしながら、こうした背景を考慮した上で、尚、彼のブラジル論は今でも再読するに値するし、彼の非ユダヤ的ユダヤ人アイデンティティーから帰納されたであろう” ブラジル惚れ” の精神をポジティブに引く継ぐべきだろう、と筆者は考えている。
ちなみに冒頭に引用したのは、ブラジル本からではなく、彼が亡命先(米国、ブラジル)で、「少しのメモもなく、自分の著書の一冊もなく、手記もなく、友の手紙もない」状態で書き綴った自伝『昨日の世界』(邦訳、みすず書房)から、である。


文 岸和田仁(きしわだひとし)
東京外国語大学卒。二度目のブラジル滞在(前回と合わせると、延べ19 年間)を終え、09 年6 月帰国。ブラジルを中心とするラテンアメリカ研究は継続中。著書に『熱帯の多人種主義社会』(つげ書房新社)。新しい著書を” 工事中”。




<新・一枚のブラジル音楽>

スタン・ゲッツ、ジョアン・ジルベルト「ゲッツ・ジルベルト」
Stan Getz, João Gilberto "GETZ/GILBERTO"


ボサノヴァを語るものにとって、避けては通れないレコードが二枚存在する。一枚は、ボサノヴァの創造者ジョアン・ジルベルトによる1958 年のシングル盤「シェガ・ジ・サウダージ」、そして1963 年のアルバム「ゲッツ・ジルベルト」だ。前者については、一昨年本誌8 月号の拙稿で語ったので(CD「レジェンダリー」として)、さて残るは「ゲッツ・ジルベルト」だ。
なぜこの二枚がそんなに重要なのかといえば、それは前者がボサノヴァ誕生を告げる一枚であり、一方後者がボサノヴァの世界的普及の端緒たる一枚であったからである。
「ゲッツ・ジルベルト」。あのグラミー賞を5部門で受賞、収録曲「イパネマの娘」は今日まで世界で二番目に多く演奏される曲となり(トップはビートルズの「イエスタデイ」)、またジョアンの当時の夫人、素人歌手のアストラッド・ジルベルトを一挙にスターダムに押し上げた、化け物的アルバムだ。が、僕にとって、このアルバムがもっとも化け物的に見える側面は、二人の主役、ジャズ・サックスの巨匠スタン・ゲッツと、ジョアン・ジルベルトとの間の芸術的「不調和」である。そしてその「不調和」こそが、このアルバムの致命的欠点であるとともに、また魅力でもあるのだ。このアルバムについて語ることが避けて通れないなら、僕はその「不調和」について語るとしよう。
皆さんはグノー作曲の「アヴェ・マリア」という曲をご存知であろうか。バッハの「平均率クラヴィーア曲集第一巻第一番」を、こともあろうに「伴奏」にして、その上に旋律を付した曲である。バッハの極めて「思想」的芸術を、自己の「情緒」的芸術創造の材料として利用した、まさに愚挙であり、冒瀆であるとさえ言えよう。スタン・ゲッツがこの「ゲッツ・ジルベルト」において行なったことが、実はそれであった、と僕は思っている。
ジョアン・ジルベルトのボサノヴァは、静寂との対話であり、音楽はこうあるべきだという、彼の思想の実践であり、人間的な喜びや悲しみを表現するたぐいの芸術ではない。考えてみれば、大衆歌曲のこのような演奏方法は、当時世界のどこにも存在していなかったであろうから、ゲッツが理解していなかったのも無理はないと言える。しかしジョアンは許さなかった。彼が、英語を話せる共演者ジョビンに「このグリンゴ(外人)に、おまえは大バカ野郎(muito burro)だと言ってくれ」と言うと、ジョアンより“ おとな” のジョビンは、この暴言を「あなたと共演できて、たいへん光栄だと言っています」とゲッツに“ 翻訳” した話はつとに有名である。
この“muito burro” の意味するところは、つまり「おれの音楽がまったくわかってない」ということに尽きると思う。具体的に言えば、「なぜ、そうヴィブラートをつけたがるんだ」「なぜ、そう強弱の抑揚をつけるんだ」「なぜ、そうセンチメンタルなフレーズを吹くんだ」と、まあゲッツのやることなすことに腹を立てていたわけだろう。
では、どうしてこんな不調和な組み合わせの二人が、こんな美しいアルバムを残せたのだろうか。グノーのアヴェ・マリアに話を戻せば、あれは愚挙の産物ではあっても、美しい旋律であることに間違いはないわけで、真に優れた作品(この場合バッハの曲)は、たとえ材料として利用されても、美しい別の作品を生み出す力を備えている、ということだろう。また、たとえ思想的な作品であっても、バッハの曲が、そしてジョアンの演奏芸術が、この「世界」や「宇宙」を扱っている以上、人間的感情の世界を、部分として当然包含しているわけで、わかりやすい言い方をすれば、彼らの芸術の「ふところの広さ」のおかげで、グノーもゲッツもごく自然に、美しい情緒的旋律を生み出せたのではないか。ジョアンが「大バカ野郎」と言わずにおれなかったのは、ジョアンという「人間」のふところの狭さであって、その「芸術」のふところとは何ら関係がない。実際、このアルバムでのゲッツのサックスは美しい。愚挙であっても、だ。単に即興的ソロの記録として片付けるには惜しい、心に刻まれる旋律だ。
リスナーの側からすれば、この相反する芸術家どうしの共演は、互いに寄り添わないだけ、かえってスリリングな魅力に満ちている。相反するからこそ、際立つ両者の音。耳の焦点をどちらに絞るかで、例えばジョアンのささやきとギターに耳を澄ませていれば、ゲッツの演奏が「うるさい!」し、ゲッツの躍動感のあるソロ演奏に聞き惚れていれば、ジョアンの演奏は「眠たい!」だろう。不調和のまま33 分間、危うくぎりぎりのところで両者の美が共存している。
ボサノヴァをジャズの世界に巻き込んだ功罪を含め、この歴史的アルバムについて、永遠に議論は尽きないであろうが、異論を恐れずあえて言ってしまえば、この「ゲッツ・ジルベルト」が存在しなかったなら、今日の世界でのボサノヴァ人気はありえないだろうし、そして僕もこの素晴らしい音楽ボサノヴァに出会っていなかったかも知れない。ならば、感謝を込めて乾杯しようではないか、この愛すべき偉大な不調和アルバム「ゲッツ・ジルベルト」のために!

臼田 道成(うすだ みちなり)

歌手。主にボサノヴァ、MPB を歌う。2002 年からリオ・デ・ジャネイロに滞在。現在、日本で日本で活躍中。
ホームページ http://www2.ocn.ne.jp/~argo


<ブラジル映画を楽しもう>
紙婚式(かみこんしき) Bodas de Papel
アメリカ映画でジョン・キューザックとケイト・ベッキンセイル主演で監督ピーター・チェルソムの『セレンディピティ 恋人達のニューヨーク』(2001年)という作品があります。デパートの手袋売り場で知り合った若い男女が「再会出来るかどうか」、運勢の実験ゲームを試みるのですが不運にもその日には再会できず、何年か後、偶然にも彼の結婚式をキャンセルした当日に出会うという話です。

心理学者ユングの「共時性」をテーマにしたこの映画は私たちの人生を考える上で非常に興味深いものがあります。「共時性」とは今現在、私達の時間と場というものが単一なのではなく、並行線上にもう一つ、あるいは二つ以上の時場があることを言います。例えば易占いには64 の答えがありますがその場とその時に受ける運命の答えは1 つ、即ち64 分の1 です(その他に63 の見えない答えが陰に隠れていることになります)。
さて、セレンディピティ(偶察能力)という言葉は作家のホレス・ウォルポール(英国の政治・小説家、1717 ~ 1797)が作った言葉で、「思わぬものを偶然に発見し、幸運を招き寄せる能力、即ち、偶然を幸運な発見に変える才能」をいいます。彼が読んだペルシャのおとぎ話『セレンディプ(スリランカの古い呼称)の三人の王子たち』から来ています。
王様から「竜退治」の課題を与えられた三人の賢い王子たちが旅をするのですが、日が経つにつれて彼らは新しい課題に遭遇し、また、新しい発見をしていきます。智慧と偶然により、求めていたのとは異なるものを見いだしたと言う、このような目的外の発見を、彼は「セレンディピティ」と名付けました。メーテルリンクの『青い鳥』もそうですね。求めていた「幸福の青い鳥」は夢の旅行中には捕らえて持ち帰ることが出来ませんでしたが、目的とは違った他のことを学ぶ事が出来ましたし、何よりも「隣人を幸せにする青い鳥」が身近に居ることを発見しましたね。
時として、人生には狙ったものよりも、その横にもっと面白い発見があるようです。キュリー夫人がラジウムを発見した偶然の経過もそうです。ノーベル賞の受賞者、江崎玲於奈はトランジスターの研究で不純物を取るのに懸命な中、彼は逆に不純物を入れて研究しました。その結果が「エザキ・ダイオード」を生む事になります。その様に「セレンディピティ」とはユングの「共時性」から見るならば平行線上に関係している隠れた類似課題がある時突如として表面化し重要性や価値性を帯びる事を言います。
さてアンドレ・ストゥルン監督の映画「紙婚式」はこの「セレンディピティ」とは一体何なのかを「感覚でもって理解するため」に出来た作品です。
ここ3 年間のカンディアス村は政府のダム建設工事の予定地として湖底に沈んで行く運命になっていました、しかしながら、その計画が中止され、以前の村に復元されるべく復興工事がなされることになります。もちろん、かつて住んでいた住民達も故郷に帰村しつつありました。
サンパウロ市に住む建築家アルゼンチン人のミゲール・レオン(ダリオ・グランディネッチ)はかつてのカンディアス村の住民だった老女セシリアの住居再建復旧工事の依頼を受けて自家用車で村にやって来ました。しかしながら、客のセシリアが未だ到着せず、その村に一泊して待機することになります。夜になって雨が降り出しホテルの看板を見てドアを叩きますが、宿主のニーナ(エレーナ・ラナルディ)という女性が現れ、ホテルは修復中であり、開店は半年先であることを告げます。ミゲールは仕方なく車の中で寝ることを決意します。次の夜もそのホテルの前で車中に居眠りしようとしたミゲールに、ニーナがブドウ酒を持参して車中に同席し乾杯します。それを期に2 人は親密な恋人関係になります(セレンディピティ)。
さてニーナは幼少の時からお伽話と神話が大好きな祖父に育てられました。セレンディピティの話もこの育ち盛りの時にこの故郷カンディアス村で祖父から聞かされていたのでした(このセレンディピティの話は私たちに寛大なる勇気と希望を与えてくれます。どのような道に進もうともその道に必ずや価値あるチャンスが含まれているという確信なのですから・・・)。
ミゲールはサンパウロ市とカンディアス村を掛け持っての大仕事が始まり、カンディアス村にてはニーナのホテルにお伽住まいをしていました。ニーナはホテル開きを前にして多忙な毎日を過ごしていましたがミゲールをこよなく愛していました。
ミゲールが最後にサンパウロ市から村に帰った時、それがちょうど彼らの同居が始まって1 年目でした。ニーナとミゲールがブドウ酒を用意してこの紙婚式を祝ったのでした(そうです、1 年目の結婚記念日が紙婚式です)。
ミゲールが最後にサンパウロ市に行った後、ホテルの修復修理が完了します。そして、いよいよホテル開きの催しが盛大になされる記念すべき日がやって来ました。待ちに待ったこの日、開館記念日です。ところがニーナの夫となるべきミゲールは顔を見せなかったのです。
後日ニーナは新聞を見てびっくりします。ミゲールと彼の女友達が肩を並べて写っている写真が載っていたのです(ニーナはふと思います「ミゲールは彼女に乗りかえたのだ」と)。ミゲールの不出席をニーナは侮ったように言います「所詮、アルゼンチン人は裏切り者なのよ!(アルゼンチンとブラジル人の不仲を象徴しているようです!)」と。
数日たってのことサンパウロ市のミゲールの会社からニーナの親友アルナルドに電話が入ります。ホテル開きの日にミゲールが村の近くの街道でトラックに正面衝突され事故死したとの悲報だったのです。
 数日後ニーナに1 通の手紙が届きます(ミゲールからでした)。彼の死の前日にサンパウロ市内にて書いたのでした。その中には彼のニーナとの将来の関係と決意が愛調子でつづられていたのです・・・。


☆ 紙婚式(かみこんしき) Bodas de Papel (2006 年作品)
監督 André Sturm 出演Helena Ranaldi, Darío Grandinetti

文 佐藤 語 (さとう かたる)
映画によるアート・セラピスト



<陶芸の里クーニャCUNHA>
登り窯が作りだす絶妙の味わい
サンパウロ市から220 キロ、山間の静かな街クーニャは近年「陶芸の里」として多くの観光客をひきつけている。日本人の陶芸家のグループがこの町を訪れ最初の登り窯を造ったのが今から約30 年前。現在は若い世代を含めて十数軒のアトリエが集まっている。

登り窯の炎の世界


末永公子さんはクーニャで陶芸を始めたパイオニアの一人。末永さんの工房では主に暖かみのある日用品を中心に制作している。古くからの伝統的な方法で、ユーカリの薪の灰や籾がら灰などを釉薬に使い、登り窯で30 時間かけて焼き物を焼く。
「登り窯」とは斜面を利用し、窯口から焚いた炎と熱が、階段を上るように各部屋を上昇しながら焼き上げる窯のことである。
はるばるブラジルの地に根付いた日本式の「陶芸」と「登り窯」。窯開きは、その登り窯独特の炎の流れが作り出す絶妙な味わいを鑑賞する絶好の機会だ。末永さんの工房では7 月3 日(土)に窯開きが予定されている。




《傾斜面に段々状に築かれた登り窯。初めに長時間焚いて窯全体を暖める火袋、作品を詰めるいくつかの部屋、火を引っ張る煙突とで成り立っている》







《登り窯の炎が作り出す独特の美の世界》



岩風呂・木風呂でのんびり


静寂な山間の隠れ家のような雰囲気が漂うホテル・ファゼンダ上村。クーニャの街で陶芸を楽しんだ後、岩風呂・木風呂でのんびりとくつろぐ最高のひと時。畳の部屋も用意されている。大自然の中で食す「流しそうめん」も大人気だ。



☆クーニャ1 泊2 日ツアー
登り窯の見学+ ホテル・ファゼンダ上村宿泊
食事全食つき: R $440.00
お申し込み・お問い合わせは、サービス・グローバル Tel : (11) 3572 - 8999



<ブラジル美術の逸品>


【アドリアナ・ヴァレジョン 「セラカント・プロヴォカ・マレモト(シーラカンスが津波を引き起こす)」】
2008 年 油絵具、漆喰 110cm×110cm(パネル184 枚)イニョチン現代アートセンター蔵
Adriana Varejão “Celacanto Provoca Maremoto”Inhotim Centro de Arte Contemporânea
「ブラジル・バロックは、黄金と血、そして富と惨劇の錬金術がつくった」(アドリアナ・ヴァレジョン)



アドリアナ・ヴァレジョンは、アズレージョ(タイル)を題材に数々の作品を発表してきた。
まるでタイルの迷宮に迷い込んだ感を覚えさせる「Saunas e Banhos」シリーズ、あるいはタイルと血生臭い肉塊をあわせて描いた「Charques」や「Línguas e Cortes」シリーズのクールさとグロテスクさの対比は、見るものに居心地の悪さを与える。
それらの作品が与える、ときに強烈な、そしてときに繊細なインパクトをもってして彼女はいまやブラジル現代アート界のスターの一人に数えられ、世界から注目される存在となっている。
ここに紹介する作品『Celacanto Provoca Maremoto(シーラカンスが津波を引き起こす)』は、ミナスジェライス州のベロオリゾンテ近郊に位置するイニョチン現代アートセンターの、彼女の作品のみを展示するアドリアナ・ヴァレジョン館2階に常設展示される作品だ。
バロック模様のアズレージョを模して油絵具と漆喰で仕上げたパネルを、ランダムに配置することによって、ポルトガル人航海士が渡った大洋の荒波と、航海の末にバロック様式とともにブラジルに及んだカオスを彷彿させるヴィジョンを見せてくれる。そもそもアズレージョは、ブラジルには旧宗主国ポルトガルから伝来したものだ。我々日本人が銭湯や古い和式便所をタイルから連想するのとは異なり、ブラジルの知識人にとってアズレージョとは、今にまで影響を色濃く残す植民地時代を彷彿させる要素なのだ。ヴァレジョンの作品を鑑賞するにつけ、いかに植民地時代を批判、否定しようとも決してその影から逃れられることのできないブラジルの文化的アイデンティティのもがきを見る思いがする。
ヴァレジョンがアズレージョをテーマに作品をつくるきっかけとなったのは、ブラジル・バロックの故郷オウロ・プレットを訪ねたことだったという。古い教会の絵画や彫刻からエクスタシーを感じるほどのショックとインスピレーションを受け、それらのバロック芸術に、黄金と血、そして富と惨劇という、相反していながら切り離すことのできない要素を見て取り、自らの創作の糧としたのだという。
パネルは一枚が110cm × 110cm で、古さを表現するために、ところにより、表面の陶器質が剥離し、亀裂が入ったように作られていて、細部へのこだわりを感じる。展示室の四辺いっぱいに184 枚のパネルが張られ、それに囲まれた迫力は圧巻だ。

★アドリアナ・ヴァレジョン(1964-)
リオ・デ・ジャネイロ生まれ、同地在住。1988 年以降、国内外で作品発表を行う。ヴェネツィア・ビエンナーレなど世界的なアート展・美術館での出展を経て、作品はテートモダン、MoMA、グーゲンハイム、カルティエ現在美術財団など世界的なアートの権威が収蔵している。日本では2007 年に原美術館で個展を開催。2008 年にはイニョチン現代アートセンターにアドリアナ・ヴァレジョン館がオープン。いま最も世界が注目するブラジル人アーティストの一人だ。


文・写真 仁尾帯刀


<摩訶不思議なブラジル経済>
金利上昇へ
以前からコメントしてきたことだが、ついに金利上昇局面に入った。3 月の政策審議会(COPOM)で政策金利(SELIC) を0.75%引き上げ年9.5%とすることを決定した。マーケットの予想では年末までに12%まで上昇するとの見方が一般的である。ブラジルのインフレ率(IPCA) は1 月/ 2 月/ 3 月/4 月は各々0.75% / 0.78% / 0.52% / 0.57%と4 ヶ月で2.65%と昨年同期比(2009 年は4 ヶ月で計1.72%)を大きく上回る数値となっているのが主な要因である。この政策金利の引き上げと同時にブラジル中銀は法定支払準備率(Depóisto Compulsório)の引き上げを行っている。

法定支払準備率の変更は中央銀行の金融政策の中で政策金利(SELIC) の操作と同様に一般的であるが我々庶民には直接は見えないので馴染みが薄い。簡単に説明すると、民間銀行が預金を受け入れ、その預金の種類に応じた利率で中央銀行の当座預金口座に資金を積み立てる必要がある。今回ブラジルでは普通預金(Conta Corrente)に関しては47%の準備率を50%に引き上げている。何が起こるかというと、仮に銀行に100 億レアルの預金があり、47 億レアルを中銀に預け、53 億レアルを貸出に使っていたとする。これが、今回50%に引き上げられると、中銀に追加で3 億レアル積み立てる必要があり、それには他の資金調達が出来なければ3 億ドル貸出を返済してもらう必要が出てくる。つまり、銀行の貸出余力を抑えることなり、これで経済の過熱にブレーキをかける仕組みとなる。
では、今回これがいかに変更されたかと言うと、上記の通り、Conta Corrente に関しては47%から50%へ、CDB に関しては17.5%から23%へ、Poupança に関しては30%であるがこれについては変更無しである。中銀の試算では710 億レアルが追加で中銀に積み立てられることになるとのことである。つまり、民間銀行は貸出を減らすか新たに資金を調達する必要があるのである。
さて、この支払準備率の変更で何が起こっているかというと、CDB の金利が上がっているとのことである。民間銀行は支払準備率の変更によって、更なる資金調達が必要になりCDB の金利を上げ魅力的にすることで投資家から資金を集めようとしている。そして、これが企業活動にも影響を与えている。実際にあった話であるが、ある企業は金利DI+1.4%の社債の発行を予定し準備していたが、投資家はCDB へ資金を振り向ける方が得であるとの判断があり、結局その企業はDI + 1.7%で社債を発行することになってしまった。企業としては政策金利SELIC に連動しているDI の上昇に加えて金利マージンも上昇するというダブルパンチで資金調達コストが上昇している。
さて、我々庶民にとっての関心事、「どこにお金を持っていけば良いか」であるが、Poupança とDI リンクのFundo と比べて見ると、DI リンクのFundo の管理費率(TAXA DE Administração)及び投資期間次第であるようだ。ご存知の通り、Poupança の特徴は管理費や所得税が掛からない一方でFundo は投資期間(例えば180 日以内に引出せば22.5%の税金が掛かる)によって所得税率が変更されるので長期間の投資であればFundo の方が魅力的になってきている。例えば1 万レアルを1年預け入れたとすると3%の管理率のFundo だと10,497.20 レアルになり、Poupança では10,648.5レアルとなり此方の方がお得である。一方で2%の管理費の場合はそのFundo の方がお得になる。また、先に述べたとおりCDB についても民間銀行は金利を上げているので確認してみて欲しい。
いずれにせよ金利が再び上昇開始した。世界ではギリシャを発信源とする金融不安があり、これが今後スペイン・ポルトガルへ飛び火するか沈静するかで、世界の金融マーケットに大きく影響を与えると予想され、先般ニューヨークの株式市場で、原因は現時点では不明だが異常な動きも見た通り、ボラティリティーが上がっている。ブラジルも少なからず影響を受けるだろう。


文 加山 雄二郎(かやま ゆうじろう)
大学研究員。




<ブラジル社会レポート>
たぶん少子化なんて訪れない? ブラジル
「どう、美味しかった?」。料理好きの女性(男性でもいいですが)とお付き合いしたり、縁あって結ばれた人なら、こんな言葉のひとつは聞いたことがあるでしょう。もちろん、「今日のはイマイチ」などと答えてはいけません。なぜなら、このような質問をする人は、別に真実が知りたいのではないのです。美味しいかどうかはともかく(というよりこれは大前提で)、むしろ料理シンパであることを確認するのが目的なのです。言い換えれば、「アナタは私の料理ファンよね!」という確認です。

ブラジルに暮らしはじめてブラジル人と知己を得ると、決まって似た質問をされます。「どう、ブラジルを気に入った?」と。あまりにも頻繁に、それこそ、「はじめまして」と挨拶するのとほとんど同じぐらいの頻度で、この質問を浴びせかけられてうんざりした人も少なくないはず。この質問は料理同様、「ブラジル・ファン」、もっと知られた言い方をすれば「ブラキチ(ブラジル・きちがい)」を確認する作業。
そして、この「ブラジル・ファン」こそ、ブラジルの原動力なのです。
本誌の読者の方々の中にも、先ごろ実施された恩赦に伴う違法滞在の免責措置の恩恵を受けた方々がおられると思います。私が知る限り、90年と98 年、さらに今回の合計3 回、同様の措置が講じられています。10 年ごとに実施しているような感じでしょうか。

私がブラジルへ来てすぐに働き始めた会社はきわめて給料が安くて、まさに奴隷労働。支出削減のため、朝食にビタミーナ(バナナのミックスジュース)を飲み、昼食にバナナ・ナニカをパクつき、夕食はメインディッシュにバナナ・プラッタをソテーし、デザートにバナナ・マッサンを食べたこともありました。しかし、ここまで来ると喉を通りません。「ブラジルじゃ飢え死にするやつはいないよ。バナナを食ってりゃいいんだから」というジョークがありますが、「本当にバナナばかりだと、食欲が減退して飢え死にするよ」と、思った瞬間です。しかし下には下がいるもので、私よりも悲惨な境遇にある人が存在することを新聞報道で知りました。縫製工場の一室に寝泊りして働くボリビア人不法滞在者です。この問題が報道でクローズアップされるにつれ、不法滞在しながら働く人たちの境遇が不幸であるというだけでなく、彼らがブラジル人の職を奪っている、という批判も沸き起こってきたのです。そして98 年、不法滞在する外国人への恩赦が実施されました。

政府にとっては、この恩赦は困難な境遇に陥っている外国人の救済(言い換えれば、技能のある外国人に対して働く機会を提供する)ということに加え、職を奪われているあるいは非正規労働者の台頭に伴って賃金の実質的な値下げ圧力にさらされているブラジル人の救済(単純労働に従事するブラジル人と外国人の条件を揃えて労働市場の競争を適正化する)という、ふたつの側面があります。経済的にも、非正規労働者を正規労働者化するわけですから、所得税などにも波及効果が期待できるはずです。
98 年の恩赦の際には、「後続移民が途絶えて活力が衰えた」などと言われた日系の(コミュニティーではなく)社会でも、例えば私が当時勤めていた新聞社では、日本から来た若い記者が増えて活気付きました。つまり社会という観点から見ても、出稼ぎでブラジルへやってきた外国人は働き盛りであることが多いはず。その彼らをアングラ経済から救済して社会に包含することで、経済と社会の担い手の増加が期待できます。ただ、そのためにはひとつの、決定的に重要な要素が不可欠。それが、「ブラジルが好きな人」なら受け入れるというルールです。
ブラジル国民って何でしょう。特定の人種ではありませんし、特定の文化を背負っている人でもありません。結局のところ、ブラジル国民であることとは、この国が好きかどうかです。だから、ブラジルが好きな外国人には、何かの機会を利用して生活のチャンスを与える。そして、彼らとその子孫が貢献してくれることを期待する。それがまた、この国の魅力となり、活力となって未来を開いてくれるのです。「外国人に地方参政権を与えるかどうか」や、「住民票のある人に子供がいれば国籍を問わず手当てを支給する」などという方法より、ずっとスマートな「外国人のファン獲得方法」です。そしてファンを獲得するためには、国にも魅力が必要。だからこそ、磨きをかけるために自ら問い続けるのです。「あなたは、ブラジルのどこが気に入りましたか?」と。仲間として受け入れてもらうためのファーストステップと思えば、このうんざりするような質問も気に障らなくなるものです。





文 美代賢志 (みよ けんじ)
ニュース速報・データベース「B-side」運営。
HP : http://b-side.brasilforum.com


<クラッキ列伝>
第11回カレッカ
歴史に「たられば」はありえない。サッカーの世界でも同様だ。ただ、意味のない妄想をご寛容いただける読者にはその身を24 年前に置いていただきたい。

1982 年スペイン大会。ジーコやソークラテス、ファルカンら魅惑のタレントに満ちたブラジル代表は、大会の主役のはずだった。順調に12 年ぶりの優勝に向かっていたはずのセレソンだったが、引き分けでも準決勝進出が決まる王国は、この日のために生を受けたかのようなイタリア人FW パウロ・ロッシを引き立たせるための豪華な脇役だったことを思い知らされたのだ。
もし、テレ・サンターナ率いるブラジルにあのFW がいれば……。大会前の直前合宿で、「ハゲ」なる奇妙な登録名を持つ21歳のストライカーは、膝の関節炎で初の大舞台を棒に振ったのだ。
アントニオ・デ・オリヴェイラ・フィーリョなる長ったらしい名前でなく、カレッカとしてサッカー史にその名を刻みこんだ点取り屋は、1960年にサンパウロ州のアララクアラで誕生。ポンテ・プレッタでウイングとして活躍した父の後を追うようにボールを蹴り始めた少年アントニオは、幼少時のお気に入りだったピエロ、カレキーニャにちなみカレッカの愛称で呼ばれ続けることになる。
奇しくも父が所属した最大のライバルであるグアラニで17 歳にして頭角を現すと78 年にはインテリオールのクラブとしては初めてとなる全国選手権制覇に貢献。83 年からはサンパウロでエースとしてゴールを量産した。
マタドール( 闘牛士) の愛称を持つFW は数あれど、華麗な舞を見せながら相手ゴールにシュートという名の剣を刺せる選手はカレッカらごくわずかのクラッキのみだった。
サンパウロそしてマラドーナとコンビを組んだナポリのいずれでもゴールを量産してきたが、不幸にもW 杯にだけは縁がなかった。準々決勝フランスとのPK 戦で涙を飲んだ86 年メキシコ大会に続いて、90 年イタリア大会では僚友マラドーナ率いる宿敵アルゼンチンの前に無念の敗退。24 年ぶりの栄冠を手にする94 年W 杯の前年に代表を引退し、セレソンでの世界一は味わえずに現役を退いている。
ロナウドやロマーリオらとは異なり王国を世界一に導けなかった不運のストライカー。ただ、ブラジルでそしてイタリアで残してきた数々のゴラッソ( スーパーゴール) が決して色あせることはない。
この男のポリシーは「美しくないゴールなんてダメさ」。道化師に憧れた少年は、いつしか自らの両足から放たれる芸術的な得点で、多くのサポーターに笑顔をもたらしていた。

文 下薗 昌記 (しもぞの まさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002 年にブラジルに「サッカー移住」。約4 年間で南米各国で400 を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などに執筆する。現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


<ワールドカップブラジル代表の顔ぶれ>
南アフリカで、史上最多となる6 度目の優勝を目指すブラジル代表メンバーが発表された。23 人のメンバーには

さしたるサプライズはなく、指揮官はあくまでも華麗さより勝利だけを追求するつもりだ。その成否は史上初の
開催地となるアフリカ大陸で明らかになる。


5 月11 日午後、リオデジャネイロのホテル内のモニターに次々と代表選手が映し出されていく。ジュリオ・セーザル、ルッシオ、カカーらお馴染みの顔ぶれのサプライズはなかったが、数少ない驚きは23 人目に発表されたグラフィッチ程度にとどまった。
2006 年の就任以来「セレソンにスターはいない。他ならぬセレソンこそがスターなのだ」を口癖にしてきたドゥンガ。世界最高の攻撃力を持つ右SB ダニエウ・アウヴェス( バルセロナ) でなく、あえて守備力のあるマイコン( インテル) を起用していることに代表されるように、そのポリシーには現役時代同様、勝利だけが最優先で反映されることになる。
確かに運にも救われた局面はあったもののコパアメリカ優勝、首位での南米予選通過、そして昨年のコンフェデ杯優勝といずれでも結果を残してきた勝負強さはさすがの一言。含めて先日の欧州チャンピオンズリーグで圧巻の守備力を見せて制覇したインテルの守備陣でレギュラーを張る十リオ・バチスタ、ルッシオ、マイ コンを擁するブラジルは現実主義的な指揮官の下、堅守速攻のスタイルを築き上げた。
予備メンバーには入ったもののロナウジーニョやガンソらのような王国の香りを醸し出す選手は、ドゥンガが求める23 人の中に居場所がなかったということだ。
時に盲目的な国民はさておき、多くのセレソンOBや識者らが求めたガンソとネイマールらには目もくれず、一部からは「ボランチだらけ」と酷評されるような顔ぶれが並ぶ今回のセレソン。仮に優勝を逃すことがあれば、歴代のどの監督よりもその罪は厳しく糾弾されることになるのは間違いない。
そして前人未到のエクサ(6 度目) のキーマンには早くも不安要素が付きまとう。3 度目の大会で、背番号10 を背負うエース、カカー。堅守速攻を体現しうる大黒柱は今季、恥骨や左足の負傷などで所属クラブのレアル・マドリーでも満足なプレーを披露していない。「コパアメリカや予選の一部でもカカー不在だった」( ドゥンガ)。指揮官は強がるが、誰もが指摘するカカーの代役を務めうる選手は皮肉にも予備登録のロナウジーニョとガンソのみであるのが現状だ。
国民の多くが求める華麗さも、自国開催の4 年後に向けた若手の登用もなき今回の招集メンバー。優勝以外に選択肢がない選考を貫き退路を断った指揮官の気概が「ファミリア・ドゥンガ( ドゥンガ一家)」として世界一をもぎ取りに行く。











文 下薗 昌記 (しもぞの まさき)

<手軽にご馳走>
イワシの柔らか煮
美味しそうなイワシが出回るようになりました。イワシを食べる時、案外気になるのが小骨です。のどに引っかかりそうになることもありますね。今回は圧力鍋で軟らかく煮込むので、そういった小骨も気にならず、丸ごと食べることができます。味付けのベースとなっているのは味噌ですが、隠し味に醤油、甘みととろみ付けにトマトケチャップを使うとろこがミソです。日持ちするので、1 週間ぐらいは食べられます。


「作り方」
①イワシは、うろこ、あたま、内臓、しっぽをとってよく洗い、ざるに上げて水気を切る。
②圧力鍋に材料の2から8までを入れて混ぜ、イワシを並べてふたをして、火にかける。
③最初強火で、5 分ほどしてシュッシュッと音がし始めたら中火に落とし、45 分で火を止め、そのまま10 分間放置する。ふたを開け、煮汁が多いようなら、ふたを取ったまま火にかけ、水分を飛ばす。

材 料(4 人分)


1. イワシ・・・1kg(約12 匹)
2. 味噌・・・・大さじ2
3. 醤油・・・・大さじ1
4. トマトケチャップ・・・大さじ2
5. みりん・・・100cc
6. 水・・・・800cc
7. しょうが・・・薄切りを5 枚
8. 赤唐辛子・・・1 本(好みで)


文 高山 儀子(たかやま のりこ)
青森県出身。和風の手を加えたブラジル料理が得意。
1996 年〜97 年にかけて、日伯毎日新聞に” 味のさんぽみち” を連載。



<ピアーダで学ぶブラジル>



<開業医のひとりごと>
今月のひとりごと:
『メタボは怖いぞ。毎日呪文のように唱えないと、なるぞ。』
前号で進化医学と生活習慣病についてお話しました。つまり、人類の進化における過程でカロリー源の認識能力やそれらの蓄積能力などが携わったわけですが、現代の生活環境においてはその能力が裏目に出て、生活習慣病になってしまう説です。いわゆる生活習慣病は最近ではメタボリックシンドローム、略してメタボと呼称されるようになりました。今回はメタボのひとりごとです。


『間違いなく現代の我々の生活環境と代謝能力はマッチしていないな。メタボは早い話、カロリー摂りすぎ症候群なのだな。それで脂肪が腹に蓄積される。で、その状態は高血圧、糖尿病、高脂血などになりやすいのだな。日本では40 才以上の男性の半数弱がメタボになっている・なりかかっているため、今大騒ぎをしているが、これはなにも日本の政府が読者個人の健康を心配しているわけではない。
試算では40 才時点でメタボ罹患者は悪名高き後期高齢者になった75 才時点で非罹患者と比較して10 倍から15 倍医療費がかかる。つまり、このままこの人口が後期高齢者になった時に医療費の予算がパンクするのが目に見えているからなのだな。でも予算があっても罹患しないほうが良いぞ。それだけ医療費がかかるということは、それだけ病気になることを意味しているから。さらに悪いことに、コロッと逝ってしまう病気ではなく、ジワジワ故障していくから20 〜30 年いろいろ制限のある生活をすることになってつらいぞ(註1)。
人間がどれだけ金持ちになっても一日に食べられる量が上限がある。そのため、工業先進国になるほど、食糧業界は商品に付加価値を付けるため一定量の中にできるだけカロリーを詰め込むことをする訳だな。これでカロリー余剰社会のできあがりだな。だから、我々のまわりにある食べ物はよほど注意して口にしないといけない(註2)。いとも簡単にカロリー摂りすぎになる。』

号外:「今年のインフルエンザウイルス予防接種は迷走が続く」
まだ5 月下旬の時点でもメーカー在庫がありません。一部民間で入ったところは大騒ぎのうちあっという間に無くなったもようです。行政の接種も6 月2 日まで延期され、子供は5 才まで拡張されました。引き続き「現在行政が実施している予防接種を受けた方が良い」と考えられます。特設サイトを作りましたのでご参照ください(註3)。


註1 糖尿病+高血圧+高脂血症の典型的な合併症は血管障害=心筋梗塞、脳血管発作、腎不全、失明など。
註2 内容に注意。量に注意。質に注意。食べ方に注意。
註3 http://web.me.com/caju6/2010InfluenzaAtSaoPaulo


秋山 一誠 (あきやまかずせい)。
サンパウロで開業(一般内科、予防医学科)。
この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@oriente.med.br までどうぞ。

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