2010年9月14日火曜日

ピンドラーマ2010年8月号(その1)

ピンドラーマ2010年9月号(vol.51)すでに発行・配布済みですので、先月号(8月号vol.50)の内容をアップします。
弊社のホームページを刷新しましたので、ぜひご覧下さい。
http://www.editorakojiro.com

(川原崎)





<移民の肖像>

【シベリア抑留経験者の谷口範之(たにぐち・のりゆき)さん】


「何を今さら、という感じ」―。2010年6月16日、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)案が、日本の衆院本会議で可決され、元抑留者への特別給付金支給が実現することになった。このことについて、サンパウロ市在住の
谷口範之さん(85、広島県出身)は、低い声で冒頭の言葉を呟いた。
旧満州北西部でのソ連軍との戦闘後、捕虜としてシベリアに約1年3か月間抑留された経験を持つ
谷口んは、広島市内の旧制中学を繰上げて卒業した後、先輩のつてなどで単身17歳で満州の新京へ。同地の「満州電信電話株式会社」に事務員として入社した。
1945年3月、関東軍の第119師団歩兵第254連隊第3機関銃中隊に入隊。満州北西部の大興安寧山脈の海抜1800メートル地帯に設営された免渡河(めんとか)に駐屯した。同地の一個連隊は約3千人。中隊には約200人が所属し、同期は約40人が一緒だったという。
「1944年の10月前後には、関東軍は主力部隊を南方に移していました。今から思えば我々は、その穴埋めのためにソ連国境へと配備され、捕虜になるために行ったようなものでした」
45年8月、ソ連軍は満州に侵攻を開始。同月6日未明に本隊からの命令により、免渡河から約80キロ離れた伊列克図(いれくと)へ移動。同月13日、
谷口さんが所属していた第3機関銃中隊に出撃命令が出され、伊列克図の西丘陵部先端に広がる台地に配備された。
翌14日午前9時頃、西方面の地平線からソ連軍の戦車が姿を現した。自軍の砲弾が戦車に直撃したが、よどみもなく前進を続ける戦車群を目の当たりにし、「どうにもならない」との気持ちが
谷口さんの心を支配した。
「頭の上を砲弾が飛び交い、本当に恐ろしかった」と
谷口さんは、当時の様子を生々しく振り返る。
同月18日、壊滅状態の中で最後の出撃命令が下り、「生きては帰れない」と覚悟を決めた際、「終戦」の報が届いた。鉄道駅近くで武装解除となったが、3千人いた一個連隊は、半数近くに減っていたという。
45年9月2日、博克国(ぶはと)の陸軍病院跡に一時的に収容されていた
谷口さんたちは、日本軍の佐官とともに壇上に立ったソ連軍の将校から、捕虜たちが汽車に乗って日本に帰れるということを説明された。誰もが日本に戻れると思っていたが、日本に帰れないと気付いたのは翌朝、太陽が汽車の前方ではなく、後方の東側から昇ってきた時だった。
「騙されたと思い、絶望的な気持ちになりましたよ」
谷口さんたちが抑留されたラーゲリ(収容所)は、チタ州モルドイ村。北緯50度、東経111度、海抜3000メートルの僻地だったが、火力発電所があり、その付近には発電所用の炭鉱もあったという。
収容所では朝晩2回、塩汁だけの食事が続き、数日後に高粱(こうりゃん)の実が50粒ほど塩汁の中に入れたものが出されたが、腹には溜まらなかった。
空腹の上、極寒の地での強制労働を課せられた。作業内容は、発電所用貯水池のための土手の嵩(かさ)上げで、ツルハシやスコップなどで凍った地面を掘るのだが刃が立たない。防寒帽、防寒大手套(だいしゅとう)などの防寒具を与えられたものの捕虜たちは夏服のため、寒さと重労働で日本兵たちは次々に倒れていった。モルドイに収容されたのは当初、約620人だったが、そのうちの約260人が亡くなり、遺体の山が積まれたという。
収容所の身体検査により、体力が低下していると判断された
谷口さんはシベリアの各収容所を転々と移動させられた後、46年の12月、夢にまで見た日本に帰れることになった。北朝鮮の元山(げんさん)から船に乗り、翌47年1月9日に長崎県佐世保港に着いた。
「大陸を移動中は、どこを通っているのか分らず、再びシベリアに戻されるのではないかと日本に帰れることを本気にはしていなかったが、日本に着いた時には言葉では表せなかった。本当に感無量でしたよ」と
谷口さん。数多くの同志たちがシベリアで亡くなった中、生きて帰れたことに複雑な思いを持っていた。
故郷の広島に戻り、戦後満州から引き揚げた節子夫人と24歳で結婚した
谷口さんは、57年に家族で渡伯。アマゾンのグァマ移住地に入植した。その後、サンパウロ州ピエダーデなどでの農業生活を経て、現在はサンパウロ市に住んでおり、92年5月末には「シベリア墓参団」の一員としてモルドイの地を再び踏みしめた。谷口さんの自宅には、モルドイを再訪問した時の写真が今も飾られている。

松本 浩治(まつもと こうじ) 在伯14 年。
HPサイト「マツモトコージ写真館」
http://www.100nen.com.br/ja/matsumoto/



<ブラジル面白ニュース>
躍進するブラジル、こんなことで世界第3 位!

経済成長著しく、BRICs の一員として世界的に着実に存在感を増し続けているブラジルですが、こんなことでも世界で3 番目に入ってます。

#「Qualidade de Morte」
ブラジルが世界で3 番目になったのは、エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)というイギリスの国際経済誌「The Economist」の企業間事業部門で、世界の政治・経済に関する詳細な分析、予測やデータを提供する調査・コンサルタント会社が行った「死に際の品質ランキング」。経済協力開発機構(OECD)加盟30 か国とその他10 か国の医師・専門家などを対象に、死に際における保健医療システム、コスト、文化的障壁、鎮痛剤の使用などの統計から順位をつけたものです。
 でも、「世界40 カ国中、第3 位だなんてブラジルも大したものだ」と思ってよく読んでみたら・・・3 番は3 番でも、ワースト3 位でした(苦笑)

#40 か国中、38 位
 「死に際の品質ランキング」のトップに君臨するのは、終末期医療サポートやホスピス間のネットワークが充実している点が評価されたイギリス。オーストラリアとともに、7.9 ポイントを獲得しました。
 そして、“ ベスト” から数えた3 位は、ニュージーランドで7.7 ポイント。その他の先進国では、アメリカが6.2 ポイントで9 位でした。
 一方、ブラジルはたったの2.2 ポイントで38 位。
ブラジルよりポイントが低い国はウガンダ(2.1)とインド(1.9)だけでした。新興国の中国は2.3ポイント、メキシコも2.7 ポイントでブラジルより上位についています。

#老後はどの国へ?
 EIU いわく、先進国のなかには、保健医療システムが充実していても、終末期の患者に対して痛みや恐れを緩和するケアが充実していないなど、死に際の品質が悪い国があるとか。確かに、「死に際品質ランキング」で福祉に手厚いイメージのあるデンマークが22 位、イタリアが24 位、国際社会で頭角を現して久しい韓国が32 位というのは驚きでした。イギリスは保健医療システムはそれほど最新的ではないものの、この緩和ケアに対するトレーニングや鎮痛剤の使用、医者と患者の間の透明性などがポイントアップの理由として挙げられています。
 ちなみに、日本は23 位。「老後は日本へ再移住!」なんて考えていましたが、28 位というのは、もの凄くいい医療が受けられるという訳でもなさそうな・・・。うむ、もう少し検討してみた方がいいような気がしてきましたよ。

門脇 さおり 島根県出身。会社員。2 児の母。



<移民レポート>ナイジェリア編

 サンパウロ市のセントロ地区に立つ一棟のビルに入ると、表通りに比べて肌の黒い人々の出入りする割合が多いことに気づく。彼らと一緒にエレベーターに乗り込み階上のフロアに降り立つと、アフロ・ブラジルの空気とは微妙に違い、聞こえてくる言葉もポルトガル語だけではなく、英語や聞き馴染みのない言語を話す人々が行き交う。ここには小さなアフリカン・コミュニティーが形成されており、ブラジル人に混じってナイジェリアなどのアフリカ出身者が集まってくる。

◆アフリカ人の集まるビル

Rua 24 de maio,116 のビル内には、ナイジェリア人をはじめ、ブラジル人やアフリカ人が経営する商店や美容室などが雑居する。
 各階のフロアやギャラリーでアフリカ人同士が出会わすと、ポルトガル語、フランス語、英語、さらにイボ語やヨルバ語などアフリカ土着の言語が入り混じった会話が飛び交う。ナイジェリア出身者の場合、母語の民族語が違えば、英語での会話が便利というのは本国でもブラジルでも変わらない。

◆ナイジェリア映画界のホープが来伯!

ナイジェリアの映画製作本数はインドに続いて世界第二位といわれる。2008 年にはナイジェリア映画界NOLLY WOOD のホープであるDesmond Elliotがブラジルで新作映画『Brasilian Deals』(2009 年公開) を撮影するために来伯し、ブラジルのナイジェリアン・コミュニティーの話題をさらった。
 ナイジェリア人が経営する雑居ビル内の食料雑貨店では、ナイジェリアのDVD が多数販売されている。DVD の他にもナイジェリア料理で使われる様々な食材や燻製ダラ、日本食で利用する煮干し( ナイジェリア料理で使う) なども販売されている。ビタコラというナイジェリアで一般的な種子も売られ、咳止めや胃の調子を良くする効果があり、ブラジルでもナイジェリア人は民間薬としてよく利用する。

◆ナイジェリア料理の食べられるレストラン
 アフリカ料理レストラン『MAMA』は、ナイジェリア人のジェームス・オケレケさん( イモ州オグタ出身) がオーナー兼シェフを務める。ジェームスさんはナイジェリアでもレストランを経営しており、1993 年に海外生活に憧れブラジルに渡り、2008年に『MAMA』をオープンした。
 『MAMA』には昼食や夕食時になるとナイジェリア人をはじめとするアフリカ出身者が多く訪れる。ナイジェリア人のお客さんはとても礼儀正しく、キリスト教徒の場合は食事の前に十字を切ってお祈りし、帰り際にはレストランに居合わせたお客さんやオーナーに対してあいさつを交わす。とても謙遜した物腰が印象に残る。
 ナイジェリア料理を代表するエグシーほか、主食のフフー、肉料理のセサラ、臓物料理のオックロ、魚のスープ料理など、日替わりでアフリカ料理が用意される。どの料理も唐辛子の辛さがアクセントで、フフーと食べ合わせるとマイルドな味わいに変化する。
 米と小麦を火にかけながら練った餅のような主食のフフーは、手で適当な大きさにちぎってこね、うま味のあるソースをつけながら食べられる。指先を使う食事のため、料理の横には水の入ったフィンガーボウルが添えられる。

◆近年、ブラジルに渡ったナイジェリア人について

【留学生グループ】
 ブラジルのナイジェリア移民の状況について、ブラジル・ナイジェリアン・コミュニティー代表のチブゾー・T・ンワイケCHIBUZOR T. NWAIKE さん(50歳) に話をうかがった。
 チブゾーさんは「近年、ブラジルでのナイジェリア移民が増えたのは、ここ10 年から15 年くらいのことです」と説明する。それ以前、ブラジルに渡ってきたナイジェリア人は主に留学生で、チブゾーさんも留学生の一人として28 年前にブラジルに渡った。
 ナイジェリアから最初の留学生グループがブラジルを訪れたのは1977 ~ 78 年ごろのことで、以後、毎年数名のナイジェリア人留学生がブラジルに渡り、これまで大学卒業後にブラジルで定住した者も少なくない。留学生だったナイジェリア人はブラジルで起業する人や、医師(12 人)、建築家(6 人)、弁護士(4 人)、薬剤師(2 人)、理工系の技術者(4 人)などとして活躍するなど、確実にブラジルでの生活基盤を築き上げている。
 チブゾーさんはナイジェリアのイモ州ムバノMBANO 出身。ナイジェリアの公用語は英語で、生まれ故郷の民族語はイボ語である。
 ナイジェリアで高校を卒業した後、国家機関で働きながら、22 歳の時にブラジルへ留学する機会を得た。当時のナイジェリアでは無償で留学させてくれるアメリカ大陸の国はブラジルのみだった。チブゾーさんはブラジルの奨学金を得てナイジェリア人留学生として受け入れられた。
 ブラジルに来たばかりの時はポルトガル語の壁にぶつかったが、サンパウロ大学で外国人のためのポルトガル語講座を受け、その後ジュイス・デ・フォーラ大学(MG) やモジダスクルーゼス大学(SP) で法学を学び、現在では仕事にも支障なくポルトガル語を使いこなす。
 大学卒業後、サンパウロで美容化粧品会社を興し、黒人向けの化粧用品を生産するほか、海外から輸入する仕事なども手がけている。「ブラジルではアフロ向けの化粧品市場は裾野が広いと思います」と、化粧品業界に参入したきっかけを話してくれた。現在はブラジル人女性と結婚して9 歳と11 歳の子どもがいる。
 チブゾーさんにナイジェリア移民に関して訊ねてみた。
Q. ブラジルとナイジェリアに違いはありますか?
チブゾーさん(以下C.)特に目立った違いは女性の服装です。ブラジル女性の服装はかなりオープンですが、ナイジェリア女性は肌の露出度が少ないです。
Q. ナイジェリア移民は子どもの教育に何を重視していますか?
C. ブラジルに暮らすナイジェリア人の子どもは主にポルトガル語を話し、ナイジェリアの文化に触れる機会も少ないです。でも、子どもたちはまず人として大切なこと、真面目に生きることや人を尊敬することなどをしっかりと身につけるべきです。ナイジェリアと比べるとブラジルでは両親に敬意を表すような子育てが少なく感じます。例えば、ナイジェリアでは両親に対して朝晩の礼儀正しい態度でのあいさつは欠かせません。
Q. ナイジェリア・コミュニティーの目的は?
C. ブラジルに暮らすナイジェリア人は個々に生活していますが、同じルーツを持つ者が集まってナイジェリア文化を発信することなどを通じて、まとまっていければと願っています。そのため、ナイジェリアン・コミュニティーの事務所もナイジェリア人の多く生活するセントロ地区に置いています。サンパウロ初のナイジェリア文化のイベントを開催することも考えており、ナイジェリアの様々な文化を紹介したいと思っています。

【近年の傾向】
 近年、ブラジルに渡ったナイジェリア移民は、サンパウロを中心に約2000 人がいると推定されている。不法滞在者として留まる者も少なくなかったが、2009 年の恩赦によって、多くのナイジェリア人が永住権を獲得した。移住の動機は海外生活への憧れや夢、冒険心が大きいという。
 ナイジェリア移民は郷里の公用語である英語や母語(民族語)とポルトガル語の違いから、ブラジルに来たばかりのころはコミュニケーションに困難を感じるという。新移民は心のより所を求めて、ナイジェリア人が多く集まるサンパウロのセントロ地区などで生活をスタートさせ、様々な仕事に従事してきた。小規模ながら、美容室やレストラン、ナイジェリアの食料雑貨店、服屋など、個人で店を営業する者も目立つ。
 キングスKINGS IKECHUKWN さん(43 歳) は現在、Rua 24 de maio のビル内で化粧品を販売している。ナイジェリアの首都ラゴス出身で、民族語はイボ語である。ナイジェリアでは機械工であり、化粧品店も営んでいた。約8 年前に海外生活を夢見てブラジルに渡ったが、ブラジルに到着するや持参金は瞬く間になくなり、言葉の壁にもぶち当たった。当初は生活できないような状況も訪れたが、ブラジル人の人情に触れ( 大変な時に食事や食材を提供してもらうなど)、ブラジルで生きていく勇気を与えられたという。
 約4 年前には既に結婚していた妻のヘレンさんもサンパウロに呼び寄せ、小さな化粧品店を開いた。最初に店を構えたリオブランコ大通りの店舗では、開店して間もなく強盗に襲われ全て商品を持ち去られてしまった。その後、心機一転して現在の場所で店を開き、地道に営業を続けている。土日は家族との時間を大切にし、日曜には信仰するキリスト教会のミサに通う。

◎インフォメーション
・アフリカ料理レストラン『MAMA』
Rua 24 de Maio,116 -2°andar -Cj. 24 e 25 - Centro
tel : 8589 - 9553
・アフリカの民芸品店『Mãe África』
経営者の一人がナイジェリア人というアフリカン・テーストのお洒落なショップ。ナイジェリアの伝統民族衣装から現代風にアレンジされたお洒落なデザインの服、アクセサリー、アフリカから直輸入された民芸品、CD、本など、見ているだけでも楽しい。
【República 店】
Pça da República ,137 - Centro - São Paulo 
tel : 3231 - 4480
( 月~金: 9 時~ 20 時、土・日:11 時~ 17 時)
参照サイトhttp://www.maeafrica.net/pg2.htm
《注》ナイジェリア人のコミュニティーでは、無断の写真撮影は厳禁です(ナイジェリアの習慣に敬意を払うため)。

企画: ピンドラーマ編集部 
文・写真: おおうらともこ



<ブラジルの鉄人たち>
日本で活躍する演歌歌手 ホベルト・カザノバさん
ROBERTO CASANOVA


今年3 月6 日、ブラジル人のホベルト・カザノバさんが南国らしい明るい話題を日本全国に届けることになりました。「NHK のど自慢チャンピオン大会」に出場し、五木ひろしの『契り』を熱唱して見事全国優勝を果たしたというものです。チャンピオン大会の出場前と優勝後には、グローボ局の人気番組ファンタスチコでもホベルトさんのドキュメンタリーが報道されました。
現在は日本の静岡県を拠点に生活しているホベルトさん家族ですが、ブラジルの有名司会者Luciano Huck氏の番組「Caldeirão do Huck 」で有望新人歌手として紹介されるため、その収録で5 月4 日から7 月24日までサンパウロに滞在していました。ブラジル各地から公演依頼の声もかかり、7 月16 日にはリベルダージ地区の客家(ハッカ)センターで盛況の特別ショーも開催しました。

Pindorama( 以下P): ホベルトさんの生年月日と出生地は?
Roberto( 以下R): 昭和42(1967) 年6 月20 日生まれで43 歳になります。サンパウロ市出身です。
P : ホベルトさんの日本の歌との出会いを教えて下さい。
R : 若いころ、友人が日本の歌を歌っているのを聞いて最初にメロディーがとても気に入りました。その時の歌は『夏の終わりのハーモニー』でした。
P : 演歌のどこが魅力ですか?好きな演歌歌手は?
R : 日本人の心のルーツを感じることができ、音楽がとても美しいと思います。好きな演歌歌手は五木ひろしさんです。
P : これまでブラジルの日系社会の大会などでも受賞されていますが、簡単な経歴を教えて下さい。
R:1989 年にサンパウロ市のビラ・カホンで出場した日本人コミュニティーのブラジル歌謡協会の大会で初めて新人賞2 位を獲得しました。1996 年には大会の副賞で日本へ初めて4 日間旅行させてもらいました。その後、2001 年と2002年にブラジル歌謡協会全伯大会とサンパウロ州選抜カラオケ選手権で優勝しました。
P : 日本で暮らして4 年目になるとのことですが、きっかけとなった日本人の奥様との出会いは?
R : 2005 年末にサンパウロ市で妻の美香と知り合いました。彼女はボサノヴァ歌手で『コルコバード』を歌う姿がとても魅力的でした。彼女との結婚を機に2006 年に日本へ渡りました。
P : ブラジル人が演歌、日本人がボサノヴァを歌うことについては?
R : とても自然なことに感じます。今は妻にボサノヴァを教えてもらい、私が彼女に演歌を教えていますが、彼女は演歌の「こぶし」がとても難しいと話します。
P : 日本に渡ってからの生活は?
R : 生活のために工場で約3 年働いていましたが、不景気で約1 年前に解雇となりました。日本に渡った当初から夫婦であちこちのショーやイベントに出演し、歌手活動も行ってきました。
P : NHK の大会で優勝してから変化したことはありますか?ブラジルのご家族や友人の反応は?
R : 日本で通りを歩いていると声をかけられることが多くなりました。両親はもう天国ですが、兄弟や友人と一緒にとても幸せだと喜んでくれています。
P : 今後はどのように活動していきたいですか?
R : 健康に気をつけながら、歌へのピュアな気持ちを忘れず、色々な方に喜んでもらえるような人生を歩んでいければと思います。歌手として大成できるように一歩一歩進んでいきたいです。日本に帰ってからはショーやイベントへの出演が予定されています。7月16 日には演歌『風花』、妻とのデュエット曲『未来( あす) への道』、ブラジルの著名なRick Bonadio 氏がプロデュースしてくれたポップミュージック『KOKOROKARA( 心から)』など全5 曲を収録した新作アルバムが日本で発売されます。
P : 最後に、ホベルトさんの魅力は何ですか?
妻の美香さん : みんなに愛される優しい人柄です。

今回、ピンドラーマのインタビューの聞き手としてお会いしたホベルトさんですが、偶然にも8 年前、風邪症状でもうろうとしていた時にサンパウロ市内で初めてお会いしていました。その時の出会いは、見ず知らずの日本人に対してどこからともなく熱さましを届けてくれ、そのまま去って行ってしまったというものでした。
人知れず陰徳を積むという日本の古きよき心を持ったホベルトさんの演歌は、国籍を超えて人情に響く歌声です。ぜひ一度、NHK のど自慢チャンピオン大会(2010 年3 月6 日) の様子をインターネットのYou Tube などで観賞してみて下さい。 

インタビュー日:2010/7/6

取材・文=おおうら ともこ


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