2010年5月13日木曜日

ピンドラーマ2010年4月号その4

<クラッキ列伝>
第9回 アデミール・ダ・ギア


叔父から甥っこへ、父から息子へ、確実にサッカーの才能を受け継がせてきた一族がある。リオデジャネイロの古豪バングーでクラブ史上最多となる215 点を記録したラジスラウ・ギアを叔父に持ち、王国史上でも屈指のCB との呼び声高いドミンゴス・ダ・ギアを父とするアデミール・ダ・ギア。
父ドミンゴスも1938 年のW杯で三位に輝き、当時としては珍しいボカ・ジュニアーズでのプレーも経験した名選手だったが、そのドミンゴスは44 年にコリンチャンスに移籍した際、まだ2 歳になったばかりの愛息を抱いて、周囲にこう公言した。
「この坊主が、ギア家の未来なのさ」。
ペレもジーコもやはり、自らの息子たちをプロサッカーの道に進ませたものの、いずれも親の七光り的な注目で終わっていたがギア家のDNA は本物だった。
当初、父や叔父―三人の叔父がプロだった―が生計を立てる手段としたサッカーには興味を示さず、7 歳で水泳を始めたアデミールだが、やはりギア家に縁が深いバング―でプロの門を叩くと、父以上の才能を示し始めた。
エレガントなプレースタイルと戦術眼、長身からは想像もつかない柔らかなドリブル、そして後に「ヂヴィノ( 神聖)」の愛称さえ送られたそのカリスマ性で61 年にパルメイラスに移籍すると77 年の引退まで一貫して、名門の象徴として輝きを放ち続けたのだ。
獲得したタイトルは二度の全国選手権と五度のサンパウロ州選手権など数多く、「アカデミア」と呼ばれた60 年代のパルメイラスの地位を築き上げたのは紛れもなくアデミールの存在だった。アデミール率いる緑色の名門は当時の王国でも最強クラブの一つだった。実際、CBF( ブラジルサッカー連盟) の前身に当たるCBD は、65 年9 月7日に行われたミネイロンスタジアムのこけら落としの際、パルメイラスをそのままブラジル代表とし、ウルグアイ代表との親善試合に挑ませたほどで、実際にパルメイラスが3-0 で完勝している。
そんな緑の背番号10 も、セレソンでは不遇をかこつ。65年に初めて代表に招集されながらも、当時今以上に代表招集に影響力を持ったリオのメディアがジェルソンを推したことから、アデミールは74 年までカナリア色のシャツから遠ざかったのだ。最初で最後の74 年W杯でも、ザガロの不可解な起用で出場機会はポーランドとの三位決定戦のみ。途中交代を強いられたアデミールは結局、父に及ばない4 位でW杯を終えている。
「セレソンで機会が少なかったことに不満はない。だってサッカーは僕に多くの喜びを与えてくれたから」。パルメイラスで不滅の金字塔となる901 試合に出場した天才のサッカー人生に一片の悔いもない。

筆者 下薗 昌記 (しもぞの まさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002 年にブラジルに「サッカー移住」。約4 年間で南米各国で400 を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などに執筆する。現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。



<サッカー>
初めての日本人監督が誕生


長いブラジルのサッカー史において、初めての「日本人」監督が誕生した。サンパウロ州選手権を戦うパウリスタの監督に2 月、就任した元日本代表FW の呂比須ワグナーだ。「いつかはJ リーグで監督をしたい」。監督として新たな挑戦が始まった。
87 年7 月、元ブラジル代表DF のオスカールとともに、日本に渡った18 歳当時、日本語は言うまでもなく話せず「サムライがいると思っていた」呂比須だったが、日本サッカーリーグの日産自動車( 現横浜F マリノス) を経て、柏レイソルや湘南ベルマーレなどJ リーグで活躍。日系二世と結婚後、97 年には日本に帰化し、W杯フランス大会アジア予選で日本の初出場に貢献し、帰化したブラジル人として初めて日本代表の一員としてフランス大会に出場した。
2002 年に現役引退後、03 年からジェトゥーリオ・ヴァルガス大学でスポーツマーケティングなどを修めたり、コーチ修業をしていた当初、指導者の道に進むことを躊躇していたという。05 年から2 年間はパウリスタのヘッドコーチに就任。その後は日本とブラジルを行き来しながらサッカー教室やTV のコメンテーターを務めていたが「僕が日本とブラジルで学んだ経験を伝えないのはもったいない」と昨年末、やはりパウリスタのヘッドコーチに再び返り咲き、本格的に指導者への道を歩み始めていた。
運命の転機となったのが今年2 月中旬のこと。アウヴェス監督の解雇を受けて、同月20 日のポルトゲーザ戦で暫定監督ながら、ピッチサイドに立った呂比須は1 対2 で敗れたものの、その好采配を評価され、ついに正式に監督に就任した。「チームが機能し始めると、自分も選手と一緒に同じボールを追っているような感じがする」。
コパ・ド・ブラジルで優勝した経験もある創立101 年の伝統あるクラブながら、就任当初の順位は20 チーム中降格圏内の16 位と瀬戸際に立つだけに「二部に絶対落としてはいけないという責任の重さにもの凄いプレッシャーを感じているのも事実」( 呂比須)。
来日前にはサンパウロFC の一員としてサンパウロ州選手権でプレーした経験もあるが、やはり指揮官としての重圧は独特だと呂比須は言う。
FW 出身だけに本来は攻撃的なスタイルを志向するが、今大会では「就任の段階で残り9 試合しかなくて失点が一番多い。現実的に考えると二部降格を避けるためにはまずしっかり守備をしてカウンターで戦うしかない」となりふり構わない戦いで挑むつもりだ。
暫定監督としてのデビュー後、全て1 点差の負けで5 連敗と降格が現実となりかけたが3 月21日に初勝利を挙げると3 日後のコリンチャンス戦も連勝。降格圏脱出も視界に入ってきた。
日本国籍を持つと同時に今でもブラジル人としての「ワグネル・ロペス」としてのアイデンティティーも併せ持つが本人は「僕はこんな顔をしているけど、日本人。ブラジルの名門とJ リーグからオファーを受ければ、間違いなく日本を選ぶ」とキッパリ。現役時代同様、第二の母国での成功を夢見ている。

筆者 下薗 昌記


<開業医のひとりごと>
〜今月のひとりごと『黄熱よりデング熱のほうがかかりやすいぞ』〜



現在ブラジルでは去年より「感染症危険情報が発出されています」。外務省の海外安全ホームページや在サンパウロ総領事館発信の情報です。内容はデング熱と黄熱の流行についてですが、いろいろ問い合わせがありましたので今月はこのテーマでひとりごとします。
疾患の説明や症状は外務省のHP に詳しくあります(註1)のでそちらをご覧ください。確かにどちらもブラジルでは発症例が増えています。サンパウロ在住の邦人に関心が高いのは黄熱のようです。というのは、致死率の高い疾患で、2008 年頃までサンパウロ州では安全とされていたのが一部予防接種勧告地域になってしまったからでしょう。黄熱は予防接種が有効な感染症なので、じゃあ全員にワクチンを打ったら終わりだろうと思われるのですが、非常に副作用の強いワクチンなのでそうは問屋が卸しません。結論からいうと、絶対に接種するべき以外の方はワクチンを使わないほうがよいと考えます。右に掲げたサンパウロ州の地図の左側(明るい色)に①在住(註2)、または、②ブラジル各地の黄熱予防勧告が出ている地域(註3)の森林部や農村部に出張や旅行をする、この二つの状況のみ予防接種が必須だと考えられます。本連載読者の皆さんのほとんどは該当地域に在住されていないので出張や旅行が対象になりますが、「行くかも知れない」程度でなく「実際行かれる」場合予防接種を受けてください。現地に入る10 日前に済ますのをお忘れ無く。医療の現場では黄熱以上にデング熱が気になります。その理由は発症数が圧倒的に多く、サンパウロ市内でも罹患可能であるからです。

『黄熱もデング熱もネッタイシマ蚊によって媒介されるウイルス性の感染症なのだな。黄熱のほうが致死率が圧倒的に高い。リオで黄熱の流行で渡航禁止になるなど第二次世界大戦前までブラジルの都市部でもかなり黄熱が多かった。都市部で壊滅できたのは実はワクチンのお陰ではなく、蚊の駆除がポイントだったのだな。ブラジル人ではOswaldo Cruz やAdolfo Lutz など現在感染症系研究所の名称になっている医師達が活躍したのだ。これにより黄熱のウイルスは森林部に追いやられたのだが、蚊は今度は都市部で流行するデングを運ぶようになった訳だな。これには都市部の拡大と地球温暖化のため蚊媒介性疾患の分布拡大の可能性があるという学説がある。どっちにしても、蚊に刺されるのを防ぐのが予防の重点になる。つまり:①蚊の多い所に行かない(ブラジル沿岸部、気温が高いので多い)②刺されないようにする(虫除け剤を塗布あるいは服用、服装、蚊が食事をする時間帯に外出しない)の二点だろな。絶対数としてデング熱のほうが感染しやすいぞ。ちゃんと治療すればまず助かるので、海などにいって、蚊にさされて、1 週間ほどしたら高熱、頭痛などがでるようであればすぐに受診しましょう。』


*1 http://www.pubanzen.mofa.go.jp/info/info4.asp?id=259
*2 左側の市町村名リストは次のサンパウロ州健康局の勧告を参照:ftp://ftp.cve.saude.sp.gov.br/doc_tec/
*3 Acre, Amapá, Amazonas, Pará, Rondônia, Roraima, Distrito Federal, Goiás, Tocantins, Mato Grosso do Sul, Mato Grosso, Maranhão, Minas Gerais, São Paulo(一部), Bahia, Paraná, Piauí, Santa Catarina, Rio Grande do Sul.


<ブラジルの民間療法>
糖尿病に効果のある薬草( 2 )


☆ペドラ・ウメ・カア(PEDRA-UME-CAÁ またはPEDRA-HUME-CAÁ)
学名:Myrcia sphaerocarpa(ミルキア・スファエロカルパ)、フトモモ科ミルキア属
原産地:ブラジル
形態:潅木
繁殖方法:種子
主にアマゾン地域に分布する。
「植物性インシュリン」として有名で、糖尿病の治療に利用される。
インディオの知識に由来する。
葉や根を煎じて飲用する。






出典:IRMÃO CIRILO (Vunibaldo Körbes) “Plantas Medicinais”
(1971 年初版、現在第63 版を数えるロングセラー)
資料提供:Nassui Alimentos











やっぱり気になる
ブラジルの旧宗主国ポルトガル
第二弾:グルメ編


ポルトガルの主な見どころをご紹介した先月号に続き、お待ちかね(!)“ ポルトガルの食” についてです。旅行経験ある日本人は口を揃えて、ポルトガルは食事が最高!日本人の口にあう!魚料理が豊富!・・・と興奮気味に語るが、実際はいかに?

■絶対!おすすめ料理
リスボンに着いて、まず何を食べるか・・・限られた旅行期間、どうしたって本場のポルトガル郷土料理にありつきたい。ガイドブックをめくってみる。ホテルの人に尋ねてみる。街を偵察してみる・・・
今回、筆者は2 週間かけて約30 件のレストランを試したが、なんのことはない、現地の人で込み合っている店が味も確かだ。
ポルトガル料理は、かつての植民地から持ち帰った食材を取り入れていたり、シナモンやサフランなど、ポルトガルを一時期支配していたイスラム圏の影響もみられ、他のヨーロッパ諸国とも異なる食文化を持っている。地域によっては地元の料理があり、同じメニューでも調理法が違っていたりする。魚料理も肉料理も多様で、噂通り美味しいものばかり-確かに“ 美食の国” だ。特におすすめのメニューを紹介したい。

○バカリャウ
魚料理が豊富なポルトガル料理であるが、その筆頭はブラジルでもお馴染みのバカリャウBacalhau(干し鱈の塩漬け)。最近はブラジルほどではないにしろ、バカリャウの値段が上がっているそうだが、やっぱり身近な食材で調理法も限りない。玉葱やトマトなどと一緒にオーブンで焼いた“Bacalhau
assado”、シンプルに茹でる“Bacalhau cozido”、玉葱やフライドポテトをあわせ卵とじした“Bacalhau à brás” などが定番メニュー。同じ魚とは思えない異なる味わいでそれぞれおいしいが、特にポルトガル産オリーブオイルをかけた肉厚のBacalhau cozidoは、バカリャウそのものの味、食感に格別の感動を与えてくれる。

○リゾット
お米のない食事に物足りなさを感じるのは日本人だからだろうか?海老、イカ、アサリなどが入っている海鮮リゾット“Arroz de Marisco” やアンコウのリゾット“Arroz de Tamboril”、タコのリゾット“Arroz de Polvo” はそんな日本人にとって嬉しいメニューだ。海鮮のだしに刻んだコリアンダーがアクセントになり味わい深く、胃にも優しい。トロっとした食感のアンコウのリゾットは特におすすめ。




○ポルト風モツ煮込み
“Tripas à moda do Porto” -第二の都市ポルトを訪れたら、ぜひ試してもらいたいのがこのメニュー。先に挙げたバカリャウやリゾットが定番メニューであるのに対し、この料理はポルト地方の郷土料理である。ハチノス(牛の胃)と白インゲン豆を煮込むあたり、ブラジルの“ ドブラジーニャ” と似ているが、ポルト版の方がシンプルであっさり味か。15~ 16 世紀の大航海時代、船出する人々に牛肉を託し、ポルトの住民は残された臓物を食べて飢えをしのぎ、都市の繁栄を支えたとか。


○鮨
日本料理屋のお鮨が美味しい・・・これはポルトガルの食で一番の驚きかもしれない。リスボンには日本料理店が数軒ある。この15 年間で多くの店が入れ替わり、今も残る老舗は「盆栽Bonsai」と「彩Aya」の2 軒だ。鮨ネタはマグロ、トロ、カレイ、スズキ、タイ、イカ、ウニなど種類も豊富で、味は日本の高級店より格上?と思うほど。ノルウェーから空輸のサーモン以外は寒流が流れるポルトガルの近海もので、冷凍保存は一切していないそうだ。
「盆栽」のオーナーは、在ポ50 年を超える横地森太郎さん(75 歳)。横地さんは1958 年にポルトガル陸軍士官学校の水泳指導教官として招聘され、40年間教官を務められた。ポルトガルの水泳監督として5 回オリンピックに出場し、息子のアレシャンドレさんもオリンピック選手として活躍した。縁あって、横地さんに陸軍士官学校を案内してもらった。士官学校の校長(陸軍大将)も挨拶に現れ、教え子の教官達は、背筋を伸ばして歩く横地さんに直立不動で挙手の礼をする。横地さんは知られざる日本の英雄だった!

■ポルトガル・スイーツ
ポルトガルはお菓子の国でもある。数々の伝統菓子があり、その中には日本に南蛮菓子として伝わったカステラ、ボーロ、コンペイトウの原形となる菓子もある。ポルトガル人はブラジル人同様甘いものが大好き。街中にあるパステラリアを覗いてみよう。

○パステウ・デ・ナタPastéis de Nata とケイジョアーダ Queijada
この二種はポルトガル全土で見かける定番菓子。パステウ・デ・ナタは日本でも一時流行ったエッグタルト。ブラジルでもパダリアでお見かけするが、より濃厚で繊細な味がするのは気のせい?!ケイジョアーダはチーズタルトで、リスボン近郊シントラの名物。






○パン・デ・ローPão de ló
カステラの原形と言われる菓子。地方により大きさや焼き具合が異なるが、中身がまだ半生でとろけるタイプがおすすめ。








○モロトフ Molotofe
メレンゲにカラメルを混ぜ蒸焼きしたもの。数あるポルトガル菓子で筆者が一番感動した一品。パステラリアによって砂糖や塩加減が異なるが、リスボン・カモンイス広場そばの老舗カフェ“Café a Brasileira” のモロトフは絶品。






<番外> 国立パン博物館
パン好きな方、時間があれば訪れてほしいのが内陸の街セイアSeia。セイアはエストレーラ山脈の入り口の街で、ポルトからバスで4 時間、コインブラから1 時間半に位置する。ガイドブックでも軽く触れる程の街だが、丘の上に突如現れる立派な建物は観光客で一杯。同館は2002 年にオープンした国立博物館で、パンの歴史、製造過程、ポルトガル各地のパンを紹介する展示室があるほか、レストラン、バール、図書室、ショップなども併設している。サンパウロでも「良いパダリアのオーナーは大抵ポルトガル人」と言われるだけあり、ポルトガルのパンのこだわりを知ることができる。レストランのメニューはポルトガルの伝統料理でコースのみ。パン12 種・前菜22 種のビッフェ、メイン2 種(魚・肉)、最後にデザート12 種のビッフェで、大人一人17.5ユーロ。地元名産のエスプマンテも頼みたい。

☆国立パン博物館(Museu Nacional do Pão)
Quinta Fonte do Marrão 6270 Seia, Serra da Estrela –Portugal
開館時間:10 時~ 18 時(金・土曜は22 時まで)・月曜定休
入館料:2.5 ユーロ(一般料金)
URL:http://www.museudopao.pt/

ポルトガル旅行記は今回のグルメ編で終了。おいしいものを書き連ねましたが、「今週末ポルトガルへ行こう!」というわけもいかず・・・ピンドラーマ来月号では連載中の『各国移民レポート』でポルトガル移民を特集します。サンパウロで楽しめるポルトガル料理も紹介予定。乞うご期待!

筆者 山本綾子(やまもとあやこ)
お茶の水女子大学卒(生活文化学専攻)
旅経験30 ヶ国 ブラジル在住

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