2010年4月6日火曜日

ピンドラーマ2010年3月号①

<移民の肖像>

写真・文 松本浩治

「移り来て、仕事一筋、我が人生」—。サンパウロ市リベルダーデ区サン・ジョアキン街249番でBAR(簡易飲食店)を経営する宮城新雄さん(75歳、沖縄県国頭村出身)は、自身の生活をこう表現する。
戦前に渡伯していた叔父(母親の弟)の呼び寄せもあり、沖縄南米開発青年隊の第4次隊として1958年、「ルイス号」で単身海を渡った。
そのまま、叔父が行っていたBAR の仕事をサンパウロ市しタトゥアペ区で手伝い、途中、パステル製造販売の従業員として7年ほど勤めた経験もあるが、40年以上にわたってBAR業に携わり、今も現役で続けている。
60年、叔父がリベルダーデ区タマンダレー街に店を移したが、その後もベレン区やビラ・カロン区などを転々とした。
63年、叔父の紹介によりパラナ出身の日系2世である千代子さん(71歳)と結婚。「何でか知らんけど、(千代子さんが)付いて来たもんね」と宮城さんは照れ笑いを浮かべる。
その後は、夫婦による二人三脚のBAR経営が続く毎日。75年には沖縄県出身の「先輩」から任され、現在の店に移った。
「食べて、子供を育てないかんからね。他に何もやることを知らんもん、しょうがないよね」と宮城さんは、商売一筋の人生を振り返って、こう語る。
4、5年、借家の同店で働いた後、先輩から「この店を買ってくれ」と言われ、初めて自分の店を持つことができた。
「その頃は従業員も朝2人、夜2人も雇って、一番忙しかったよね。(サンジョアキン街の道を隔てた)向かいには、日本人のキタンダ(八百屋)やBARもあって賑やかで、文協の職員たちもよく来ていたね」
BARの名前は、プレジオ(建物)の名称にちなんで「モンテ・フジ(富士山)」。以前は午前6時から午後11時半まで開店していたが、今はプレジオが閉まる午後10時で店を閉めている。
当時は、客層の中でも特に学生が多く、早朝や夜遅くにサンドイッチなどを食べに来る青年たちで賑わったという。
現在は、長男とその嫁が交代で店を手伝ってくれるため、「大分と楽になったよ」と話す。千代子夫人は、店には出なくなったが、今でも早朝に起きてコシーニャなどの軽食類を手作りし、その商品が店頭に並ぶ。
宮城さんがBAR業をやっていて寂しい思いをしたのは、遊び盛りの子供たちをほとんど何処にも連れて行けなかったことだった。
「末っ子が3歳か4歳の時に1回だけプレイセンター(遊技場)に行って遊んだことがあったね」
と回想する宮城さんだが、2008年8月にジアデーマ市の文化センターで開催された沖縄県人移民100周年記念式典にも行けなかったという。
長男は大学中退後、日本に出稼ぎにも行ったが、今は父親の手伝いを黙々と行う。その姿を見ながら「継いでもらうのは嬉
うれしいけど、こういう商売は1世で終ってしまうかもね」と寂しそうに笑う。
13年ほど前には過労がたたり、心臓病を患った宮城さんだが、病院で治療を受け、手術することなく「店をやりながら、病院に通
かよった」という仕事熱心さだ。BAR には日系人の常連客も少なくなく、今も「宮城さん」と気軽に声を掛けて行く。
楽しかった思い出について聞きくと、「いろいろあり過ぎて、いちいち覚えてないよ」と屈託なく笑う宮城さん。今も家族の支えを受けながらも、1日1日を地道に生きている。

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