2010年9月30日木曜日

ブラジルのお金のお話

みなさん、こんばんは。


木曜日の男、キタの出番でございます。


実は、ブラジルでまだ見てないお金があります。
それは、1レアル紙幣と1センターボ硬貨・・・



私は、お金が大好きです(なんか、イヤらしいな・・・)。
いろんな国のお金を集めるクセがあります。
日本ではデザインの違う500円玉を見るだけで興奮してました。

当然、ブラジルのお金も全種類、揃えようと試みてはいるのですが、
どうしても、手に入らない硬貨が先程お話した、1センターボ。

ブラジルを知らない方のためにお話しすると、
こちらのお金単位はR$ (レアル)とCentavo( センターボ)
ドルと、セントみたいな感じです。


紙幣の種類は、

100レアル 50レアル 20レアル
10レアル 5 レアル 2レアル
     そして、幻の1レアル紙幣

硬貨の種類は、
1レアル
50センターボ 25センターボ
10センターボ 5センターボ
                そして、幻の1センターボ

さらに、センターボに関しては、
各々、2種類ずつ存在します。

実にややこしい!

こちらに来て、最初はR$100札もなかなか見る機会がありませんでした。
(偽札が多いのと、お釣りが出しにくいという理由から、あまり流通していないそうです・・・)
なので、初めてR$100札を見た時は感動しました。
(それは、こちらに来て3ヶ月位経った頃でしょうか・・・)

さぁ、あとは1レアル札と、1センターボ(2種類)でクリアです。

とは言っても、1レアル札は昔は流通してたそうですが、
1レアル硬貨が幅を利かせ始め、希少種となっているそうです・・・
日本で言うと、2000円札みたいなポジションですかね・・・

じゃ、1センターボだけでも、早く手に入れようと思ってるんですが、
1センターボのポジションは日本で言うと1円のようなもので、
簡単に手に入ると思っていたんです。

ところが、これがなかなか入手困難!

よし、なんか買い物してお釣りをもらうしかない!
当然、そんな作戦になりますよね?

ホットドッグがR$1,99だったんです。
もう、とっても嬉しくて。
やっと、1センターボが手に入ると思って。

2レアル払って、ホットドッグを手にして、
お釣りを待ってたんです。

ところが、店員は完全に私を無視。
それでも、待ちましたよ。

でも、変わらず無視。
私が、『お釣りは?』って言葉を知ってたらいいんですが、
知らないから、待つしかない。
店員が立ちすくんでる私に向かって、
「まだ注文あるの?」
というような雰囲気で話すんです。

諦めて帰りましたよ。
トボトボと・・・

後から知ったのですが、
R$0,99 はR$1,00 と一緒の扱いを受けるんです。
だから、お釣りは出ません。

そんなバカなーっ!ですよね?
ね?日本の皆さん!

じゃ、なんでR$0,99と書くのか!
R$1,00と一緒なら、なぜそう書かない!詐欺じゃないか!
って思うじゃないですか。

ところが、長年住んでる日本人にその事を尋ねると、
「R$1,99のホットドッグを5個買えば、5センターボお釣りが来るよ。」

へ?
5個も食べられるわけないぢゃん!
拙者は、納得いきませぬ。


この国ではR$0,99 はR$1,00 と一緒だと・・・
まぁ、分かった。
じゃぁ、そこだけは譲ろう。


じゃ、R$1,00 払って 価格がR$0,98 の場合は?

「お釣りは来ないね。」


はい??


じゃ、R$0,97 の場合は?

「お釣りをくれる人と、くれない人がいるね・・・」


なんですと?

R$0,96は?

「お釣りは5センターボだね。」


おいおいおいおい・・・
もう、意味わかんない。
じゃ、1センターボの存在理由ないじゃん。
なくてもいいじゃん。

売る側も、1センターボがないんだったらさ、
そんな値段にするなよ・・・

でもですね、カードで支払った場合はキッチリ1センターボまでカウントされるんです。


つまり、ブラジルにおいての、1センターボは・・・
バーチャル貨幣だ。



でも、少し考えると日本では1円を作るのに、
製造原価は 0.7円 (製版・流通コストは含まない)だそうで・・・
そう考えると、流通させない方が賢い方法なのかもと・・・考えたりします。


いずれにせよ、幻の1センターボ硬貨はいつか手に入れてみせます。


それにしても、細部がなんて曖昧な国なんだろうか・・・


さて、今週の一句。

10進法
  キャッシュで払うと
     5進法。

     ブラジルに住む木曜の男。


追記です。上記を表にまとめてみました。


あなたがR$1,00で商品を買った時のお釣り表
金額・・・・・お釣り
R$0,91・・・R$0,10
R$0,92・・・R$0,10
R$0,93・・・R$0,05 or お釣りなし
R$0,94・・・R$0,05
R$0,95・・・R$0,05(当然)
R$0,96・・・R$0,05
R$0,97・・・R$0,05 or お釣りなし
R$0,98・・・お釣りなし
R$0,99・・・お釣りなし
R$1,00・・・お釣りなし(当然)

待てよ?
これってさ、赤で太字のとこはさ、
曖昧ライン(勝手に名付けてみる。)って事でしょ?

企業側はその曖昧ラインで値段をつけてさ、
従業員には「お釣りを出すな」と指示すれば・・・

企業側はまる儲けだね!

では、また来週の木曜にお会いしましょう。

2010年9月29日水曜日

ウラぐるめ第4弾、、、

おはようございます。



1ヶ月800ヘアイスで暮らす、鉄砲玉・銚子です、、、



昨日はサーバーがダウンしていて、ブログの更新が出来ませんでした、、、




ウラぐるめファンのみなさん?申し訳ございませんでした、、、




さて、ウラぐるめをっちゃーも4回目になりました、、、




今回、潜入してきた店は、、、




リベルダージ(東洋人街)にある中華料理の店、RESTAURANTE JI FU(チー・フー)、、、



場所はRua  Barão de Iguape,50、、、



ここ数年、リベルダージに中華料理の店が乱立していますが、、、



味と値段で選べばここが一番です、、、





まずは、チャーハンを頼んでみました、、、




巨大な皿にどどっーん盛られてきました、、、




4人で行ったのでちょうどいい量でした、、、




1人お茶碗2杯分くらい食べられます、、、




次にチンジャオロースを注文してみました、、、



細切りの牛肉をイメージしていたら、大きな肉が出てきました、、、



さすがブラジル、、、



でもこれはこれで美味しかったです、、、



この他に、マーボーナスを頼んだのですが、写真を撮ることを忘れてました、、、



このお店は殆どの料理が15~20ヘアイスという低価格です、、、










2010年9月23日木曜日

君の、その涙のワケを教えて。

みなさん、こんばんは。


木曜日の男、きたです。


ふふふ。

今回はなんか、あま~い恋のお話?
ってタイトル見て思ったでしょ?




違います。


どうやら、私は人間観察が好きなようです。

特にメトロやバスに乗ってると、他人の一挙手一投足が気になるのです。


先日のお話。
帰路のメトロ内での出来事。


2人の20歳位と思われるカップルが乗り込んできました。
女性は足をひきずっていて、男性は肩を貸しています。


その女性は転んだのでしょうか?

ぶつけたのでしょうか?

とにかく、膝をしきりに気にしています。

特に血は出ていないようで、ひきずりながらも歩ける様子を見ると、
骨折はしていないようです。

その女性はシクシクと泣きながら、彼氏に痛みを訴えているようです。

しきりに。ずっと。


男性はオロオロしながらも、彼女の頬をさすり、顔を覗き込み、
ハグをし、キスをしています。


どうも、私にはこの光景に納得いかないのです。
ブラジルでのカップルのイチャイチャ・ベタベタ・ネチョネチョにはもう慣れました。


そんな事じゃないのです。
この光景に、私は申し上げたい。

「冷たい男」 と言われるのを承知で申し上げたい。



本当に痛かったら泣けますか?
君は本当の痛みを味わったら、言葉も出ないハズですよ。
呻くか叫びますよ。

いや、目を打ったり、鼻をぶつけたり時などは、涙は出ます。
それは、泣くというより、涙が出るという感じじゃないですか。
そんなに泣けるなら、その痛みは大した事無い。


すごく叫びたかった。


「泣いて痛みが引くのなら、お泣きなさい!」


いやいや待てよ、先入観はよろしくない。
きっと、悲しい程の負傷なのかな?
と考え直し、もっと洞察してみる。



もしかしたら、
彼女は近々、チアリーディングのサンパウロ大会があって、
頑張って練習していたのかもしれない。
そこで、帰宅途中に木が盛り上がって浮いた歩道にズッコケたのかもしれない。

それは、悲しい。

でも、待てよ?
本当に悲しかったら、私ならため息しか出ないし、
きっと、泣ける状況ではない。
本当に悲しい状況って案外泣けない。
泣いたとしても、あんな感じでは泣けない。



待てよ?もしかしたら、
彼氏の情けなさに泣いているのかもしれない。
ズッコケそうになった時に、彼は手を差し伸ばしたが、
彼女の重さに耐え切れず、手を離し、彼女は膝を強打したのかもしれない。
そして、彼氏の非力さに情けなくて泣いているのかもしれない。
でもそれだったら、あんなにその男とベタベタしないよな?


もしかしたら、感動して泣いている。

あぁ、それなら分かる。
あんな感じで泣けるもんね。
痛みを感じる事で、


「私って、生きてる!」


って改めて実感したのかもしれない。



もしくは、彼の優しさに感動して泣いている。


「あなたの対応って・・・神対応!」


でも、な~んか違う感じなので、やっぱり却下。


いろいろ、考えた挙句、一つの結論に到達する。



その女性は、



彼氏に構って欲しくて泣いている。



私ってこんなに、ひ弱で、この痛みに耐え切れないの。
もう、痛くて痛くてどうしようもないの。
見て、私こんなに泣いてるでしょ?
抱きしめてよ。心配してよ。

どうも、そんな感じがする。

一人でいる時に、君はそんなに泣くだろうか?
構ってくれる人が傍にいるから、泣くんじゃないだろうか?


彼氏も彼氏。
もし、彼女がそんなに痛いなら、
ハグをした位で、キスをした位で、
痛みがおさまるワケあるかっ!


つまり、お・お・げ・さ。


彼氏君、お・お・げ・さ!
って彼女に言っちゃいなよ。
ユー、言っちゃいなよ!

本当は分かってるんでしょ?
無理する必要ないよ。



そんな事を考えた帰り道。

それでは、今日の一句。


構ってよ。
小さな事を
大袈裟に。

ブラジルに住む木曜の男。



では、また来週の木曜にお会いしましょう。

2010年9月21日火曜日

ウラぐるめ第3弾、、、

こんにちは。
火曜日担当の鉄砲玉・銚子です。


ウラぐるうをっちゃーも3回目、、、


今回、ご紹介するのはここだっ、、、




地下鉄のアナ・ホーザ駅前でやっている屋台の焼きそば屋です、、、



大きいのが4.5ヘアイスで、小さいのが3.5ヘアイスです、、、






中国人のおじさんがその場で作ってくれます、、、






まずは鶏肉から、、、






キャベツ、にんじん、麺が入り、醤油で味付け、、、





おじさんの鍋さばきが凄い、、、



一気に2~3人前を作ります、、、



そうこうしているうちに行列ができてます、、、



なかなか繁盛しているみたいです、、、





そして完成、、、



この間、僅か3分くらいです、、、



麺はパスタの麺をあらかじめ茹でたものを使用しています、、、



(本物の焼きそばの麺は高いからね、、、)






鉄砲玉はいつも大きいサイズを選びます、、、



かなりの大盛りでお腹いっぱいになります、、、



道場に住んでいたちょうど5年くらい前は3.5へアイスだったので、3日に1回は食べてました、、、



営業時間は月~金の18時~23時くらいです、、、



ただし、最近は警察の見回りが厳しいので、おじさんは立っているが営業していないときがあります、、、



もし、この焼きそばがサンパウロから消えたら、鉄砲玉は泣きますね、、、







2010年9月19日日曜日

ピンドラーマ2010年8月号(その3、ラスト)

<ブラジル美術の逸品>

【アルメイダ・ジュニオール 「煙草を刻むカイピーラ」】 
1893 年 カンヴァス 油彩 202 x 141 cm 
サンパウロ,サンパウロ州立ピナコテカ美術館
Almeida Júnior “Caipira picando fumo”
Pinacoteca do Estado de São Paulo, São Paulo
「ブラジルに帰りたくて我慢ならない」
( アルメイダ・ジュニオール;1876-1882 年の間過ごしたフランスのパリにて。強いカイピーラ訛りの言葉で)

 サンパウロ州立ピナコテカ美術館には、ブラジル人画家アルメイダ・ジュニオールの作品のみが展示された部屋が設けられている。一見、どこにでもありそうな写実的な絵が、よく見ると次第にブラジルならではの国宝級の描写であることに気づき始める。
 『煙草を刻むカイピーラ*』 は、サンパウロ州の田舎の風景を表した作品の一枚。木の断片の腰掛に座るカイピーラの男性は、右手のナイフで煙草を切り刻んでいる。黒い煙草は今もブラジルのタバカリア(煙草屋)で見かけられる、葉が縄状に編まれてグルグル巻きにして保存された煙草の一部で、刻んだ煙草はトウモロコシの皮などに包まれて葉巻のように吸われる。絵のカイピーラの左耳にも使いやすい形にカットされたトウモロコシの皮が挟まれ、地面にははぎ取ったトウモロコシの皮も散らばっている。
 大都市サンパウロを一歩離れて田舎に出向けば
今も絵に登場するカイピーラを思わせる素朴な人々に出会えることがある。馬に乗っているかもしれない。降り注ぐ太陽光線の熱を避ける長袖のブラウスやすそをまくり上げたズボンは、かつてのカイピーラ独特の服装であるという。ズボンを汚す赤土の色もブラジルらしく、背景の小屋の土壁の構造は、植民地期以来、ブラジルの広範囲で見られた家の造りを象徴的に表わしている。
 アルメイダ・ジュニオールは生涯を通して生まれ故郷のイトゥーItu を愛した人だった。自らがカイピーラであることに誇りを持ち、リオデジャネイロの美術学校でもフランス留学時代にも、カイピーラ独特のスタイル( 話し方、服装など) を決して変えることはなかった。パリで過ごしたアトリエにブラジル人の知人がパリジャン気取りの装いで訪れようものなら、それに強く反発し、“ パリは自らを苦しめる土地である” といわんばかりに、一刻も早く郷里に帰ることを切望した。
 画家としての人生の大半をサンパウロ州の田舎町で過ごしたアルメイダ・ジュニオールは、カイピーラの素朴な風俗をはじめ、自らが目の当たりにしたブラジル社会の現実に目を向け、ブラジル写実主義絵画の大家として今日まで称えられ続けている。

★アルメイダ・ジュニオール (1850-1899)
 サンパウロ州イトゥーに生まれる。教会の神父に勧められて絵を描くようになり、19 歳からリオデジャネイロ帝国美術学校で学ぶ。卒業後はイトゥーに戻って絵を教え、肖像画を描くなどして生計を立てていたが、サンパウロを旅行中だったブラジル皇帝ドン・ペドロ二世に才能が認められ、皇帝の奨励を得て1876 年から1882 年までヨーロッパで美術を学ぶ。パリや帰国直後のリオの展覧会で脚光を浴び、美術学校の教授にも招かれたが、生涯郷里を離れることなく、田舎の風景や人の姿を多く描いた。1899 年、長年の愛人関係にあった従兄弟の妻マリア・ロウラとの関係が発覚し、従兄弟の短刀で刺され49 年の生涯を閉じる。作品にはマリア・ロウラをモデルにした作品も数点ある。

*田舎で暮らす人々の通称。カイピーラには独特の文化がある。

文 おおうらともこ




<ピアーダで学ぶブラジル>





<摩訶不思議なブラジル経済>
インフレ鎮静化?


南アフリカ開催のワールドカップが終わり、次はいよいよ2014 年ブラジル開催のワールドカップである。今回のワールドカップは結果だけを見てみると、日本やウルグアイの躍進等意外なケースもあったがスペイン優勝という大方の予想通りになった。日本人審判がブラジル戦で笛を吹いたのも印象的で、ブラジル人アナウンサーが「東洋人に決勝トーナメントの笛を吹かせるのは無理だ」とのコメントが個人的には印象的であった。ブラジルはいよいよ2014 年ワールドカップ・2016 年のオリンピックの準備に入るが、先日リオ・サンパウロ・カンピーナスを結ぶ高速鉄道の入札の詳細が発表された。今年の11 月末に入札が行われ同年12 月中に落札者が発表される。2014 年のワールドカップまでの完成にはもちろん間に合わないが1016 年オリンピックまでの完成を目指す。
 ブラジルの足元の経済活動を見てみると、物価の上昇率が予想されているほど高くなく落ち着いている。6 月の消費者物価指数の代表であるIPCA は0%と発表されている通りであるが、このIPCA 指数を過去10 年遡ってみると過去インフレ率がマイナスになった月は3 回のみでどれも6 月である。しかもワールドカップのある年の6 月はインフレ率が下がる傾向が強い。このインフレの傾向を踏まえてブラジル中銀は政策金利(SELIC)の上げ幅を0.5%として年10.75%とすることを決定している。年初の予想では0.75%上げて年11%とすると見られていたので、金利上昇スピードが緩んだことになる。
 7 月のIPCA15(これは通常のIPCA 指数が月初から月末の物価を比較するのに対し、各月15日に前月の15 日の物価と比較する指数)の内容をみると食料品が0.42%減少しており、その内訳を詳しく見ると、ジャガイモが-16.48%、トマトが-14.94%、玉ねぎが-13.08%、ニンジンが-10.32%、砂糖が-7.47%、牛乳-4.49%となっている。また、移動に関わる費用も下がっており、新車の価格が-1.16%、中古車の場合は-2.22%、ガソリンが-0.53%、アルコール(燃料が-3.15%となっている。一方で食料品以外の
製造品の価格は0.12%上昇しており、また、住居に関わる費用は0.57%の上昇となっている。
 この傾向を受けてブラジル中銀は年間のインフレ率(IPCA)の見通しを5.45%から5.42%に変更している。その他のインフレ指数IGPM(卸売物価指数の1 つ)も8.89%から8.79%へ、IPC-Fipe(消費者物価指数の1 つ)は5.15%から5.12%へ年間見通しを変更している。基準金利SELIC についても市場は年末までに更に1%の引き上げを予想しており最終的には11.75%になるとみている。これは年初には12%を超えると見ていたのに比べると金利引き上げのスピードが鈍化していことを反映している。
 インフレ率が予想を下回っているが経済成長率は今年は5%程度を確保することが予想されており、「インフレ無き成長」までいかないにしても物価が比較的安定している中での経済成長が続いている。ブラジルのインフレ体質も改善されつつあると思う。先日、日本の経済白書で「日本は構造的なデフレ体質」との記事があったが、ブラジルも構造的なインフレ体質であったと思われるがこれが改善されてきたと思われる。
 さて、ブラジル経済に関しては良いニュースが目立つがブラジルの経済格差の記事が出ていた。国連によるとブラジルは世界的にも経済格差の大きな国であるのは既知のことだが、世界のワースト3 に入っており、1 位がボリビア、2 位がハイチ、3 位がブラジルだそうだ。ブラジル経済は順調に発展しているがまだまだ改善すべき点は多い。

加山 雄二郎(かやま ゆうじろう)
大学研究員



<ブラジル社会レポート>
いよいよ始まった大統領選挙 
PR したもの勝ちのブラジルのシステム


 サッカー・ワールドカップは、ブラジル代表がベスト4 にも残らず敗退。誰もが想像すらしなかった?結果に、次の監督はどうするんだとか、この顔ぶれで4 年後は大丈夫なのかといった話題で盛り上がったかと思うと、商業関係者は「さっさと負けてよかった」なんて言っております。飛ぶように売れて問屋街では追加発注が相次いだブブゼラの売れ残りがどうなるのか、微妙に気になるところ。それから代表ですが、ブラジルはタレントを持った選手の宝庫なので今から4 年後を考えても仕方がない、というのも真実でしょう。それにしても、本当にこの国の人は何故にサッカーでここまで熱くなれるのでしょう。
 一方で、ワールドカップが終了すると、同じく4 年前から関係者がやきもきしながら10 月に決戦を迎える、もうひとつのイベントの火ぶたが切って落とされました。そう、大統領選挙です。
 今回の大統領選挙では、当初こそ野党ブラジル民主社会党(PSDB)所属で前サンパウロ州知事のジョゼ・セーラ氏が支持率で与党候補を含めた他の候補と20 パーセントポイント近い大差をつけ圧倒的に有利と言われてきました。が、ふたを開けると7 月の選挙運動解禁時点でなんと与党労働者党(PT)のジルマ・ロウセフ候補に支持率で追いつかれて横並びのスタートという驚きの展開になっています。昨年末までは、支持率どころかロウセフって誰?という知名度すら低く、私の周囲のブラジル人主婦たちの間でも名前を発音できない人が圧倒的多数だったのですが(笑)。言い換えれば、年末休暇の美容整形による若返り前の顔を知っている人のほうが圧倒的に少なく、ロウセフ候補といえばあの顔、というのは整形後の人当たりの良さそうなおばさん的ニコパチ顔というわけです。対するセーラ候補は、厚生大臣の経験があるなど有権者にもおなじみのため、あのヨーダ顔を整形するわけにもいきません。写真判定に持ち込まれれば明らかに不利。と言っても、もちろんそんな単純な判断で大統領が決まるわけではなく、現在の支持率横並びの状況はPT、とりわけルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルバ大統領の必死の工作が実った結果と言えるでしょう。
 「2 期務めたら次は子飼いを当選させて冷却期間を設けなければ、次々と在任中の汚職が暴かれてしまう」というのは、真偽はともかく、ブラジルの政界関係者がよく使う言葉です。たとえばサンパウロ市政では、パウロ・マルフ氏の子飼いのセルソ・ピッタ氏が後任市長に就任したものの、その後に関係が悪化してマルフ氏の不正蓄財といった汚職が明らかになるといった事件もありました。この言葉がルーラ大統領に当てはまるのかどうかはわかりませんが、後任大統領の候補に関しては異常なまでにロウセフ前官房長官にこだわってきたのは、よく知られる事実。連立政党の圧力どころか、PT 党内の圧力にもぶれることなく、一貫して(当初は有権者に全く無名だった)ロウセフ前官房長官を推してきました。
 圧倒的な支持率を誇るルーラ大統領ですが、その支持率はあくまでも個人のカリスマ性。現在でも、ルーラ大統領への支持= PT への支持という流れにはなっていません。しかし各種の支持率調査で明らかなことは、次期大統領に関して「ルーラ大統領が指名する後継者を、候補者が掲げる政策に係わらず支持する」という有権者が、全有権者の半数近くいるということです。そこでルーラ大統領が採用した作戦は、とにかく公務の場で自分がロウセフ候補を個人的に支持していることを示す、というものでした。もちろんこれは、選挙法違反。しかし、カリスマ的な人気で3 期目のないルーラ大統領にとっては、どうということもない話。いわば罰金を選挙活動費に置き換えた形で、7 月上旬までにすでに6 回、総額4 万2500 レアルの罰金が課されています。さらに7 月13 日にはブラジル版新幹線(TAV)の入札図書発表式でも、ロウセフ候補を同鉄道事業の立役者として称賛。さらに翌日の謝罪記者会見では、「言葉が過ぎた」と言いながら、「とは言え、実際のところ彼女がこの事業をスタートさせたのは誰もが知るところ」と畳み掛けるといったパフォーマンスぶりです。もっとも、ルーラ大統領はこの罰金を踏み倒すつもりのようで、現時点でビタ一文として支払っていません。
 もちろん、罰金を命じられているのはルーラ大統領にとどまらず、ロウセフ候補(7 月中旬までにすでに4 回)もセーラ候補(同じく1 回)も同様。候補者本人が違反をして罰金を食らっても、出馬そのものが失効しないところがブラジルらしいですね。

美代賢志 (みよ けんじ)
ニュース速報・データベース「B-side」運営。
HP : http://b-side.brasilforum.com



<クラッキ列伝>
第13回リヴェリーノ


 タンゴの国が敗退すれば、ブラジルは笑い、サンバの国が涙すれば、アルゼンチンが勝ち誇る――。サッカーに関しては互いに譲らない南米の両雄によるエピソードは数知れず。南アでもマラドーナは「ペレは博物館に戻るべきだ」と毒舌ぶりをアピールしたが、そんな隣国が生んだ最大の天才でさえも敬意を払う、ブラジ ルの英雄がいる。ペレの引退後、二度にわたってW 杯で背番号10 を背負ったリヴェリーノだ。
 ペレやジェルソンら数々の天才とともに自身初となる70 年メキシコ大会で史上最強軍団の一員として世界一を獲得。左サイドをアップダウンする戦術的理解度に加えて、パス、ドリブルの全ての要素を兼ね備えた攻撃的MF だった。中でもあのマラドーナが幼少時に憧れたというドリブルは代名詞。「必殺技」はエラスチコとして、最近ではロナウジーニョ・ガウショらが頻繁に使用するボールテクニックだ。
 第二次世界大戦終戦直後の1946年に生を受けたロベルトは、幼少から町中でのサッカーに明け暮れた。日が暮れてもボール遊びに熱中する幼きロベルトの名を叫ぶ、母の姿は町の馴染みの光景でさえあった。
 幼馴染との遊びを経て、リヴェリーノが最初に技を磨いたのがフットサルだった。その名の通り「ゴム紐( エラスチコ)」で足にボールをくくりつけたかのような、人為的なボールの動きで幻惑するフェイントの創設者は、実はコリンチャンスの下部組織時代のチームメイトだったセルジオ越後だったが、セルジオに教えを請うた天才児は、自らのアレンジを加え、目の肥えた王国のサッカーファンに左足一本で歓喜をもたらして いく。
 柔がそのフェイントならば、剛は強烈な左足のFK。「パターダ・アトミカ( 原爆キック)」とさえ称されたFK は、46 年たった今でも長いW 杯の名場面の一つとして記憶されている。
 ペレ引退後、エースとして背番号10 を背負って挑んだ西ドイツ大会。東ドイツ戦で、世界はペレの後継者たる者の凄みを知る。相手の壁に入った味方のジャイルジーニョがしゃがみ込んだ瞬間に、わずかボール1個あまりのスペースをリヴェリーノが左足で射抜き、驚愕のゴラッソ( スーパーゴール)。
 「78 年大会は僕の中で存在しなかった」と振り返るように最後のひのき舞台となった78 年アルゼンチン大会は控えが多く、わずか3 試合に終わるなどセレソンでの有終の美は飾れなかったが、ペレ引退後のW 杯で、二大会に渡ってエースナンバーを背負ったのはリヴェリーノとジーコ、そしてリヴァウドのみ。
 南アに向かうブラジル代表の後輩たちを、リヴェリーノはこう評していた。「今のセレソンには創造性がない」。その慧眼は、ドゥンガ率いる「鳴かないカナリアたち」の行く末を見通していた。

下薗 昌記 (しもぞの まさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002 年にブラジルに「サッカー移住」。約4 年間で南米各国で400 を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などに執筆する。現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。



ドゥンガ主義の結末

7月2日、ポートエリザベス。ドゥンギズモ( ドゥンガ主義) が南アフリカの地に無残に散った。8 年ぶりの世界制覇を目指したブラジル代表は、世界中の誰もが畏敬の念を抱く「セレソン」ではなく、単なる「ドゥンガ選抜」だった。

 負けの不思議の負けなし――。結果的に準優勝を果たすオランダ相手に前半は一方的な展開で押し込み、不運なー一見はだが―逆転負けを喫したかにみえたブラジル代表だったが、4 年間のドゥンガ体制で懸念された弱点が、一気に噴き出たのがこの大一番だった。
 「引いた相手を崩せるタレントがいない」「ボランチだらけ」――。数々のOB や評論家が懸念したカカー依存症。大会前から一向にコンディションが上がらない背番号10 について大会後、チームドクターは「W 杯でなければ強行出場させる状態でなかった」と釈明したが、明らかにカカーは本来の調子に程遠かった。1-0 で迎えたオランダ戦の追加点のチャンス。お得意の角度から放たれた一撃は相手GK の好守に阻まれたが、本来のカカーならば確実に蹴り込み、オランダの息の根を止めていたはずだった。
 皮肉にもドゥンガが何より重視し、これまではブラジルの得点となってきたはずのセットプレーが、2失点となって王国にのしかかる。4 年間のドゥンガ体制でついに見いだせなかった左SB の弱点は、ロッベンという世界屈指のアタッカーとの対峙で崩壊。2失点のセットプレーも左サイドで献上したものだ。一見、強固に見える堤防もアリの穴から崩壊するというが、所属クラブで左SB を務めていないミシェウ・バストスは遅かれ早かれ、強国の餌食になっていた。
 奇しくもドゥンガの愛弟子であるフェリペ・メロの不用意な退場劇ばかりが、取り上げられがちだが、左サイドを蹂躙するロッベンにいらついていたという伏線を忘れてはいけないし、今季所属クラブのユベントスで29 試合で5 度の退場を記録しているひ弱なメンタルの持ち主を、仮にラミレスが出場停止だったとしても大一番で起用した指揮官にも責任がある。
 最大の罪は、やはりドゥンガ自身にある。ガンソやネイマールら国内のクラッキを「経験不足」と切って捨てたものの、フェリペ・メロやミシェウ・バストスは経験十分だったのか?
 相手を「崩す」のではなく、「ボールを奪う」ことに主眼を置いた主に中盤の控え選手は、紛れもなく史上最低のサブだった。就任58 試合目にして初めての逆転負けを喫した指揮官は、専守防衛の選手が並ぶベンチを見て、頭を抱えたに違いない。おまけに、数的不利とはいえ、1 点を追う場面でルイス・ファビアーノに変えて、ニウマールを投入する不可思議な采配を披露。ネイマールやグラフィッチともにスペースのない展開では生きな いFW では流れを変えようもなかった。逆境で効果的な手を打てないのは、ドゥンガ同様に監督経験のないままW 杯に挑んだアルゼンチンのマラドーナも同様だ。
 豪華なタレント陣に過度の自由を与えた2006 年のドイツ大会。凡庸な陣容を、ピッチ内外での規律で縛った南ア大会。「機械仕掛けのカナリアたち」は、世界はおろか、自国の民さえ納得させることなく、エクサ(6 度目) への挑戦を終えた。

下薗 昌記


<開業医のひとりごと>
今月のひとりごと:『酒は百薬の長、にはなってないよな。』


東洋には古くから「酒は百薬の長」という言葉があります。実際ゆっくりと香りとコクなど味を楽しむ、酒席(コミュニケーション)を楽しむなどリラックスできますし、医学的には適量であれば末梢血管を拡張させ、血行をよくする作用など良い面は多々あります。でも現在の生活環境ではどうなのでしょう?結論から言うとカロリー摂りすぎの重要な要素になっているのではないかと思います。表の一般的なお酒とカロリーを見ると、例えばウイスキー1 ショット125 カロリー(成人男性の1 日の必要カロリーの約7%)で、数値的に見るとそんなにとんでもなくはないのです。オレンジジュース(生)で1 杯110 カロリーぐらいなので比較してもカロリー量としては殺人的ではありません。問題はカロリー量ではなく、それの取り方です。一晩でオレンジジュース5 〜6 杯は飲まないですよね。ところがウイスキーを5 〜6 ショットは心当たりのある方は結構おられるでしょう。また、黙々とウイスキーを飲むということはありません。必ずおつまみだの食事だのさらにカロリーが取り込まれます。下手をすると、夜の一食で一日の必要カロリーを摂取していたりします。

『さらに、お酒はストレスの発散に使用されるので、「楽しむ程度」ですまないことが多いのだな。元のストレス自体も身体に悪いし。ブラジルだとカイピリーニャが好きな邦人が多いのだが、1 杯300 カロリーだぞ!このような環境でメタボになるなといっても無理かな?』


秋山 一誠 (あきやまかずせい)。
サンパウロで開業(一般内科、予防医学科)。
この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@oriente.med.br までどうぞ。

2010年9月16日木曜日

木曜日の男、ペルーに行かせてもらう②(マチュピチュを見下ろす)


みなさん、こんばんは。
木曜日の男、きたです。

さて、今回もマチュピチュの続きです。

あ、前回のマチュピチュ分かりましたか?
インカ王の横顔に見えましたか?

※写真を大きく添付しておりますので、全体が表示されない場合があります。
 写真をクリックすると全体が見られます。
分かりづらかった方の為に、たて写真にてUPしますね。
山の部分が横顔に見えたら正解です。

マチュピチュには前回含めて2日間、堪能しました。
2日目にこのインカ王の横顔に見える山(ワイナピチュ)に上りました。
もちろん、頂上は鼻の頭です。
(マチュピチュとはケチュア語で『老いた峰』という意味で、
 一方、ワイナピチュとはケチュア語で『若い峰』という意味だそうです。)

ワイナピチュ登山は1日400人という入山規制があります(皆さん、注意して下さいね。)
朝4時には並ばないといけないということで、苦手な早起きを敢行。
やっぱり寝坊をしてしまい、5時に慌てて起き、マチュピチュまでのバス停に到着。
既に、バス停に長蛇の列。
入山規制人数に溢れるのではないかと心配するも、
7時の入山受付をなんとかクリア。(たまたま運が良かったのかもしれません。)

さてさて、ここからが険しい道の連続。
ものすごい傾斜の中、石でできた階段はあるものの、
足場がすごく悪く、注意して登らなければなりません。
(入り口と頂上までの高低差は300mで、ゆっくり行っても1時間程で到着します。)
階段の1段がすごく高く、また高所で空気が薄いため、すぐ息が上がります。
他の登山客も休み休みゆっくり登っています。
是非、ワイナピチュに登るなら慌てず急がず登りましょう。

登山路はこんな感じです。

やっとこさ、頂上にたどりつきました。
(ゆっくり登ったので約1時間半くらいでしょうか。)
さぁ、待望の頂上からの景色は!
こんな感じです!



なーんも見えん!


霧(雲?)がかかって、幻想的ではありますがね・・・

頂上まで、結構汗ばんでたのですが、頂上は非常に涼しく、実に快適。
霧(雲?)が晴れると信じて岩の上で仮眠。実に心地イイ。
(ちなみに、熟睡して寝返りうつと落ちますので気をつけて。)
昼前になったら、気温が上がり一挙に霧が晴れました。
(時間に追われてないなら、待ってみましょう。)
こんな感じです。
絶景です。
マチュピチュ遺跡が一望できます。
拡大するとこんな感じ。

この登っているワイナピチュにも遺跡群があり、
前回同様、「よくこんな所に・・・」 と何度も思いました。
絶景で、全然飽きません。
下山を決意したのは日差しが強くなったからで、
そうでなければ、きっと夕方までいたんじゃないでしょうか?

さて、帰り道。
ワイナピチュにはマチュピチュにある『太陽の神殿』と対にあたる、
『月の神殿』というものがあります。
正直、しんどかったので、行くつもりはなかったのです。
ところが、矢印のある方向が帰り道だと思ったら、
山の裏側に道が続いており、気付いたら1時間以上もさらに険しい道を
進むハメとなり、気付いたら月の神殿。

実は、特に感動はありませんでした。
だって、時間は昼の2時。そして、汗だく・・・
高所で息切れもヒドく・・・
腹ペコの上、喉はカラカラ・・・
遺跡を守るためか、ワイナピチュには食べ物の持込は禁止されています。
実は、ペットボトルの飲み物も禁止されています。(水筒ならOK?)

ところが、他の登山客は食べ物も飲み物もなぜかこっそり持参していて、
近くで飲み食いしています。
(ガセネタだったのか、はたまた、ルールを厳密に守ろうとした私がバカだったのか・・・
 ゴミをちゃんと持ち帰れば良かったのかもしれません。監視もあまり厳しくないようです。)

さらなる追い討ちは、近くの看板に

「マチュピチュまで1時間半」

という表示・・・

皆さん、『月の神殿』に興味がないなら、
来た道を戻る事をオススメします。
(だって、渇きと飢えと疲れで死ぬかと思ったもん。。。)

さて、マチュピチュ遺跡を2日間楽しんだわけですが、
皆さん、行った方がいいです。

幻想的で、不可思議で、
壮大で、緻密で、想像力を駆り立てられて、
なんとも一言でこれといった言葉では表わせませんが、

つまり、「行った方がいいです。」

日本から南米に来るのは24時間、往復2日。
ブラジルからなら、リマまで5時間で行けます。
ブラジルにいるなら、チャンスなのではないでしょうか?


今回、チケット手配・遺跡入場・観光バス・日程調整などの
ご協力いただいた旅行会社さんは、

ニッポントラベル 海外旅行社
Nippontravel Kaigai Turismo Ltda.
Av.Brigadeiro Luis Antônio,2466 - cj.21 - Jardim Paulista - SP
Tel / (11)3285-3633
       (11)3285-0702  日本語対応は 加藤さん・竹内さん

ありがとうございました。
また、お願い致します。



では、皆さん、また来週の木曜にお会いしましょう。

2010年9月15日水曜日

ピンドラーマ2010年8月号(その2)

<ブラジル版百人一語>
ルイス・ダ・カマラ・カスクード(民俗学者)


「ファリーニャ付きフェイジョンは先住インディオのものであり、煮込み肉や炒め肉が入るとポルトガル式となり、フェイジョアーダの通俗版ともいえるカルネ・イ・フェイジョァンとなる。黒人奴隷は、それぞれの要素を別々に受領して、インディオ的モデルを採用した。
肉ないし魚をファリーニャなしに食べることは出来ないからだ。(中略)
 我々が今日” フェイジョアーダ” と呼んでいるものは、ヨーロッパ的なソルーションであり、それが更にブラジルで進化し、完成されたものである。ポルトガルの技法とブラジルの原材料の合体だ。マルジャーダ、ノルデスチのファンダンゴ(南欧起源のダンス)、コンゴ、コンガーダ(アフリカ起源の舞踏様式)といった伝統的な宗教演劇や農村舞踏についても、(フェイジョアーダと)同様の、テーマ別集中・混合が起きている。」

 日本の民俗学における「旅する巨人」宮本常一は、その自伝的著書『民俗学の旅』のなかで、「人びとの日々営まれている生活をもっとつぶさに見るべきではなかろうか。民俗誌ではなく、生活誌の方がもっととりあげらるべき」と主張し、「無字社会の生活と文化」が民俗学の研究対象と規定しつつも、文献資料の尊重も強調した。一方、「ブラジルの宮本常一」と筆者が勝手に命名しているカマラ・カスクード(1898-1986) は、リオグランデ・ド・ノルチ連邦大学法学部教授(専門:国際公法)が本来の正業だが、並行して民俗学研究を行うという二足の草鞋を履き続けた奇才であった。
 速筆の文章家であった宮本常一は膨大な数の著作(未来社版著作集はこれまで42 巻)を残したが、カスクードも多作で、ある研究書によれば、その著作数は小冊子を含め144 とか。代表的なものだけを列記しても、『ツピー語魚名』、『ヴァケイロとカンタドール』、『モンテーニュとブラジルのインディオ』、『ブラジルの伝説集』、『ブラジル民話の地理学』、『口承文学』、『ブラジル民俗研究事典』、『ジャンガーダ』、『ハンモック』、『ダンテとブラジルの大衆的伝統』、『モーロ、フランス人とユダヤ人』、『カシャーサ序説』、『文明と文化』、『庶民の宗教』、『ブラジルにおける食文化の歴史』、というように民俗学、社会学、歴史学、地理学、文学といった境界を自由に飛び越えた作品群を残している。もちろん、” 本業” の国際法に関する論文もあるし、法学を修める前に医学を3 年まで学んだ人だけに、理科系の文献資料も自在に読み込んでいる。まさに博覧強記の異才だ。今流行りの言い方では、多文化主義の理論と実践を自ら展開した才人、となろうか。

サンパウロ大学やパリ大学から教授招聘の話が来ても、「故郷ナタールを離れたくない」からと、頑として固辞したカスクードは、自らを“provinciano incurável(救いがたい田舎者)” と称していたが、ノルデスチの一角から世界を見据えていたのであって、田舎に引き篭もった内向的郷土史研究者ではなかった。民話調査ではブラジル全土を歩き、食文化調査ではギニア・ビサウ、アンゴラ、モザンビークなどアフリカ旅行も行っており、実地調査できなかったところは、文献で世界を体験していた。なにしろ、古典語(ギリシャ語・ラテン語)はもとより、英語、フランス語、イタリア語などにも堪能であったから、史料の読み込みは半端ではなかった。
冒頭の引用は『ブラジルにおける食文化の歴史』の下巻からであるが、彼の主著の一冊といえるこの著書は今日の読者にとっても圧倒的に面白く、興奮するほど知的好奇心をくすぐる本だ。各章のタイトルを列記すれば、先住インディオ食文化、アフリカ食文化、ポルトガル食文化、食文化の社会学、基礎食材、料理法、食事のリズム、食事にまつわる迷信、ブラジルの飲料、ブラジルにおけるアフリカ料理の神話と現実、といったところで、ブラジルの食文化のルーツがどこで、オリジナルとどう変容ないしどう混合して現在の食事が出来上がったか、が詳述されている。文献調査から得られた知見と自らの調査・体験がカスクード風にカクテルされ、ノンフィクション作家の文体ともいえるような読みやすい文章でつづられているのだから、面白くないはずがない。
サンパウロやリオのアカデミズムの主流から外れていたが故に、一時期忘れられかけたカスクードだが、21 世紀に入ってから、主要著作選集が再刊行され、研究書も複数発表されている。遅ればせながらの“ カスクード再発見” といえよう。

岸和田仁(きしわだひとし)
東京外国語大学卒。二度目のブラジル滞在(前回と合わせると、延べ19 年間)を終え、09 年6 月帰国。
ブラジルを中心とするラテンアメリカ研究は継続中。著書に『熱帯の多人種主義社会』(つげ書房新社)。
新しい著書を” 工事中”。



<新・一枚のブラジル音楽>
エロマール「ガヴィオン河岸の崖より」 
ELOMAR “DAS BARRANCAS DO RIO GAVIÃO”
「エロマールElomar」。日本人にとっては奇妙な響きの名前を持つこのミュージシャンの存在をはじめて知ったのは、高校の同級生でボサノヴァ・アーティストの臼田道成がブラジルへやって来て我が家に仮寓していた2004 年の終わりか2005 年の初めのことだったろうか。臼田が友人に薦められたと言って持って帰って来た(買ったのかもらったのか記憶が定かでない)ブラジルの連続テレビドラマ「ガブリエラGabriela」のサウンドトラック盤は、マリア・ベターニアMaria Bethânia、ジャヴァンDjavan、ガル・コスタGal Costa、ジョアン・ボスコJoão Bosco といった日本でも有名な錚々たるMPB アーティストが名を連ねているのだが、アルバムの終わりのほうに一風変わったギターの弾き語りの曲があった。ビート(リズム)、コード進行、メロディー、カデンツ(終止形)など、私たち日本人がブラジル音楽としてイメージするサンバ、ボサノヴァ、MPB とまったく異なった聴き慣れない音楽。奇妙と言ってもいいかもしれない。しかしながら聴いていると引き込まれていく。それがエロマールの「Retirada(旱魃を逃れる移住のこと)」という曲だった。とても気に入ったのでレコード店を探して見つけ出したのが、ここで紹介する「Das Barracas do Rio Gavião」というアルバムだ。
エロマールはフルネームをエロマール・フィゲイラ・メロElomar Figueira Mello という。1937 年12 月21 日生まれ。バイーア州内陸部の都市ヴィトリア・ダ・コンキスタVitória da Conquista の近くにある家族所有の農場で生まれ育ち、バイーア連邦大学で建築学を修めたが、内陸部での生活を好み、大半の時間を農場で過ごしている。1950 年代から60 年代にかけてのブラジル映画一大ムーブメント「シネマ・ノーヴォCinema Novo」の旗手グラウベル・ローシャGlauber Rocha(1938 - 1981)、ミュージシャンのシャンガイXangai(1948 -)らと姻戚関係にあり、ともに18 世紀にヴィトリア・ダ・コンキスタの街を創設したポルトガル人ジョアン・ゴンサルヴェス・ダ・コスタJoão Gonçalve da Costa の直系の子孫である。
聴いてもらえばわかると思うが、エロマールの音楽は独特だ。「ポルトガル人がブラジルの北東部に持ち込んだイペリア半島とアラブの伝統の影響を受けた音楽」とウィキペディアでは説明されているが、筆者の限られた音楽体験の中においては、ユニークとしか言いようのないスタイルである。つぶやくような歌い方はボサノヴァの創始者ジョアン・ジルベルトJoão Gilberto を連想させるかもしれないが、ジョアン以上に枯れた声だ。全編ギター一本の弾き語りで、歌のメロディーを奏でながら同時に伴奏もするギターの奏法はオリジナリティに富んでいる。また、北東部の口語表現(とんでもないポルトガル語だ!と先生は言うかもしれない)をふんだんに取り入れた歌詞も特徴的だ。例えば本アルバムの2 曲目「O Pedido(頼み)」という曲の一部を挙げてみる。

Apois sim vê se num isquece
Quinda nessa lua chêa
Nós vai brincá na quermesse  
Lá no Riacho d'Arêa       
Na casa daquêle home     
Feiticêro e curadô        
Qui o dia intêro é home     
Fiiho de Nosso Sinhô      
Mais dispois da mêa noite    
É lubisome cumedô  

見ていなくても忘れない
今でも満月の夜に
「砂の川」の祭りの市へ
私たちは遊びに行く
あの男の家
魔法使いで治療師の男
昼間はずっと人間で
イエス様の息子
だけど真夜中を過ぎると
人食いの狼男

発音に擬して綴りを変えてあるし、文法的に間違った表現もあるが、自身が生まれ育った北東部の表現を、プライドを持って意図的に使っているのは間違いのないところだ。
驚くなかれ、本アルバムのライナーノーツを書いているのはボサノヴァ界の大御所ヴィニシウス・デ・モラエスVinicius de Moraes(故人)である。一部引用しよう。
「・・・そこでは彼(エロマール)同様生きるために水分を必要としない動物と植物だけが生き残るのだが、その場所に新たな境界標識の杭を打ち込み、友人たちすなわちガラガラヘビとタランチュラの間で安らいで、ギターを弾きながら美しいバラードの数々を作曲し、自分だけの星のプランテーションを眺めるのだ。目が空に慣れるにしたがい星は乾ききって容赦なく増えていき、視線は無限のラティフンディウムの中を、新しい天の農場をいくつも、向こうへ、ずっと向こうへと貫いていく。」
エロマールの暮らす北東部カアチンガ(乾燥地帯)の雰囲気が伝わってくるようだ。
本稿を書くにあたりインターネットでこのアルバムが入手可能か調べてみたが、見つからなかった。しかし、ブラジルのポータルサイトUOL の中のUOL RADIO で全曲フルタイムで聴くことができる。
http://www.radio.uol.com.br/album/elomar/...das-barrancas-do-rio-gaviao/18119
本人のオフィシャル・サイトもあり、ディスコグラフィーで本アルバム以外の作品も知ることができるので、ぜひアクセスしてみてはいかがだろうか。
http://www.elomar.com.br

川原崎隆一郎 (かわらざき りゅういちろう)
本誌発行責任者。1993 年よりブラジル在住。



夢のリオマラソン体験記

7 月18 日に行われたリオマラソン。そのハーフマラソンに参加したのはボクシング教室主催元日本ランカーのOさんとその仲間達4 名(女性1 名男性3 名)。それぞれのランナーの体験を語ってもらいました。

 今回のハーフマラソンは、セントロから南14km に
位置するサン・コンハード海岸を出発し、レブロン・
イパネマ・コパカパーナと世界に名だたる景勝海岸を
抜け、ボタフォゴ海岸からフラメンゴ公園に達する全
長21km のコース。
 道中の景色はそれはもう素晴らしく、青い海に青い
空、光り輝く砂浜、吹き抜ける潮風、ビーチで遊ぶビ
キニ姿のイパネマ娘たち、沿道の人達から声援を受け
颯爽と駆け抜ける我らアスリート。まさに世界中のラ
ンナーが憧れる夢のリオマラソン、のはずだったので
すが、スタート地点は小雨交じり。
 しかも最悪なことに、タクシーでスタート地点に向
かうもこの大会に伴う交通規制のせいで起きた渋滞の
ために、時間になってもスタート地点にたどり着けな
いという事態に。
 ところが、何とかなってしまうのがブラジルです。
周りの人たちもスタート時間は遅れ、しかもそぼ降る
雨に打ち濡れながらだというのに、すごくワクワクと
楽しそうにしています。


 実はその時、そもそも完走できるかどうかさえ不安
な我らメンバーはかなりナーバスになっていたのです
が、自然と彼らの陽気さに染まっていったような気が
します。

1)I さん

 スタート。いつもは最初の4㎞くらいがいちばん辛
い。一緒に来ていた仲間たちの姿はだんだん小さくな
り、そして見えなくなっていきました。

 そうこうしているうちにコースは上り坂に入り、リ
アス式海岸を旧市街に向かってそってくねくねと進
んでいきます。眼下には切り立つ崖を大西洋の荒波が
洗っています。そして前方遙かに見えるのは波間に浮
かぶ二つの岩山。そうだあれがカヘフール・・・じゃ
なかったポン・ジ・アスーカルです。
 しばらく走りながら、その美しいたたずまいにうっ
とりと見とれていました。そうだ私は今リオに来てい
るのだ。普通に日本で暮らしていたら行きたくてもな
かなか行けないような夢の景色の中を今走っているの
だと思うと、じわじわと感動が胸にこみ上げてくるの
を感じました。元気が戻ってきました。
 坂を下りればレブロン。それからはあっという間で
した。ハーフマラソンの21㎞は一般人にとって決して
短い距離ではありません。しかしこの日は、右に美し
い海岸線を見ながら、そして左にリオの人たちの声援
を受けながら無限のエネルギーを受けたような気さえ
していました。
 ふと周囲を見渡せば、いろいろな人がいました。後
ろ姿が抜群のスタイルの美しいお嬢さんもいました
が、それよりも目立ったのがシニアのランナーたちで
す。一人一人のランナーに、それぞれの人生がある。
当たり前のことですがふとそんなことを考えて思わず
胸が熱くなりました。しかしみんな例外なく、表情が
非常にいいのです。これがブラジルのとてもいいとこ
ろです。
 ますます大きくそびえるポン・ジ・アスーカルに見
守られながら、私もこんなブラジル人ランナーたちと
一体となって走りました。イパネマを過ぎ、コパカバー
ナを駆け抜けました。テンションはますます高くなり、
そしていつの間にかそれを通り抜け、反対側のフラメ
ンゴ海岸のゴールに滑り込んでいました。
 ゴールしてからも私はしばし呆然として快走の余韻
に浸っていました。
 これまでの私なら15㎞地点を過ぎたあたりでトラブ
ルが続出し、ペースダウンを余儀なくされたものです。
しかし今回はまったくそんな感じはしませんでした。
走ることがこんなに楽しいことだなんてついぞ思って
もみませんでした。
 最後に、2 時間を超えてレースの雰囲気を共有していただいたブラジル人ランナーの皆さん。沿道で手を叩いてくれたおばあさん。親指を立ててにっこりと微笑んでくれた男の子。無数のボランティアの皆さん。皆さんのことは決して忘れません。

2)Oさん
 人生初のハーフマラソン21kmに挑戦。
コパカバーナ海岸のホテルからスタート地点の海岸までタクシーで移動したが、その距離があまりに遠く、その移動の時点で参加したことを後悔。
スタート前に友人とGood Luck と声を掛け合うが、まだ覚悟のつかないままスタート。
小雨が強くなってきた、でもブラジル人は楽しそうに騒ぎながら走っている、「幸せな民族やな」、その横でまだ気持ちのスタートの切れていない自分がいる・・・。
最初の3km くらいまでは果たして完走できるのかという不安や毎日の出来事などが頭をよぎっていたが、少しずつランナーズ・ハイの状態に、そして5km も過ぎればブラジル人の笑い声もなくなり、皆黙々とゴールを目指し始める。
給水ポイントで水を取ろうとして一瞬止まりかけたが、そのときの前足の筋肉がピクピクと疲労を感じて、「ヤバイ、これは止まるともう二度と走れないな、よし、とりあえず行ける限界まで行ってみよう」と作戦を玉砕戦法に切り替える。
おそらくこのあたりからやっと前向きにマラソンを走りきろうという覚悟になってきたのだろう、ポジティブシンキングの重要性を実感。
6 キロ地点で海岸沿いの上り坂に差し掛かった。なぜか高校時代のマラソン大会の思い出に耽りながら、坂道でブラジル人のペースが落ちるなか少しずつ巻き返すのが何となく嬉しい。
8 キロ地点ほど来ると、体が慣れてきたみたいで意外に体が動くやん?!と少し楽しい気持ちになったと思えば突然体がきつくなったりと、1 キロ毎に体調の波が押し寄せるが、15km を過ぎコパカバーナ海岸まで戻ってきたら、よくここまで走ったなーと。あとは根性でゴールを目指す、最後は右にポンジアスーカルを眺めながらゴール!!
あのタクシーで移動した長い距離を自分の足で走れた、ということに不思議な満足感がありました。

3)T さん
スタートしていきなり水たまりに足を入れてしまい靴の中ビッショリ。
それでもめげず、いつものように自分と同じ走力の適当なペースメーカーを探すも、今回はなかなか見つからず。15 分ほどしてようやく見つけたのがポパイにでてくるブルートそっくりのおやじ。

 でもこんなデブおやじで大丈夫かな。しばらくそのブルートにピッタリついて走る。あれっ、調子わるい。ブルートについていけない。20 分後ズルズルと離されブルートとはさようなら。 次に見つけたのがドラえもん体型の眼がクリっとしたブラジレーラ姉さん、ドラミさん。ドラミさんはペースがチグハグで後ろについて走るには向いてなかったけれど、なぜかガンバってる姿が初々しく、結局終盤までダンゴのような併走。 でも最後はブルート同様置いていかれて、さようなら。あぁ、足が動かない…。最後まで調子はあがりませんでしたが、終始ポン・ジ・アスーカルに見守られ、「あとXX km」の看板を心の支えにどうにかゴールまで辿り着きました。 同行した仲間4 人も皆無事完走を果たし、各自それぞれのドラマと次なる野望を胸にリオをあとにしたのでした。お疲れさまでした。


最後に色々と御手配頂いたリオマラソン公式スポンサーのAsics 社の皆様にこの場を借りて御礼申し上げます。



世界遺産の街 アルヴァドール Salvador

16 〜18 世紀の間、ブラジル最初の首都として約200 年間栄華を誇った街サルヴァドール。アフリカからの奴隷貿易の中心地であったためアフリカ文化の影響が今でも色濃く残っており、また町中至る所にカトリックの教会があるため、「黒いローマ」と呼ばれている。



1985 年にユネスコの世界文化遺産に指定された旧市街・ペロウリーニョ広場

旧市街(セントロ)は石畳が敷き詰められた道に、バロック様式の建築物が数多く建てられており、静かなたたずまいの中に、古都のありし日の歴史を物語っている。

黄金の教会


数多くある聖堂のうちでも、最も有名なのがサン・フランシスコ教会だ。聖堂内部は壁も天井も祭壇も、金箔で埋め尽くされており、その内装の豪華さから“ 黄金の教会” と呼ばれている。青と白のタイル画の画廊に囲まれた中庭も見応え十分だ。

奇跡の教会

願いがかなう“ 奇跡の教会” として篤い信仰を集めているボンフィン教会。特に怪我や病気に効くということから、教会の内部には治った人が感謝の気持ちを込めて贈った、マネキンの手足や結婚式の写真、子供の写真がたくさんある。

迫力満点の郷土芸能ショー

旧市街にあるTEATRO MIGUEL SANTANA では、 カポエイラや火のダンス、サンバやカンドンブレーなど郷土芸能のショーをじっくり堪能することができる。

ウミガメ保存プロジェクト

プライア・デ・フォルテ海岸は、ウミガメの産卵場所として知られている。海岸にあるウミガメ保存プロジェクトの本部では大小様々なウミガメのほか、色々な海の生物を間近に観察することができる。



<パサリニャー!!>
ブラジルの鳥を見に行こう!


ROLA(ホーラ)
学名:Columbina talpacoti
和名:ケアシスズメバト

「ノアの箱舟」という言葉を聞いたことのある方は多いと思いますが、その動機や経緯、結末までご存知の方はそれほどいらっしゃらないかも。
世の中を暴虐で満たした人類を根絶するために、神が、公正な人・ノアに命じ、彼の家族のほか、すべての生物種から一番(ひとつがい)だけを船に乗せ、世界全土を覆いつくす大洪水からそれらの命を保たせた、というお話。
なにやら、今日起こっても不思議でない、耳の痛いお話です。
40 日の後、ノアはある鳥を放ち、鳥がオリーブの葉を持ち帰ったことで、洪水の終息を知ることになりますが、この鳥がハトでした。
人類とは古いお付き合いです。
その後の中近東古代社会でも、ハトは神へのお供え物として指定されていました。
古くから相当身近な鳥だったのでしょう。
日本でもそんなに遠くない昔、ハトは平和の象徴として記念式典などで大量に放たれました。そういったハトはお寺の境内などに群生、ちょっとした、もしくは深刻な環境問題になってもいるようです。
だから現代でもやはり相当身近な鳥で、スズメとどうか、というレベルです。
身近の度合いが強すぎて、逆にあまりインパクトがない、というのも事実で、バードウォッチャーなどの熱烈な対象となっているという話は聞いたことがありません。
サンパウロにもやっぱりいっぱいいます。 家禽(かきん。飼育する鳥)が野生化したドバトを除く野生種の代表がこれでしょう。
もちろんサンパウロのみならずブラジル全土に分布、ブラジルでももっとも普通のハトです。
もともと草原などの開けた場所を好み、大都会の公園でもよく見られます。
体長が17cmほど。日本で普通に見られるドバトやキジバトが30cmほどですから、印象としてかなり小型ですね。公園を散歩していると数羽の小鳥が一斉に飛び立つことがよくあります。それはスズメであることもありますが、案外このハトだったりします。大きさも色合いもなるほど遠くから見ればスズメに似ているかも。それでついた和名が「雀鳩(スズメバト)」いうわけでしょうか。「ケアシ」は「毛足」でしょうが、見た目それほど毛深くはないようです。
羽ばたく時にちょっとオカリナを吹くような音がするのでスズメとは容易に区別できるものです。
ご夫婦で公園へ出かけられる機会、ありますか。このハトを追いかけて観察を続けると、木の枝に番でとまり、仲睦まじくお互いの羽繕いなどをしている姿が見られます。
そんな光景を見上げながら、ベンチで語り合うなんて、ややレトロでしょうか。

服部 敬也(はっとり ひろや)カンポグランデ在住
hiroya@terra.com.br
http://blogs.yahoo.co.jp/momotusmomota

2010年9月14日火曜日

ウラぐるめ第二弾、、、

鉄砲玉・銚子の『さんぱうろ ウラぐるめをっちゃー』、、、


2回目の今日は、、、


『KI-SALGADO』というお店です、、、




場所はリベルダージのRua Galvão Bueno,656、、、


(日本食レストラン『喜怒哀楽』のお隣です)、、、


前回もRua Galvão Buenoの店だったじゃん、、、


とりあえず、鉄砲玉の生活圏内からお届けしていきます、、、


この店も『さんぱうろ ウラぐるめをっちゃー』の基本コンセプセトである、、、


「味よりも値段が安いことを重視する」、、、


を見事にパスしています、、、


名前の通り、SALGADOしか置いていませんが、、、



驚くべきはその値段、、、


1個50センターボという安さです、、、


サイズはBARなどで売っているものよりも、少し小さめですが、、、


値段も安いし、小さいので少しずついろんな味が楽しめます、、、


ずらりと並んだ大量のSALGADO、、、


FOLHA  FOGAZZA  COXINHA  ESFIHAなどがあり、、、


それぞれにカラブレーザ、プレズント、ケージョなどの味があります、、、





FOGAZZAのプレズント味を注文、、、


いつもは頼まないのですが、ブログのために大奮発して、、、


これまた1杯、50センターボのマラクジャ味(パッションフルーツ)のジュースを頼んでみました、、、


この店は安いせいもあり、客の回転率がいいので、、、


常にアツアツのSALGADOが食べられます、、、


ジュースも300ml以上はありそうな大きなコップで出てきました、、、


そのせいか、1個SALGADOを食べただけではかなりジュースが余ってしまったので、、、


さらにSALGADOを2個注文、、、





COXINHAの鶏肉味(写真左)とFOLHAのハム&チーズ味(写真右)を追加注文、、、





COXINHAはいたって普通の味でした、、、


基本的に店の中は立ち食いスタイルでイスなどはありません、、、


テイクアウトもできます、、、


さらに驚いたことに、、、


フェスタ(パーティー)用のミニSALGADOの注文も受け付けているようです、、、



なんとミニSALGADOが100個で15ヘアイスだそうです、、、


相当、小さいサイズが届くと思いますが、、、


勇気のある人は注文してみてください、、、




ピンドラーマ2010年8月号(その1)

ピンドラーマ2010年9月号(vol.51)すでに発行・配布済みですので、先月号(8月号vol.50)の内容をアップします。
弊社のホームページを刷新しましたので、ぜひご覧下さい。
http://www.editorakojiro.com

(川原崎)





<移民の肖像>

【シベリア抑留経験者の谷口範之(たにぐち・のりゆき)さん】


「何を今さら、という感じ」―。2010年6月16日、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)案が、日本の衆院本会議で可決され、元抑留者への特別給付金支給が実現することになった。このことについて、サンパウロ市在住の
谷口範之さん(85、広島県出身)は、低い声で冒頭の言葉を呟いた。
旧満州北西部でのソ連軍との戦闘後、捕虜としてシベリアに約1年3か月間抑留された経験を持つ
谷口んは、広島市内の旧制中学を繰上げて卒業した後、先輩のつてなどで単身17歳で満州の新京へ。同地の「満州電信電話株式会社」に事務員として入社した。
1945年3月、関東軍の第119師団歩兵第254連隊第3機関銃中隊に入隊。満州北西部の大興安寧山脈の海抜1800メートル地帯に設営された免渡河(めんとか)に駐屯した。同地の一個連隊は約3千人。中隊には約200人が所属し、同期は約40人が一緒だったという。
「1944年の10月前後には、関東軍は主力部隊を南方に移していました。今から思えば我々は、その穴埋めのためにソ連国境へと配備され、捕虜になるために行ったようなものでした」
45年8月、ソ連軍は満州に侵攻を開始。同月6日未明に本隊からの命令により、免渡河から約80キロ離れた伊列克図(いれくと)へ移動。同月13日、
谷口さんが所属していた第3機関銃中隊に出撃命令が出され、伊列克図の西丘陵部先端に広がる台地に配備された。
翌14日午前9時頃、西方面の地平線からソ連軍の戦車が姿を現した。自軍の砲弾が戦車に直撃したが、よどみもなく前進を続ける戦車群を目の当たりにし、「どうにもならない」との気持ちが
谷口さんの心を支配した。
「頭の上を砲弾が飛び交い、本当に恐ろしかった」と
谷口さんは、当時の様子を生々しく振り返る。
同月18日、壊滅状態の中で最後の出撃命令が下り、「生きては帰れない」と覚悟を決めた際、「終戦」の報が届いた。鉄道駅近くで武装解除となったが、3千人いた一個連隊は、半数近くに減っていたという。
45年9月2日、博克国(ぶはと)の陸軍病院跡に一時的に収容されていた
谷口さんたちは、日本軍の佐官とともに壇上に立ったソ連軍の将校から、捕虜たちが汽車に乗って日本に帰れるということを説明された。誰もが日本に戻れると思っていたが、日本に帰れないと気付いたのは翌朝、太陽が汽車の前方ではなく、後方の東側から昇ってきた時だった。
「騙されたと思い、絶望的な気持ちになりましたよ」
谷口さんたちが抑留されたラーゲリ(収容所)は、チタ州モルドイ村。北緯50度、東経111度、海抜3000メートルの僻地だったが、火力発電所があり、その付近には発電所用の炭鉱もあったという。
収容所では朝晩2回、塩汁だけの食事が続き、数日後に高粱(こうりゃん)の実が50粒ほど塩汁の中に入れたものが出されたが、腹には溜まらなかった。
空腹の上、極寒の地での強制労働を課せられた。作業内容は、発電所用貯水池のための土手の嵩(かさ)上げで、ツルハシやスコップなどで凍った地面を掘るのだが刃が立たない。防寒帽、防寒大手套(だいしゅとう)などの防寒具を与えられたものの捕虜たちは夏服のため、寒さと重労働で日本兵たちは次々に倒れていった。モルドイに収容されたのは当初、約620人だったが、そのうちの約260人が亡くなり、遺体の山が積まれたという。
収容所の身体検査により、体力が低下していると判断された
谷口さんはシベリアの各収容所を転々と移動させられた後、46年の12月、夢にまで見た日本に帰れることになった。北朝鮮の元山(げんさん)から船に乗り、翌47年1月9日に長崎県佐世保港に着いた。
「大陸を移動中は、どこを通っているのか分らず、再びシベリアに戻されるのではないかと日本に帰れることを本気にはしていなかったが、日本に着いた時には言葉では表せなかった。本当に感無量でしたよ」と
谷口さん。数多くの同志たちがシベリアで亡くなった中、生きて帰れたことに複雑な思いを持っていた。
故郷の広島に戻り、戦後満州から引き揚げた節子夫人と24歳で結婚した
谷口さんは、57年に家族で渡伯。アマゾンのグァマ移住地に入植した。その後、サンパウロ州ピエダーデなどでの農業生活を経て、現在はサンパウロ市に住んでおり、92年5月末には「シベリア墓参団」の一員としてモルドイの地を再び踏みしめた。谷口さんの自宅には、モルドイを再訪問した時の写真が今も飾られている。

松本 浩治(まつもと こうじ) 在伯14 年。
HPサイト「マツモトコージ写真館」
http://www.100nen.com.br/ja/matsumoto/



<ブラジル面白ニュース>
躍進するブラジル、こんなことで世界第3 位!

経済成長著しく、BRICs の一員として世界的に着実に存在感を増し続けているブラジルですが、こんなことでも世界で3 番目に入ってます。

#「Qualidade de Morte」
ブラジルが世界で3 番目になったのは、エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)というイギリスの国際経済誌「The Economist」の企業間事業部門で、世界の政治・経済に関する詳細な分析、予測やデータを提供する調査・コンサルタント会社が行った「死に際の品質ランキング」。経済協力開発機構(OECD)加盟30 か国とその他10 か国の医師・専門家などを対象に、死に際における保健医療システム、コスト、文化的障壁、鎮痛剤の使用などの統計から順位をつけたものです。
 でも、「世界40 カ国中、第3 位だなんてブラジルも大したものだ」と思ってよく読んでみたら・・・3 番は3 番でも、ワースト3 位でした(苦笑)

#40 か国中、38 位
 「死に際の品質ランキング」のトップに君臨するのは、終末期医療サポートやホスピス間のネットワークが充実している点が評価されたイギリス。オーストラリアとともに、7.9 ポイントを獲得しました。
 そして、“ ベスト” から数えた3 位は、ニュージーランドで7.7 ポイント。その他の先進国では、アメリカが6.2 ポイントで9 位でした。
 一方、ブラジルはたったの2.2 ポイントで38 位。
ブラジルよりポイントが低い国はウガンダ(2.1)とインド(1.9)だけでした。新興国の中国は2.3ポイント、メキシコも2.7 ポイントでブラジルより上位についています。

#老後はどの国へ?
 EIU いわく、先進国のなかには、保健医療システムが充実していても、終末期の患者に対して痛みや恐れを緩和するケアが充実していないなど、死に際の品質が悪い国があるとか。確かに、「死に際品質ランキング」で福祉に手厚いイメージのあるデンマークが22 位、イタリアが24 位、国際社会で頭角を現して久しい韓国が32 位というのは驚きでした。イギリスは保健医療システムはそれほど最新的ではないものの、この緩和ケアに対するトレーニングや鎮痛剤の使用、医者と患者の間の透明性などがポイントアップの理由として挙げられています。
 ちなみに、日本は23 位。「老後は日本へ再移住!」なんて考えていましたが、28 位というのは、もの凄くいい医療が受けられるという訳でもなさそうな・・・。うむ、もう少し検討してみた方がいいような気がしてきましたよ。

門脇 さおり 島根県出身。会社員。2 児の母。



<移民レポート>ナイジェリア編

 サンパウロ市のセントロ地区に立つ一棟のビルに入ると、表通りに比べて肌の黒い人々の出入りする割合が多いことに気づく。彼らと一緒にエレベーターに乗り込み階上のフロアに降り立つと、アフロ・ブラジルの空気とは微妙に違い、聞こえてくる言葉もポルトガル語だけではなく、英語や聞き馴染みのない言語を話す人々が行き交う。ここには小さなアフリカン・コミュニティーが形成されており、ブラジル人に混じってナイジェリアなどのアフリカ出身者が集まってくる。

◆アフリカ人の集まるビル

Rua 24 de maio,116 のビル内には、ナイジェリア人をはじめ、ブラジル人やアフリカ人が経営する商店や美容室などが雑居する。
 各階のフロアやギャラリーでアフリカ人同士が出会わすと、ポルトガル語、フランス語、英語、さらにイボ語やヨルバ語などアフリカ土着の言語が入り混じった会話が飛び交う。ナイジェリア出身者の場合、母語の民族語が違えば、英語での会話が便利というのは本国でもブラジルでも変わらない。

◆ナイジェリア映画界のホープが来伯!

ナイジェリアの映画製作本数はインドに続いて世界第二位といわれる。2008 年にはナイジェリア映画界NOLLY WOOD のホープであるDesmond Elliotがブラジルで新作映画『Brasilian Deals』(2009 年公開) を撮影するために来伯し、ブラジルのナイジェリアン・コミュニティーの話題をさらった。
 ナイジェリア人が経営する雑居ビル内の食料雑貨店では、ナイジェリアのDVD が多数販売されている。DVD の他にもナイジェリア料理で使われる様々な食材や燻製ダラ、日本食で利用する煮干し( ナイジェリア料理で使う) なども販売されている。ビタコラというナイジェリアで一般的な種子も売られ、咳止めや胃の調子を良くする効果があり、ブラジルでもナイジェリア人は民間薬としてよく利用する。

◆ナイジェリア料理の食べられるレストラン
 アフリカ料理レストラン『MAMA』は、ナイジェリア人のジェームス・オケレケさん( イモ州オグタ出身) がオーナー兼シェフを務める。ジェームスさんはナイジェリアでもレストランを経営しており、1993 年に海外生活に憧れブラジルに渡り、2008年に『MAMA』をオープンした。
 『MAMA』には昼食や夕食時になるとナイジェリア人をはじめとするアフリカ出身者が多く訪れる。ナイジェリア人のお客さんはとても礼儀正しく、キリスト教徒の場合は食事の前に十字を切ってお祈りし、帰り際にはレストランに居合わせたお客さんやオーナーに対してあいさつを交わす。とても謙遜した物腰が印象に残る。
 ナイジェリア料理を代表するエグシーほか、主食のフフー、肉料理のセサラ、臓物料理のオックロ、魚のスープ料理など、日替わりでアフリカ料理が用意される。どの料理も唐辛子の辛さがアクセントで、フフーと食べ合わせるとマイルドな味わいに変化する。
 米と小麦を火にかけながら練った餅のような主食のフフーは、手で適当な大きさにちぎってこね、うま味のあるソースをつけながら食べられる。指先を使う食事のため、料理の横には水の入ったフィンガーボウルが添えられる。

◆近年、ブラジルに渡ったナイジェリア人について

【留学生グループ】
 ブラジルのナイジェリア移民の状況について、ブラジル・ナイジェリアン・コミュニティー代表のチブゾー・T・ンワイケCHIBUZOR T. NWAIKE さん(50歳) に話をうかがった。
 チブゾーさんは「近年、ブラジルでのナイジェリア移民が増えたのは、ここ10 年から15 年くらいのことです」と説明する。それ以前、ブラジルに渡ってきたナイジェリア人は主に留学生で、チブゾーさんも留学生の一人として28 年前にブラジルに渡った。
 ナイジェリアから最初の留学生グループがブラジルを訪れたのは1977 ~ 78 年ごろのことで、以後、毎年数名のナイジェリア人留学生がブラジルに渡り、これまで大学卒業後にブラジルで定住した者も少なくない。留学生だったナイジェリア人はブラジルで起業する人や、医師(12 人)、建築家(6 人)、弁護士(4 人)、薬剤師(2 人)、理工系の技術者(4 人)などとして活躍するなど、確実にブラジルでの生活基盤を築き上げている。
 チブゾーさんはナイジェリアのイモ州ムバノMBANO 出身。ナイジェリアの公用語は英語で、生まれ故郷の民族語はイボ語である。
 ナイジェリアで高校を卒業した後、国家機関で働きながら、22 歳の時にブラジルへ留学する機会を得た。当時のナイジェリアでは無償で留学させてくれるアメリカ大陸の国はブラジルのみだった。チブゾーさんはブラジルの奨学金を得てナイジェリア人留学生として受け入れられた。
 ブラジルに来たばかりの時はポルトガル語の壁にぶつかったが、サンパウロ大学で外国人のためのポルトガル語講座を受け、その後ジュイス・デ・フォーラ大学(MG) やモジダスクルーゼス大学(SP) で法学を学び、現在では仕事にも支障なくポルトガル語を使いこなす。
 大学卒業後、サンパウロで美容化粧品会社を興し、黒人向けの化粧用品を生産するほか、海外から輸入する仕事なども手がけている。「ブラジルではアフロ向けの化粧品市場は裾野が広いと思います」と、化粧品業界に参入したきっかけを話してくれた。現在はブラジル人女性と結婚して9 歳と11 歳の子どもがいる。
 チブゾーさんにナイジェリア移民に関して訊ねてみた。
Q. ブラジルとナイジェリアに違いはありますか?
チブゾーさん(以下C.)特に目立った違いは女性の服装です。ブラジル女性の服装はかなりオープンですが、ナイジェリア女性は肌の露出度が少ないです。
Q. ナイジェリア移民は子どもの教育に何を重視していますか?
C. ブラジルに暮らすナイジェリア人の子どもは主にポルトガル語を話し、ナイジェリアの文化に触れる機会も少ないです。でも、子どもたちはまず人として大切なこと、真面目に生きることや人を尊敬することなどをしっかりと身につけるべきです。ナイジェリアと比べるとブラジルでは両親に敬意を表すような子育てが少なく感じます。例えば、ナイジェリアでは両親に対して朝晩の礼儀正しい態度でのあいさつは欠かせません。
Q. ナイジェリア・コミュニティーの目的は?
C. ブラジルに暮らすナイジェリア人は個々に生活していますが、同じルーツを持つ者が集まってナイジェリア文化を発信することなどを通じて、まとまっていければと願っています。そのため、ナイジェリアン・コミュニティーの事務所もナイジェリア人の多く生活するセントロ地区に置いています。サンパウロ初のナイジェリア文化のイベントを開催することも考えており、ナイジェリアの様々な文化を紹介したいと思っています。

【近年の傾向】
 近年、ブラジルに渡ったナイジェリア移民は、サンパウロを中心に約2000 人がいると推定されている。不法滞在者として留まる者も少なくなかったが、2009 年の恩赦によって、多くのナイジェリア人が永住権を獲得した。移住の動機は海外生活への憧れや夢、冒険心が大きいという。
 ナイジェリア移民は郷里の公用語である英語や母語(民族語)とポルトガル語の違いから、ブラジルに来たばかりのころはコミュニケーションに困難を感じるという。新移民は心のより所を求めて、ナイジェリア人が多く集まるサンパウロのセントロ地区などで生活をスタートさせ、様々な仕事に従事してきた。小規模ながら、美容室やレストラン、ナイジェリアの食料雑貨店、服屋など、個人で店を営業する者も目立つ。
 キングスKINGS IKECHUKWN さん(43 歳) は現在、Rua 24 de maio のビル内で化粧品を販売している。ナイジェリアの首都ラゴス出身で、民族語はイボ語である。ナイジェリアでは機械工であり、化粧品店も営んでいた。約8 年前に海外生活を夢見てブラジルに渡ったが、ブラジルに到着するや持参金は瞬く間になくなり、言葉の壁にもぶち当たった。当初は生活できないような状況も訪れたが、ブラジル人の人情に触れ( 大変な時に食事や食材を提供してもらうなど)、ブラジルで生きていく勇気を与えられたという。
 約4 年前には既に結婚していた妻のヘレンさんもサンパウロに呼び寄せ、小さな化粧品店を開いた。最初に店を構えたリオブランコ大通りの店舗では、開店して間もなく強盗に襲われ全て商品を持ち去られてしまった。その後、心機一転して現在の場所で店を開き、地道に営業を続けている。土日は家族との時間を大切にし、日曜には信仰するキリスト教会のミサに通う。

◎インフォメーション
・アフリカ料理レストラン『MAMA』
Rua 24 de Maio,116 -2°andar -Cj. 24 e 25 - Centro
tel : 8589 - 9553
・アフリカの民芸品店『Mãe África』
経営者の一人がナイジェリア人というアフリカン・テーストのお洒落なショップ。ナイジェリアの伝統民族衣装から現代風にアレンジされたお洒落なデザインの服、アクセサリー、アフリカから直輸入された民芸品、CD、本など、見ているだけでも楽しい。
【República 店】
Pça da República ,137 - Centro - São Paulo 
tel : 3231 - 4480
( 月~金: 9 時~ 20 時、土・日:11 時~ 17 時)
参照サイトhttp://www.maeafrica.net/pg2.htm
《注》ナイジェリア人のコミュニティーでは、無断の写真撮影は厳禁です(ナイジェリアの習慣に敬意を払うため)。

企画: ピンドラーマ編集部 
文・写真: おおうらともこ



<ブラジルの鉄人たち>
日本で活躍する演歌歌手 ホベルト・カザノバさん
ROBERTO CASANOVA


今年3 月6 日、ブラジル人のホベルト・カザノバさんが南国らしい明るい話題を日本全国に届けることになりました。「NHK のど自慢チャンピオン大会」に出場し、五木ひろしの『契り』を熱唱して見事全国優勝を果たしたというものです。チャンピオン大会の出場前と優勝後には、グローボ局の人気番組ファンタスチコでもホベルトさんのドキュメンタリーが報道されました。
現在は日本の静岡県を拠点に生活しているホベルトさん家族ですが、ブラジルの有名司会者Luciano Huck氏の番組「Caldeirão do Huck 」で有望新人歌手として紹介されるため、その収録で5 月4 日から7 月24日までサンパウロに滞在していました。ブラジル各地から公演依頼の声もかかり、7 月16 日にはリベルダージ地区の客家(ハッカ)センターで盛況の特別ショーも開催しました。

Pindorama( 以下P): ホベルトさんの生年月日と出生地は?
Roberto( 以下R): 昭和42(1967) 年6 月20 日生まれで43 歳になります。サンパウロ市出身です。
P : ホベルトさんの日本の歌との出会いを教えて下さい。
R : 若いころ、友人が日本の歌を歌っているのを聞いて最初にメロディーがとても気に入りました。その時の歌は『夏の終わりのハーモニー』でした。
P : 演歌のどこが魅力ですか?好きな演歌歌手は?
R : 日本人の心のルーツを感じることができ、音楽がとても美しいと思います。好きな演歌歌手は五木ひろしさんです。
P : これまでブラジルの日系社会の大会などでも受賞されていますが、簡単な経歴を教えて下さい。
R:1989 年にサンパウロ市のビラ・カホンで出場した日本人コミュニティーのブラジル歌謡協会の大会で初めて新人賞2 位を獲得しました。1996 年には大会の副賞で日本へ初めて4 日間旅行させてもらいました。その後、2001 年と2002年にブラジル歌謡協会全伯大会とサンパウロ州選抜カラオケ選手権で優勝しました。
P : 日本で暮らして4 年目になるとのことですが、きっかけとなった日本人の奥様との出会いは?
R : 2005 年末にサンパウロ市で妻の美香と知り合いました。彼女はボサノヴァ歌手で『コルコバード』を歌う姿がとても魅力的でした。彼女との結婚を機に2006 年に日本へ渡りました。
P : ブラジル人が演歌、日本人がボサノヴァを歌うことについては?
R : とても自然なことに感じます。今は妻にボサノヴァを教えてもらい、私が彼女に演歌を教えていますが、彼女は演歌の「こぶし」がとても難しいと話します。
P : 日本に渡ってからの生活は?
R : 生活のために工場で約3 年働いていましたが、不景気で約1 年前に解雇となりました。日本に渡った当初から夫婦であちこちのショーやイベントに出演し、歌手活動も行ってきました。
P : NHK の大会で優勝してから変化したことはありますか?ブラジルのご家族や友人の反応は?
R : 日本で通りを歩いていると声をかけられることが多くなりました。両親はもう天国ですが、兄弟や友人と一緒にとても幸せだと喜んでくれています。
P : 今後はどのように活動していきたいですか?
R : 健康に気をつけながら、歌へのピュアな気持ちを忘れず、色々な方に喜んでもらえるような人生を歩んでいければと思います。歌手として大成できるように一歩一歩進んでいきたいです。日本に帰ってからはショーやイベントへの出演が予定されています。7月16 日には演歌『風花』、妻とのデュエット曲『未来( あす) への道』、ブラジルの著名なRick Bonadio 氏がプロデュースしてくれたポップミュージック『KOKOROKARA( 心から)』など全5 曲を収録した新作アルバムが日本で発売されます。
P : 最後に、ホベルトさんの魅力は何ですか?
妻の美香さん : みんなに愛される優しい人柄です。

今回、ピンドラーマのインタビューの聞き手としてお会いしたホベルトさんですが、偶然にも8 年前、風邪症状でもうろうとしていた時にサンパウロ市内で初めてお会いしていました。その時の出会いは、見ず知らずの日本人に対してどこからともなく熱さましを届けてくれ、そのまま去って行ってしまったというものでした。
人知れず陰徳を積むという日本の古きよき心を持ったホベルトさんの演歌は、国籍を超えて人情に響く歌声です。ぜひ一度、NHK のど自慢チャンピオン大会(2010 年3 月6 日) の様子をインターネットのYou Tube などで観賞してみて下さい。 

インタビュー日:2010/7/6

取材・文=おおうら ともこ